ブルース・オズボーン / BRUCE OSBORN(ぶるーす・おずぼーん)
プロフィール:1950年アメリカ合衆国、ロサンゼルス生まれ。University of the Pacific卒業後、Art Center College of Designにて写真を学ぶ。全米に配布される音楽情報誌「Phonograph Record Magazine」にて1970年代半ば頃から仕事をスタートし、1980年に来日。以後は日本を活動のベースに、雑誌や企業広告、CDジャケットなど広告写真家としての仕事をしつつ、「親子」シリーズの作品を1982年から撮り始める。2003年より7月の第4日曜日を「親子の日」との提唱、毎年約100組の親子を撮影するプロジェクトを継続中。FCCJ(日本外国特派員協会)での展覧会のディレクションや、音楽と映像のコラボレーションユニットなど写真以外でも多岐にわたる表現活動をこなしている。個展「LA Fantasies」「親子」「TEEN TOKYO」ほか、展覧会や著書多数。株式会社オゾン代表。
もしかしたら、日本人以上に日本人っぽいんじゃないのかなあ? と思えるほどきめこまやかな感性と、素早い判断力を持っている人だ。寅年の生まれだから?
■ブルース少年が、写真家Bruce Osbornになるまで。
夏、葉山。水平線の上空にある雲のサインで、台風がすぐそこまで近づいているのを感じられるくらい、目の前には海が広がっている。大きなガラス窓を開ければ、潮騒に乗って潮の香りも流れてくる。砂浜と岩場の遠く向こうには富士山が霞んで見える。相模湾を望むこの場所に越してきて7〜8年目だという、この部屋の住人はブルース&佳子、オズボーン夫妻。
ブルース少年が育ったのはアメリカ、ロサンゼルス近郊。お祖父さんの代からの道路整備の会社を経営する裕福な家に両親と姉の中ですくすくと育つ。彼のご先祖様のオズボーン家は大昔にイギリスからアメリカ大陸へ移住してきて、その息子の息子のまた息子さん……もうわからないけど(笑)とにかく何代目かに当たるブルースのお爺ちゃん、チェスリーさんは東部で外灯や電柱を作って売る仕事をしていた。我々が歴史の教科書で習ったとおり、1929年に始まったアメリカの経済不況から大恐慌に見舞われ、たくさんの人々が東部から気候の暖かいカリフォルニアなどの西部へと新天地に職を求めて移動するのをみていた。今では大都市になったロサンゼルスがあるカリフォルニアが、未だ砂漠が多くを占めていた未開の地でもあった時代。そんな1930年代頃のある日「これからは西海岸でも町が大きく発展していき、そのためには道路整備が必要となり発達していく時代だ」と思いついて東海岸から西海岸へと引っ越してきて、外灯だけではなく道路そのものを作る会社を兄弟や親戚たちで興して、案の定その事業はファミリービジネスとして成功したらしい。まさにアメリカンドリーム。
時代は遷って、1960年代のカリフォルニア。若者たちの間では急激に流行り始めたサーフィンが大ブームだった。小学生だったブルース少年も例にもれず、毎日のようにサーフィンをしたり、ビーチへ行けない日はスケートボードで遊びながら、プロサーファーに憧れる少年のひとりだった。そしてサーフィンに音楽といえば、元祖ともいえる圧倒的な人気を誇るザ・ビーチ・ボーイズの存在。そのザ・ビーチ・ボーイズのメンバー、マイク・ラブの従兄弟がブルースのクラスメートにいたりとかが普通のことで、当時の日本の若者たちから見れば、夢のカリフォルニア物語みたいだ。
そして中学生。60年代半ばのアメリカでポピュラー音楽といえば、白人のアメリカンポップスが主流だったが、突然イギリスからの音楽が流れ込んできた。
