Photographer's File

 #17:石田昌隆

取材・撮影・文  HARUKI



石田昌隆(いしだ まさたか)

プロフィール:1958年千葉県市川市生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。著書は2009年「オルタナティヴ・ミュージック」(ミュージック・マガジン)、1999年「黒いグルーヴ」(青弓社)。共著は「Ruffn' Tuff」(リットー・ミュージック)ほか多数。現在「ミュージック・マガジン」誌に「音楽の発火点」を連載中。訪ねた国は50か国以上。撮影したCDジャケットは、「Relaxin' With Lovers」のシリーズ、ジャネット・ケイ「ラヴィン・ユー・モア」、ガーネット・シルク「キラマンジェロ・リメンバーズ」、シャインヘッド「So Good」、スリラー・U「ノー・サレンダー」、ローラ・ニーロ「ライヴ・イン・ジャパン1994」、ジェーン・バーキン「コンサート・イン・ジャパン」、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス「バンド・オブ・ジプシーズ」、ノア&ギル・ドール「ノア&ギル・ドール」、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン“The Last Prophet”、デティ・クルニア「ダリ・スンダ」、フェイ・ウォン「ザ・ベスト・オブ・ベスト」、ビヨンド“樂與怒”、矢沢永吉「The Original 2」、カーネーション「Angel」、ソウル・フラワー・ユニオン「Winds Fairground」、ズボンズ「ボム・ユー・ライブ」、トシユキゴトウ「トゥーウェイ・トラフィック」ほか多数。



写真家としてだけではなく、音楽評論家でもある石田昌隆

 彼には、世界の裏側で眠っているボクたちが知らない、多くの良質な音楽の生き証人として、これからも我々に写真と文章で紹介していって欲しい人間なのだ。


「僕らより上の世代はアサヒグラフをはじめとして外国で写真を撮っているフロンティアがたくさん居たじゃない。例えば吉田ルイ子さんみたいにニューヨークで黒人たちの写真を撮ったり、藤原新也さんみたいにインドへ放浪に行ったりとかあったけど、僕らの世代ってもう何をやっても二番煎じで。10代で真剣に写真をやろうってしたら、僕の周りでは天体写真か鉄道写真しか無かったんだ。僕はどっちかっていうと鉄道写真を撮っていたんだけど、鉄道写真っていうもののブームが1970年から蒸気機関車がなくなる1975年までに続くんだけど、だんだん気分が盛り下がっちゃって……」



鉄道からミュージシャンに

「最初は1970年にお父さんから借りたニコンS2にニッコール50mm F1.4、自分用に買って貰ったのはスクリューマウントのアサヒペンタックスのSPFで、レンズは28mm F3.5、50mm F1.4、135mm F3.5の3本体制でしたね。基本的にはモノクロフィルムで、たまーにポジでも撮った。フィルムはコダックのTri-X、現像はD76。増感するときはコニドールスーパー。鉄道写真を撮りに行くと現場で鉄チャンの大人の人に会うといろいろ教えてくれるんだよね。で、1975年になるとSLが消えてしまって、自分の中で鉄道写真には未来がないと、終わりが見えてきたんだ」

――あ、フィルムとか現像とかは同じですねー。石田さん早生まれだからボクより2学年上じゃない? だから西暦では1年違いで、ウチは広島だから東京周辺よりも1年くらい遅かったんじゃないかな(笑)。パッケージで緑のネオパンよりも黄色のTri-Xだったよね、当時は1ドルだから360円というかなり高価だったけど。あ、横道それました……

「話し、続けていい? それでSLが終わって自分の中での鉄道写真の終焉が見えた1978年頃に知ったのが来日したボブ・マーリーの存在なんだ。翌1979年に来日した時見に行って、ボブ・マーリーも蒸気機関車と同じように、黒くて煙を吐くからコレで良いかって思った(笑)」

「1982年、大学6年の頃にやっとジャマイカへ行くんだけど、あの頃は往復の飛行機代渡航費が高かった。その頃は体力があったんで築地でアルバイトしてお金を作ったんだけど、バイトが終わったら朝じゃない。市川の実家から通ってたんだけど、バイトの後に銀座まで歩いてって、ニコンサロンとかキヤノン、富士フォトサロンとか全部まわって見てから帰ってたね」

「ボブ・マーリーは死んだ後だったけど、レゲエの人はいっぱいいた。なんでジャマイカっていうと、60年代のアメリカとかだったらマルコムXが居たり公民権運動があったりして、ブルース・デビッドソンの“イースト・ハンドレッド・ストーリー”とかあったし、インドもそうだし、82年にニューヨークへ行ってもウィリアム・クラインとかが50年代に撮ったあとで何も無い時代なんで、60年代や70年代に匹敵するような今現在がヴィヴィッドな場所は何処だろうってなるとジャマイカ以外に無いだろうってなったんだ」

 「その頃、ジャマイカの人たちがチャリスっていう水パイプの道具を使って煙モクモクでマリファナを吸ってる写真とかを見て、かっこいいなーって。そこでルードボーイ(町にたむろする不良たち)の兄ちゃんたちがマリファナ吸ってる写真とかを撮りたいなって思って、一生懸命お金貯めて行ったんだ。キングストンの空港から市内へ向かうバスに乗ったら、当時日本人は珍しかったんだと思うけど、隣に座ってるオッサンから“レゲエが好きでジャマイカに来たのか?”って話しかけてこられて、“そうです”って云うと“私はタフ・ゴングスタジオのプロデューサーだから遊びに来なさい”って、いきなりレゲエの本拠地タフ・ゴングスタジオの名前が出てきたからラッキーなんて思ったんだ(笑)」



――80年代、当時はどんな機材を使っていましたか?

「その時の機材はニコンのF3とFMの2台で、レンズはAiニッコールの24mm F2、35mm F2、85mm F2、300mm F4.5。F3にコダクロームを入れて、FMにTri-X入れてた。最も多用したのは35mm付きのFMでモノクロを撮ってたかな」

「自称プロデューサーはパインロットって名前の40歳くらいのオジサンなんだけど、ある日一緒に歩いてたらボヤ騒ぎがあったんで、彼はそれを撮った写真を新聞社へ売り込もうって云ってフィルムを持っていったんだけど、怒って帰って来たんで訊いたら、彼は日本円で1万円くらいになると思ったのに1,000円くらいだったらしいんだ。山分けしようと思ってたらしいんだ(笑)」

「地元の新聞社カメラマンよりも僕の機材の方が立派だからプロカメラマンに見えるんで、パインロットが僕を日本からジャーナリストが来てて取材をしたいと云ってるって紹介して、いろんなミュージシャンに会わせてくれたんだ。いちおう音楽関係のことの知識はあったから、会って話しながら写真を撮ってると向こうは地元のコーディネーターと一緒に本当に取材に来てるジャーナリストだって思い込んでたみたいで取材が成り立っていたわけ。当時はまだ学生で、ただの音楽ファンなんだけどねー。」

「ジュディ・モワットさんっていう女性シンガーがいるんだけど、彼女の自宅でピアノを弾きながら歌ってもらったり、オーガスタス・パブロとかU・ロイやイエローマン、トゥーツ&ザ・メンタルズなどそうそうたるレゲエ・ミュージシャンたちの写真が撮れちゃって。で、日本に帰ったら誰かに自慢しに行かなきゃってなって(笑)」

「ジャマイカでたくさん写真は撮ったものの、コレをどうしたらいいかわからなくって、どうしようって。82年は未だクラブカルチャー以前だから、当時東京でレゲエ音楽をかける場所は渋谷の百軒店にあった音楽のお店で“ブラック・ホーク”くらいしかなくって、持ってってお店の人に見てもらったら“スゴイじゃない!”ってなって、たまたま“ラティーナ”っていう音楽雑誌の編集者がその場にいて、誌面4ページに写真と文章を載っけて5回の連載をやらせてもらったのが実質的なデビューかな。」

「ボブ・マーリーが死んだのが1981年だけど、そこから2年遅れで一般誌がレゲエとか取り上げるようになったんだけど、日本人で実際にジャマイカへ行って写真を撮ってきた人はあんまり居なかった時代。それで雑誌社の人が渋谷のブラック・ホークで誰か居ない? なんて相談に行くと、“石田くんって居るんだけど……”みたいな感じで紹介されて仕事になり、ブルータスやホットドッグ・プレスとかの若者雑誌から学研の高1コースみたいな学習雑誌までジャマイカの写真を載っけてもらったりして、いろんな編集者と知り合いになったおかげで普通の撮影の仕事もどんどん増えていったのが、食べていけるようになったキッカケだったね」

――なるほど。ジャマイカの写真がもとでイモヅル式に仕事が増えていったラッキーな時代だったわけだよね。じゃあ、それで大学は辞めてしまったのですか?