「”British Invasion”といいまして、アメリカにイギリスの音楽がたくさん入ってきました。」その言葉を聞き取れなかったボクにブルースは教えてくれた。「”Invasion”イミはAttackにチカイけど少しチガウ、うーん、そうシンニュウ(侵入)! ビートルズ、ローリング・ストーンズ、デイブ・クラーク・ファイブ、キンクス、ヤードバーズ、たくさんオンガクが侵入してきました(笑)」
アメリカに於けるいわゆる第1次UKバンドムーブメントの到来だ。高校生になったブルースが聴いていたのは、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ジャニス・ジョプリンなどサンフランシスコを活動の中心としていたPEACE & LOVEヒッピームーブメント、サイケデリックなど、そしてベトナム戦争反対運動とも絡み合った時代。
たっぷりと音楽の洗礼を受けて育ったブルース少年は青年へと成長し、サンフランシスコの南、ストックトンにあるUniversity of the Pacificへ進学し、美術学科で絵画や陶芸などと一緒に写真を学ぶ。ここでの授業はアート全般なものだったが大学を卒業する頃には写真への興味が深くなり、卒業後は写真を専門により深く学びたいとロサンゼルスに戻り、Art Center College of Designの写真コースへ入学する。ここも4年制だが2年生のころにはやがて自分で仕事をするようになり自然にドロップアウト。
(c)Bruse Osborn | (c)Bruse Osborn | (c)Bruse Osborn |
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Lucyより (c)Bruse Osborn | Lucyより (c)Bruse Osborn | Lucyより (c)Bruse Osborn |
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■最初に写真(カメラ)と関わったのは、どんなきっかけでしたか?
「子供の頃から家にはKodakのBrownieカメラがありました。66のカメラです」「高校生の時、大学生のお姉さんと、そのBoyfriendが写真をしていたので写真に興味を持ちました。風呂場に暗室を作り、現像とプリントも始めました」
「そうそう、最初にお姉さんと一緒に写真を撮って送りました。Go-KartでSkateboardを引っ張って遊んだりしてた時、Skateboardの雑誌がありました。そしてお姉さんにアイディアを話しまして、写真を撮って送りましたら、写真が載りましたけど・・・・略」
このままブルースの言葉で書くと先へ進まないので(失礼・笑)、要約すると、『雑誌に写真が掲載されるとお金がもらえるので、アイディアを出してすべてセッティングをして危険な思いをしてモデルをつとめ、3歳上の姉Robinに写真を撮らせてスケボー雑誌に送った。そしたら見事その写真が採用されたので喜んだ。しかし、写真の下にはPhoto by Robin Osbornと、姉のクレジットはあるけど、僕(Bruce)の名前はどこにも載っていないし、後日、賞金の小切手が送られてきて、お金を手にしたのも、最後にカメラのシャッターを切っただけのお姉さんだったので、とてもショックを受けた』ということだ。
小学生の頃に起きた、このあまりにも悲しい事件が少年を大人へと、そして彼をプロの写真家へ向かう道へと誘(いざな)ったという事実は少なからず間違っていないだろうとボクは思う。
ブルースさん、ロビンお姉さんには感謝してください(笑)。
インタビューや撮影で何度かお邪魔したご自宅。コレが噂のスケートボード雑誌へ応募した思いでの写真だと、笑いながら見せてくれた(笑) |
写真作品はもちろんだが、家中のいたるところにブルース夫妻の創作物や思いでの品々がオブジェとして飾られている。センスの良い雑貨店に訪れたような気持ちの良い空間だ |
今回のオリンパスプラザでの「親子の日」展覧会に向けて、直前の最終プリントの追い込みの最中でもあった。不思議なもので、プリントの仕上がりを丁寧にチェックしているブルースさんの所作や後ろ姿を見ていると、反物を仕舞う着物屋の店員か書道教室のお師匠さんみたいに思えた(笑) |
仕事部屋の壁面にも家族の思い出の絵や、仕事で撮影してきたポラロイドなど様々なモノが飾られていて、すべてがアートになっている。画像処理はMacを使用。作業の途中のお忙しい中をおじゃました。エプソン製の大型のプリンターがドッシリと場所を占めている |
■The First step
2つめの学校、Art Center College of Designでは学校の授業をこなすだけじゃなく、仲の良いイラストレーターの友人たちとコラボして作品を作ったり、メディアへ売り込みに行ったりして過ごしていた。
例えば好きなレコードジャケットがあれば、スリーブやライナーノーツにアートディレクターやカメラマンの名前を見つけて、口コミ情報や電話帳で探しては連絡を取り、制作した作品をポートフォリオにまとめて見てもらうという作業を繰り返していた。
その頃のブルースにとっての大好きな写真家にノーマン・シーフがいた。ノーマン・シーフといえばボクにとっても憧れの存在で、ローリング・ストーンズ、キッス、ジョニ・ミッチェル、イーグルス、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモン、ザ・バンド、トム・ウェイツ、サンタナ、ブロンディー、リッキー・リー・ジョーンズetc、1970年代ウチにあった洋楽レコードジャケットの2枚に1枚は彼の写真といっても過言じゃないほどたくさんの美しくて力強い素敵なポートレートを撮っていたスーパースターだ。
そのノーマン・シーフのアシスタントになりたくて、ブルースは人づてに紹介してもらい会いに行ったのだが、シーフのところでは今はスタッフがいっぱいで助手を募集していないと。しかしブルースのポートフォリオを見たシーフは“キミならもう仕事ができる”と云って雑誌社を紹介してくれた。雑誌の名前は全米に配布されている有名な音楽情報誌「Phonograph Record Magazine」。フォノグラフレコードマガジンでは、持ち込んだポートフォリオの中のイメージ作品そのものが気に入られて、見開き扱いで使ってもらったのが最初にお金をもらったプロとしての初仕事となった。それがきっかけですぐに撮り下ろしの仕事も依頼されカメラマンとしてのスタートを切り、ローリング・ストーンズのロン・ウッド、エタ・ジェイムズ、ウォーレン・ジヴォン、アバ、エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)など世界的な超大物ミュージシャンたちが最初の被写体となった。
昨今の日本の音楽情報業界では、俗にアー写と呼ばれるレコード会社や事務所の提供するアリモノ写真ばかりでつまらなくなってしまった実状と違って、当時のアメリカの情報誌ではほとんどのミュージシャンを撮り下ろししていた。ELOの撮影などは彼らのライブ会場で、大勢の観客がアンコールを待ちながら歓声を上げている間にステージの外でメンバーを撮影したりとかスリリングな場面もあったとか(笑)。1970年代の音楽産業はとても大きな世界市場だった事を立証するとても羨ましい話しだ。フォノグラフレコードマガジンでの撮影をきっかけに、信頼と実績を若くして得られたので順調な仕事のスタートをしたブルース。ノーマン・シーフのアシスタントにはなれなかったけど、別の新しい道が開けたことは彼にとってのLucky Breakだった。
■Meet to Yoshiko