「大学は国立だから授業料も安くて、年間でも9万6,000円くらいだったんで払ってて、結局7年目には卒業させてくれたんだ。だいたいの人はカメラメーカーとか堅い会社に就職するんだけど、僕の場合は就職先の第一希望の所に“無職”って書いて出したんだ(笑)」


初期の石田さんの代表作ともいえるジャマイカのモクモク写真がヒステリック・グラマーの写真集に収められている。右は石田さんのサイン(笑)

千葉。石田さんのアトリエというか仕事場というか、秘密基地のような家の中は、仕事の大本でもあり趣味でもある数々の本や音楽といった、石田ワールドが詰まっている場所でもある。

「写真集や本は裏の部屋にもあるし……数え切れないねー。CDはここにあるだけで5,000枚くらい。東京にもあるから全部で7,000~8,000くらいかな? 音楽業界のライターさんに比べたら全然少ない方だよ。レコードはここにあるのが全部だから2,500枚くらい。一番最初に買ったレコードは中学の頃に流行ってた浅丘めぐみの“芽生え”だったかな(笑)。その後は1978年にボブ・マーリーを知って、そのときが20歳だから遅いスタートなんだよね」


仕事場にはCDやレコード、書籍などとともに、アップルコンピュータの様々な時代のモノが同時に動いている大きな作業テーブルがある。フィルムのスキャンにはかつての名機、ニコンSUPER COOLSCAN 8000 EDを使用

――好きな(影響を受けた)写真家について、おしえてください。

「まずブルース・ダビッドソン。60年代のニューヨークのスパニッシュ・ハーレムの写真集ですね。彼は白人なんだけど、アパートを1軒1軒ノックして写真を撮って廻ってたんですね。70年代の後半に図書館でこれを見て、敵わないなって思った。ヨゼフ・スデックのプラハの写真集もいいですね。89年にベルリンとプラハへ行ったんだけど、その前に“ベルリン・天使の詩”や68年のプラハがテーマの“存在の耐えられない軽さ”といった映画の舞台だったのでそれにも影響されて。実際に行ってみたらスデックの写真のとおりの雰囲気の漂う町だった」



イギリスのレゲエを撮りたい

「ミュージックマガジンの仕事をするようになり、ザ・ドゥルッティ・コラム、エコー・アンド・ザ・バニーメンを撮影したりでロンドンにも興味が出てきたんだ。移民の歴史とか調べてたらロンドンのブリクストン地域にはジャマイカからやってきた移民が多く住んでることがわかり、彼らは第二次世界大戦後に来てるから当時は1世か2世、3世くらいまでの人が大半だからアメリカなんかと比べたら歴史が浅く、気持ちはジャマイカ人のままでロンドンに住んでいるイギリス人という人たちを集中して撮りに行った。舞台がジャマイカのレゲエからイギリスのレゲエへと移っていったんだ。代表的な人がリントン・クウェシ・ジョンソンとかアスワドなんだけど。例えば彼らの先祖は元々はアフリカで、そこからカリブ海へ行き、カリブ海からイギリスへ移民として来てる。その大きな流れの中にいる彼らを被写体にして、先人で写真を撮ってる人は少ないしコレは僕の世代の仕事だなって決めたんだ」

「流浪の民の歴史と音楽の関係はアメリカなどでは先人が撮ってきてるけど、ロンドンでは誰も撮っていない。何故かっていうと僕がロンドンへ行った頃、時を同じくして始まったムーブメントだから、上の世代の人たちは歴史的にも撮りようがない。自分のやるべき仕事を見つけた! って感じだったね。1984年という年は、ザ・スミスとか出てきて白人音楽でもニューウェーブが台頭してきたり、いろんな人が出てきたのでロック的にも黒人音楽的にもかなり面白かったんだ。郊外にあるグラストンベリー・フェスティバルっていう今のフジロックの手本になった野外音楽イベントにザ・スミスの撮影で行ったんだけど、これが大きな収穫だった。ブリクストンをはじめ地元の若いバンドのサウンドシステムを経験できたのも良かった。当時は飛行機代がとても高かったから、お金を貯めては2年に1回くらい一度外国へ行き、地元で安い宿を探してなるべく長く滞在するというパターンが多かった」