学生時代に仕事を始めたのとほぼ同時期に、ブルースにとってもうひとつの新しい人生の転機が動き始めていた。英語の勉強とステンドグラスやインテリアを学ぶためにロスへ留学していた、ひとりの日本女性と共通の友人を通して出会った。それが今の奥さんであり、仕事面でのよきパートナーでもある佳子さんだ。
最初に出会った時、佳子さんはそろそろ日本へ帰るというタイミングだった。その彼女が日本へ帰国してしばらく経った頃、ブルースは従兄弟やルームメイトの友人たちと一緒に長い旅に出た。1976年の秋、ロンドンからフランスを経由しアムステルダムで中古のフォルクスワーゲンのレイトバスを入手、途中で壊れてきたけどヨーロッパ諸国を周りギリシャまで行き、そこでクルマを売ってからは通称ヒッピーバスと呼ばれる乗合バスに乗ってトルコや中近東のイランへ。インド、ネパール、ビルマ(現ミャンマー)などのアジア諸国をまわってる旅の途中で仲間はひとり減り、またひとり帰国して、最後まで残ったブルースはひとりで日本へやって来て、やっと佳子さんと再会。旅に出て9ヶ月後の1977年の夏だった。何処の国に生まれても、青年は一度は長い旅をするものだ。
日本では佳子さんの実家のある山梨で3カ月を過ごす。最初は言葉も通じないし驚いていた彼女の家族だったが、親戚や近所の人たちともだんだん打ち解けていき、佳子さんのお父さんにしてみれば息子が1人増えたみたいでなかなか楽しい居候生活だったらしい。ふたりは結婚することを約束して、いったんアメリカへ帰国。半年後の1978年春にロスで正式に結婚。以後、佳子さんとブルースはお互いの仕事もあり、日本とアメリカを行ったり来たりして過ごしていたが、東芝EMI(現、EMIミュージックジャパン)にいた方から、彼のいろいろなネットワークで仕事先に繋がりそうな人たちを紹介してもらい、佳子さんと一緒にポートフォリオを持ってまわっていた。そうした中で知り合った関係で1980年に東京で個展を開催することになり、これを契機にブルース夫妻は東京をベースにして暮らし始めたので正式には1980年に来日という事になる。
最初は浅草にあるちょっと変わったオフィスビルの2フロアを借りて、住居兼スタジオとしてのスタート。今だと、アメリカ人のアーティストが東京へやってきて浅草に住むというのは“いかにもありがちな”という図式に一瞬思えたのだが、今から30年も前の日本は今とは状況が違っていた。カウボーイには馬、カメラマンにはスタジオ、というアメリカ人の写真家の哲学にぴったしだったスペースが見つかった場所がたまたま浅草だったらしい。
ラッキーなスタートがはじまった。アメリカでは、それぞれのカメラマンのフィールドが細分化されて決まっているのに対して、一般誌や広告、ファッションと様々なジャンルの仕事が出来る日本の市場はブルースにっとっては刺激的だった。MCシスターや音楽雑誌Player、ソニーのカセットテープ広告などの仕事でスタートした。その後も今日まで仕事内容やシリーズの種類ごとに、ビビッドなカラーリングでユーモラスな表現手法と、美しくシンプルなトーンで見せるモノクロームの世界とを巧く使い分けながらも、個性的な写真を創っている。
■どんな機材を使っていますか?
「アメリカではハッセルブラッドがメインでした。デジタルになった今はオリンパスE-5がメイン。親子シリーズでは最初はハッセル(6×6)で始めて、その次がマミヤRZ(6×7)がメインだった。ポスターや作品で45を使うこともあるけど、銀塩でのメインは67。暗室はネガフィルム現像をするくらいで、それをスキャンしてデジタルデータから出力するので、もう暗室でプリントすることはないですね」