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昨年の夏、浅草の古いビルで行われた撮影現場へお邪魔した時の様子。クラウドナンバーナインという若手バンドの、いわゆる“アー写”(宣伝用のアーティスト写真)の撮影だった。その後、CDジャケットも撮影して発売される。詳細は記事末にて。ライティング機材はストロボの他にもタングステン光源も使用。この日の撮影機材はニコンD3S、レンズは24-70mm F2.8、70-200mm F2.8、50mm F1.4など。現在の石田さんのデジタルカメラ機材は、これらの他に最近では28mm F1.8やD800などがメインとのこと。普段はリコーGXRに、28mm F2.5、50mm F2.5が多い。

ハッセル、ローライ、マミヤ、ペンタコンを使い分ける

「それまでは35mmカメラのニコンで撮影してたんだけど、1986年にハッセルブラッドを買って、ローライも含めて6×6を多用するようになった。以前はロックとかジャズとかクラシックなんて言えばよかったジャンル分けが、70年代後半にパンクやレゲエが出てきて、80年代にヒップホップetc……その後様々なジャンルが出てきて、“どんな音楽が好きですか?”って会話で、“僕はインドネシアのダンドゥットとセネガルのンバラが好きです”なんて言っても知らない人にとってはさっぱり訳がわからないじゃない(笑)。ジャンルが細分化してきたけど、異国や異文化への距離感はむしろ近くなってきたし、オルタナティブなところで繋がっていると気づくことが多かった。当時は日本も景気が良かったから、来日するミュージシャンが多かったし、外国までミュージシャンを撮りに行く機会も多くなった」

「1989年にベルリンの壁が崩壊して、2001年にニューヨークでの911事件があったんだけど、これらの大きな出来事前後の時代、1986年~2004年の間に撮った中から120人(組)の写真を日付け順に並べ、振り返ってまとめて解説も含めたものが “オルタナティヴ・ミュージック”という本です。音楽の話しをしているんだけど、時代を書いてるっていうか。音楽が好きで写真を撮るわけだけど、ミュージシャンを撮ってきたことによって歴史の大きな流れのひとつの側面を撮ったということも云えるなと思ったわけです、はい(照れ笑い)。僕の本に出てる120人は音楽の歴史的にとても重要だと思う人たちを選んだわけだけど、登場する人たちのほとんどが実はオリコンチャートやビルボードTOP 40にも入らないのね(笑)」

――この難しい内容の辞書のような分厚い本は、まさにオルタネティヴという言葉の持つ“もうひとつの側面”みたいな意味そのものですね(笑)。

「ここまではフィルムで撮っていたけど、それ以降は撮影機材もデジタルへと変わっていったね。ハッセルブラッドは500CM、553ELX、903SWC。ローライフレックスの2.8GX、テッサー75mm付き、SL66E。あとマミヤ6やプラハで買ったペンタコン6なんか使ってた。来日ミュージシャンの場合、大抵はホテルのスイートルームでインタビューの後に10分くらいの時間でレンズ別に3種類くらいのカメラを用意して撮影するってのが多かったかな」

――ボクの場合はその頃、同じような撮影内容でハッセルかペンタックス67どちらかの同じボディを数台+レンズ各種のシステムとして持ち込んで撮影してたけど、石田さんは何でわざわざ違う種類のカメラを使ってたんですか?

「例えば、上半身用にハッセルに80mmを付けておき、もう1台のハッセルに150mmレンズでアップを撮る、さらにローライSLで引きの絵を撮ってるとするじゃない。ローライで撮っていて急に寄りの絵が欲しくなった時、SLだと蛇腹を繰り出せば対応できるとか。カラーとモノクロとかで使い分けたりとかね、いろんな条件が想定されるから。4人組のグループショットの引きの写真は何故かマミヤ6に50mmで撮ったものに良い写真が多かった(笑)。それと絞りとか不意にずれてたりとかの事故防止にはなってたよね」

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2000年のジプシー

「1989年12月に行きがイスタンブール着、帰りがパリ発というアエロフロートのチケットを買い6~7週間の旅に出たんだ。」

「その年の初め、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長は当時“ベルリンの壁は100年経っても消滅しない”って演説したんだけど、夏には汎ヨーロッパピクニックという大勢の東ドイツ国民がハンガリー経由で西ドイツへ亡命する事件が起き、ライプツィヒやベルリンで民主化デモが多発して11月にベルリンの壁が崩壊。その後ハンガリーやチェコスロバキアも民主化していく、そんな中、ルーマニアでは12月にチャウシェスクが失脚、処刑されたというニュースをブルガリアのソフィアで知ったんだけど、ハンガリーのミュージシャン、シェベシュチェーン・マールタの撮影があったのでハンガリーに行った。」

「そしたら彼女もルーマニアに友人が多く、これから会いに行くというので僕も行くことにして1990年の1月1日の夜行列車でルーマニアへ入ったんだけど、革命1週間後で生々しくって世界中からの報道陣が溢れていて、初めてプレスセンターとか見たんだけど、そこにいると僕も報道カメラマンみたいで、本当はただの旅行者なんだけどさあ(笑)」

「ジプシーについてはヨゼフ・クーデルカの有名な写真集は見てたけど、それはスロバキアのジプシーたちであって、ルーマニアに来るまではこの国にジプシーがいるってのはチャウシェスク政権が弾圧していたからそれまで知らなかった。ルーマニアには音楽的にも素晴らしいジプシーが実はたくさんいるのがわかり、ベルギーのクラムド・ディスクというレコード会社の人が発掘した“タラフ・ドゥ・ハイドゥークス”というジプシーバンドがいるんだけど、彼らはベルギーから来たカロさんウィンターさんの2人がブカレストから40㎞くらい離れたクレジャニ村で発見したんだ」

「ジプシーは元々は村毎にそれぞれの職業があって、冠婚葬祭みたいな時にユニットみたいにして演奏していたんだ。その彼らをまとめてバンドにしたのが例えばタラフ・ドゥ・ハイドゥークス。クレジャニ村から連れ出してヨーロッパをまわり、トニー・ガトリフ監督の映画にも出て有名になっていき、ヨージ・ヤマモトのパリコレにも出演したり、“耳に残るは君の歌声”という映画ではジョニー・デップと競演したりどんどんメジャーになっていったのね」

「だけどルーマニアではジプシー差別が強いんで、地元ではなかなか認められなかった。2000年5月には来日し、12月にやっと祖国ルーマニアで凱旋コンサートができるようになったんだ。そのタイミングで僕はルーマニアを再訪してタラフ・ドゥ・ハイドゥークスの写真を撮影した。それが2001年に出た彼らのCD“バンド・オブ・ジプシーズ”のジャケットに採用されて、ヨーロッパ、アメリカ、日本で発売された。これによってジプシーも、ジャマイカの黒人、イギリスの黒人、に次いで僕の大事なテーマになった感じだね。この人たち、今度9月に久々に来日するので楽しみなんだけど、この時の長老3人は死んじゃって息子が跡を継いでる(とCDを手にしながら)。メンバーが代わりつつ存続しているジプシーバンドって親から子へ、子から孫へって、基本的に世襲制なんだよ(笑)」

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※“ジプシー”という表現を差別として捉える一部マスコミや団体がありますが、他に言いようが無く、世界中で浸透している呼び名をココではリスペクトを込めて使っておりますので、誤解無きようお願いいたします。

ソウル・フラワー・ユニオンとの出会い

――石田さんが被写体として撮られてるミュージシャンはほとんどが外国人(もちろん日本人も入ってるけれど)という印象が強いんだけど、ソウル・フラワー・ユニオンとはどういう繋がりで?

「ソウル・フラワー・ユニオンは元々ニューエスト・モデルというバンドとメスカリン・ドライヴというバンドが一緒になってできたんだ。ニューエスト・モデルの頃から活動は知っていたんだけど、1997年にアイルランドのミュージシャンでプロデューサーのドーナル・ラニーと一緒に来日したバンド、“アルタン”を撮影した時にソウル・フラワー・ユニオンが一緒にレコーディングすることになったんだ。それで知り合って、今度はソウル・フラワー・ユニオンがアイルランドで録音することになり、僕も同行して撮影したのが1999年発売のアルバム『ウィンズ・フェアグラウンド』。CDのブックレットにはアイルランドで撮った写真だけで構成するとスカした感じになるんじゃないかってことで、大阪の西成地区の路上で撮ったのも半分くらい入れて作ったんだ。彼らのアルバムの中でも最も好きな1枚で、この写真を撮れたことはとても良かったって思ってる」