「デジタルになってからは35デジタルを使うようになったけど、以前66か67にストロボと三脚という組合せが多かったので、いまはカメラが35デジタルに替わっただけで、このスタイルは続いています。90%くらいはE-5を使っている。真冬のスキー場で吹雪の中を撮影した時にも、問題なくちゃんと動いてくれたし、防塵対策がしっかりしているのはありがたい。僕みたいに機材を乱暴に扱うカメラマンは丈夫なカメラが必要です(笑)」
メインカメラはオリンパスのデジタルカメラ。親子シリーズを含めて現在一番多く使ってるのは、14-54mmレンズを装着したE-5。50-200mmもときどき登場する。カメラボディの裏側やメーターやリモコン類などにも貼られているのは友人からもらったという江戸文字の名前入りシール。ガイコクジンの必須アイテムなのである(笑) |
今では出番が少なくなってしまった銀塩フィルムカメラの一部も見せていただいた。左:ロス時代から使ってきたレンズもあるというニコンのセット。右:ハッセルとともに、これまで大活躍してきたマミヤRZと交換レンズ、フィルムマガジンやファインダーなどのアクセサリー類。ボクも使っていたので、他の写真家の機材であっても懐かしいものだ |
押入の奥から重い箱をわざわざ出してきて見せてくれた。昔なつかしい古びた木製の宝箱から出てきたのは、なんとCAMBOだ! 往年の4×5の定番カメラの一つ、オランダ製のスーパーカンボ。コパル製No.1型シャッターを搭載したシュナイダーのジンマー210mm f5.6付き。アメリカ的に云うと8インチレンズ。カメラや箱のキズや剥がれが、過ぎてきた時代を物語っている。 |
この日は夕方から近所にある海の家・オアシスでの集合写真の撮影。カメラマン横山さんの息子、泰さん(彼らも親子撮影に登場している)が機材運びに迎えにきて徒歩にて出発。向かう道すがら、山にかかり虹を発見。なんだか嬉しくなってきた |
ストロボのヘッドには布袋を被せてデュフューザーとして使う。これがあると無いでは写真の仕上がりの美しさに大きく影響する。そして大きな声でのジョークと合図はカメラマンのお約束の仕事だが、不安定な場所でカメラを構えながらの作業は実は大変なんだ。1、2、3、空が雨雲に変わる前にはみんなの笑顔が撮れて終了、お疲れさまでした。ビールの時間です! |
■好きな写真家を教えてください
「当たり前だけど、リチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンはもちろん好き。ロスにいた学生時代にはギイ・ブルダンの表現するデザイン的な美しさに惹かれました。日本に来た頃には広告写真で活躍していた、操上和美、坂田栄一郎、横須賀功光、十文字美信などの写真はすごいなと思いました。植田正治の砂漠で撮ってる家族の写真も“親子”と共通するものを感じて好きですね」
毎日新聞社にて。写真コンテストの審査を務めるブルースさん。会議室に集まったスポンサー各社の担当者さんや主催者、出版社の編集さんなどとともに応募作品から最終選考まで残ったプリントをすべて細かくチェックしていく。最終的に上位受賞作を選ぶという審査も大変だけど重要な仕事のひとつである |
■「パンク」から「親子」へ
「親子」の写真をずっと撮ってきて、今年で29年目。もうすぐ30年になる。ボクが最初に見た親子写真に写っていた子供たちが、今ではお父さんやお母さんになり、今度は親として彼らの子供たちと写るくらい長いスパンで続いているプロジェクトだ。初期の頃に見ていたボク自身、20代前半だったのに今は50歳を過ぎているので、それもそのはずだ(笑)
これだけ長く続いているシリーズなので、その後も雑誌や展覧会などで何度かみかけてきたけど、どうして親子なのかを訊いてみた。
「ブルース・オズボーン」=「親子」という印象が強く焼き付いていますが、そもそも「親子」の写真シリーズをスタートしたきっかけというのは、具体的には何だったんでしょうか?