「それ以来、彼らとの付き合いはいままでずっと続いてる。阪神淡路大震災が起きた時にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットという名前でアコースティック楽器を使って被災地で演奏したり、その頃『満月の夕(まんげつのゆうべ)』という素晴らしい曲を作ったり、90年代後半にアイルランドの人たちとのコラボレーションをしたりで音楽性がすごく豊かになっていって、僕の中で数少ない日本人のバンドになっていったね。」

ソウル・フラワー・ユニオンの今後の活動予定など。ソウル・フラワー・モノノケ・サミット×二階堂和美「BON DANCE TOUR 2012~SONGS OF SOUL~」8月17日~25日。ソウル・フラワー・ユニオン「寝覚め月の遊芸一揆」ツアーが9月15日~24日。ミニ・アルバム 「キセキの渚」発売中!。中川敬 配信限定アコースティック・ソロシングル第一弾「世界はお前を待っている c/wそら」配信中。詳細は記事末のソウル・フラワーオフィシャルサイトにて。

「東日本大震災の後にも僕も一緒に被災地をまわったんだけど、去年の5月に女川に行った時に瓦礫の中にターンテーブルが写ってる写真を中川君がツイッターにあげたらターンテーブルの持ち主が判明して、その人がたまたまソウル・フラワーのファンでしかも1995年の阪神淡路の時に学生だったんだけど、ソウル・フラワーの手伝いで被災地に行ってたということがわかる劇的な出会いがあったんだ」

「それ以来、東北の被災地の避難所などをまわったりしてるんだけど、音楽で人の心を動かすというのは本当に感動的で素晴らしいことだと思うよ。福島の原発問題も然りだけど、彼らのメッセージには共感できることが多くて、しかもそれを音楽そのもので表現していて、心を動かされる」

「先日も幕張メッセで坂本龍一さん主宰の脱原発ライブにYMO、クラフトワーク、元ちとせ、アジアン・カンフー・ジェネレーションなどと一緒に彼らも出演したんだけど、彼らのライブは素晴らしかった! 知り合ってから約15年の付き合いになるけど、今後も彼らを撮っていきたいと思ってる大事なバンドだね」

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「ベルリンの壁が崩壊して、ジプシーの歌が聞こえてきた」

「今、書いてるのは“ベルリンの壁が崩壊して、ジプシーの歌が聞こえてきた”という長い仮タイトルの本なんだけど、1989年の1月にベルリンに居た時から始まって民主化によって壁が崩壊した直後の混乱の最中に東欧を廻った時の話し、2000年前後のジプシーのミュージシャンたちとの出会いなどの話し、そして最近のゴーゴル・ボルデロというバンドの話をまとめて、アルテスパブリッシングから出す予定です。“ゴーゴル・ボルデロ”っていうのはウクライナ出身のユージン・ハッツって人が中心になって、ニューヨークで結成された多国籍ジプシー・パンク・バンド。この3つの時間軸のポイントを押さえながら全体で“ジプシーの歌が聞こえてきた”という壮大なストーリーを書いているところです。出版は年内のなる早を目指しておりますので、“秋頃”ということで乞うご期待下さい!!」

 ずいぶん前から石田さんの3冊目の本を待っているうちのひとりとしては、長袖シャツに袖を通すより前には早くジプシーの歌声を聞かせて欲しいと思っております(笑)。


取材協力
ソウル・フラワー・ユニオン
http://www.breast.co.jp/soulflower/
クラウドナンバーナイン
http://www.cloudnumber9.net/
有限会社ブレスト音楽出版
http://www.breast.co.jp/
サンディスク株式会社
http://www.sandisk.co.jp/


取材撮影機材
  • ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL、SMC Pentax 67 90mm F2.8
  • ニコンD7000、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR
  • シグマ8-16mm F4.5-5.6 DC HSM(ニコン用)
  • オリンパスE-M5、E-P3、M.ZUIKO DIGITAL 9-18mm F4-5.6、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R、M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8、M.ZUIKO DIGITAL 75mm F1.8
  • パナソニックLUMIX G 20mm F1.7 ASPH
  • サンディスクExtreme Pro SDHC


(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
http://www.facebook.com/HARUKIphoto
http://twitter.com/HARUKIxxxPhoto

2012/7/31 12:56