「最初は、レコードや音楽関係の撮影の仕事が多かった1982年頃、ある音楽雑誌の編集者と一緒に企画作業を進めてる中で、パンクロックのミュージシャンを撮影するというのがあったんです。そこでミュージシャン本人だけじゃなく、その人を育てたお父さんやお母さん、親子で撮ってみようということになったんです。最初はきっとそのギャップが面白いんじゃないかと始めてみたんです。ところがその反対で、ギャップじゃなくって共通点を見いだすことになって別の面白さを発見したんです」
「当時、“NEWZ”という、いろんな職種のクリエーターが24人集まって企画運営するギャラリーが六本木にあったんです。写真家だけじゃなく、イラストレーター、デザイナー、音楽家、スタイリスト等、1年間を24人で振り分けて展示するので、各自が2週間を担当するわけです。 で、そこでの展覧会に作品を展示したんです」
初期の親子シリーズを見ていた時のボクは東京へ出てきたばかりで、自分の頭の中では、“ブルースさんはアメリカから来日して、日本の制服文化が珍しくて、親子という形式を引用して撮影されてるんだろうな”って勝手に思っていたのだが、少々違っていた。
「ブルースも日本に来たばかりだったので、親子というものを撮ることで、もしかしたら日本というものが撮れるのかも? という思いはありました。確かに浅草にスタジオがあったので、場所柄いろんな衣装が手に入りやすかったり、いろんなタイプの人はいましたね確かに(笑)。だけど本質的には表現したかったのはあくまでも親子の関係性でした。制服というかわかりやすい衣装を着てもらうことで、日本の文化や象徴としては伝えやすかったかもしれないですね。例えばブルースが、Tatooを撮りたいとか云うと、Tatooを入れてる人いませんか? って私が友だちに訊いてまわったりとか探して走るんですよ(笑)」
いつも一緒に創り上げてきたパートナーである奥さんの佳子さんが、親子写真スタート時期を振り返って代弁してくれた。ブルースのアイディアと、パートナーの佳子さんの行動がともなってこそ生まれた作品だと思う。そして親子写真のスタートとほぼ同じ時にお子さんができて、実生活でも親子になった。
オズボーン夫妻には2人の娘さんがいるけど、お2人ともアメリカでデザインやファインアートをされている。これもまた、アートや音楽に関わるクリエイティブな人たちが集まるこの家庭で幼い頃から見聞きして育ったのだから、彼女たちもなるべくして選んだ道を歩んでいるのは自然体なのだろう。
「何年か前に撮ったご家族の親子さんで、撮影に参加されたお父さんがその後亡くなったんですね。お父さんは生前に撮った私たちがプレゼントした写真を大変気に入ってくださっていて、自分の遺影には是非この写真を使って欲しいっておっしゃっていたんです。そのご家族が去年また親子写真のセッションに参加された時には、お父さんの遺影写真と一緒に写られたんです。その時に、亡くなってしまったお父さんの写真があることで癒されていることに気付かれたみたいで、この企画をやっていてああ良かったなって思ったんです」
「写真っていうものはアートだったり、ニュースだったりいろんな表現があるんですが、私たちがやってる親子の写真というものは見て楽しんだり情報を得るということ以外に、モデルで参加してくれる人たち自身が親子で写真を撮られることによって生まれてくる新しい関係だとか、発見だとかの可能性があるんじゃないのかなあって思うんですよね」
確かに写真の見方、伝え方。見る側も撮る側も様々な見方や表現方法がある。写真になった結果だけじゃなくって、撮影行為そのものも表現である。そこには感情や気持ちの変化、そしてホスピタリティーのようなものだって生まれることもあるはずだ。
親子とは別のシリーズで、やはり20年くらい前に撮影していたシリーズに登場した人たちをもう一度撮影するという計画も今後考えているらしい。
親子シリーズだけに限らず、ブルースの写真のプロジェクトが仕事としても長く続いているものが多いのは、最初に自分自身が興味を持ったアイディアやテーマを作品にして発表したものが仕事として成立してきたことに結びついている。つまり自然体でやってこられたし、そのこと自体が稀有でとてもラッキーなことであるんじゃないだろうか。
「動く映像の持っている力もあるけれど、1枚の写真そのものには瞬間に込められた力を持っているはずです。その写真が持つ力を信じてこれからも撮影やプロジェクトを進めて行くつもりです」
30年近く前、一組のロックミュージシャンの親子写真を撮ったところからスタートしたこのプロジェクト。今回までで約3,000組を撮影してきた。そしてこれからも、オズボーン夫妻がお元気でいる限り二人三脚で続いていくはずだ。
29回目の親子の日撮影。7月の第4日曜日を親子の日に提唱しているので、今年の親子の日のフォトセッションは7月24日、広尾BBスタジオにて行われた。朝から夜まで100組以上の撮影という、ものすごいエネルギーを必要とするマラソンセッション。まさにマラソン並みの体力と精神力、そして笑顔がなければ出来ない偉業でもある。来年も10年後も続けていって欲しい |
文中敬称略
2011/9/16 00:00