Photographer's File

 #3 舞山秀一

取材・撮影・文  HARUKI


舞山秀一(まいやまひでかず)
プロフィール:1962年福岡県福岡市生まれ。1984年九州産業大学芸術学部写真学科卒業、株式会社スタジオエビス入社。同年、半沢克夫氏に師事。1986年、独立。1988年、第22回APA展にて奨励賞受賞。現在、ポートレートを中心に広告や雑誌、CDジャケット、写真集などで活動。同時に作品集の出版や写真展などを定期的に開催している。


 このオトコはいったいいつ寝てるんだろう? って思えるほど仕事をしているのに、朝まで酒を飲むこともあるから不思議だ。九州男児の見本のような、とにかく精力的で熱いオトコだ。

 マイヤマは完璧さを常に追い求めている。デビュー以来、ずっと長い間ゆるぎなく、とにかく忙しい日々を送っている。

 1日に数本の仕事を掛け持ちでこなしてスタジオからスタジオへと移動して、その間に撮影現場や事務所で打ち合わせもこなしているのが日常だ。

 これまでに、JUDY AND MARY、hitomi、CHARA、B'z、BoA、SOPHIAなど、CDジャケット関連だけでも300枚以上を撮影し、ミュージシャンやタレントの写真集の撮影も20冊近くを担当している。

 特に、1990年代後半に大ヒットしたCHARAのアルバム「Junior Sweet」(CHARAと当時の御主人の浅野忠信氏が手を繋いでいる美しいジャケット)や、hitomiの「LOVE 2000」に代表される一連のCDアルバムジャケット、衝撃的なセミヌード写真集「LOVE LIFE」などは、当時のhitomi自身の勢いも含めて女性からの支持もあり、社会現象になった。日頃は音楽とあまり縁のない方でも、一度は街角で目にしたことがあるだろう。

 以降もずっと第一線で活躍中で、週刊誌や月刊誌など雑誌の表紙やグラビア、広告写真などを精力的にこなしている。そんなマイヤマの原点から現在までを解体してみたく、2月から3月にかけて、多岐にわたる現場取材とロングインタビューを行なった。

舞山氏の仕事は、雑誌表紙、広告、ポスターなど多岐にわたる。 Hidekazu Maiyama (c)
雑誌「週刊現代」の表紙撮影で午後1時にスタジオ入り。スタジオマンやアシスタントへ本日のライティングの指示を出す。今回のライティングのツボは秘密とのことで詳細は内緒(笑)。六本木スタジオにてスタジオの照明やセットが準備される中、スタイリストさん、プロデューサーさん、マネージャーさんたちと衣装を選んでいく。実際に表紙に使うのは一つだが、2種類の衣装を選んで撮影する本日の使用カメラはニコンD3S。予備でD3とD700も準備されている。メモリーカードはサンディスクのExtreme Pro、16GBのCFが8枚並んでいる。奥のテーブルにはアシスタントさんがMacBook Proに液晶モニターを繋いで、撮影したRAW画像をその場ですぐに現像して確認ができるようにセッティング中
MacBookProに繋がれているのはカラーキャリブレーションが施されたEIZOの液晶モニター。アシスタントの萩さんにカラーチャートを持たせてテスト撮影。「昔で云う、ポラチェックみたいなもんですね(笑)」。カラー調正やホワイトバランスを完璧にチェックしてから撮影に入るスタジオ入りして1時間半が立った頃にすべてのセッティングが完了し、メイクルームから着替えが終わったタレントさんが登場。マイヤマの指示で撮影ポジションにつく。本日の表紙モデルは、お天気キャスターで活躍中の松本あゆ美さん。余談だがNHK「みんなでニホンGO!」の時から筆者も大ファンなので楽しみにしていた(笑)表情やポージングなどの指示を出しながら撮影は着々と進んでいく。使用機材はニコンD3S、レンズは24-70mmと70-200mmの2本。D3Sの軽快なシャッター音がスタジオに心地よく響く中、途中でレンズを替えて200カットほどが、表情やポーズを微妙に変えながらも淡々と撮影されていく。1ポーズの撮影時間はおおよそ7~8分。この後、赤い衣装に着替えての撮影も同様に進んだ
持参のパソコンセットに1ポーズ目の撮影データを取り込み、早速モニターでチェックする。スタジオ撮影にはこのセットを毎回持ち込み、現場でチェックすることで、最終使用カットのデータ完成までの作業を少しでも速く、スムーズに行えるようにしている人物撮影においては人間同士の信頼関係だったりするので、撮影の合間のちょっとしたやりとりなどコミュニケーションは、良い写真を作るためにも大切な要素だすべての仕事が手際よく進行して、撮影&大まかなチェックが終了したのは午後3時。スタッフの皆さん、そしてお2人ともオツカレサマでした~!!
撮影終了後すぐに六本木から青山の舞山事務所へ戻る。まもなく、雑誌「日経ウーマン」の編集スタッフやデザイナーさんたちが訪れ、翌週に撮影する表紙の背景の色合わせについての打ち合わせがスタート長い付き合いなので、気心が知れているスタッフとの打ち合わせは冗談を交えてどんどんアイディアが飛び出す毎号撮影していると表紙の背景色はダブらないように季節感も、そして被写体になるタレントさんの衣装との相性も考えなければいけないので大事な作業でもある

 九州、博多で生まれ育ったマイヤマは、職人だったお爺さんが普段からいろんなモノを作っているのを見ながら育った影響からか、自分でも子供の頃から絵を描いたり、モノを作ったりしているのが大好きだった。中学でカメラを手にしてからは、スナップ写真を撮ったりしていた。高校ではバイクでツーリングに行っては仲間達の記録写真を撮っていたという。

 同時期に彼は、年間に数え切れないくらいの映画も観ていた。その流れで大学の写真学科へ入ってはみたものの、いざ入学してからはあまり写真を撮っていなかった。そんな大学生活の中でバイクで大事故を起こしてしまい、身体が復帰してきた頃を境に原点に立ち直り、必死になって写真を撮るようになっていったという。

 1984年に大学を卒業する直前、一足先に就職という形でスタジオエビスへ入社して上京。少しの間、新入社員として働いたあと、卒業式のためにいったん福岡へ帰ったというマイヤマ。

 「写真業界というピラミッドのシステムの中でスタジオマンの立場は底辺。その体育会的な縦割り社会では、1日でも早く入ったヤツが先輩になる。東京の大学や専門学校に通ってる人たちに遅れを取りたくなかったから少しでも早く仕事に就きたかった」と彼は云う。業界のスタートラインに立ったばかりの舞山はすぐにダッシュを開始した。

「スタジオでは毎日遅くまで働いていたけど、ハッセルのフィルム詰め替えやライティングを早く組んだりのテストがあって、それに合格するためにも、仕事のあとでも残って練習していた」

 ボクも短い期間ではあったがスタジオマンとして働いた経験があるので、当時の慣例システムを身をもって通過した人間として、マイヤマの気持ちがよく理解できる。ある意味、年功序列の縦割り社会やそういったシステムそのものからドロップアウトしたい人間が就く職業なはずなのに、今とは違って1980年代にはまだまだ、ピラミッドの底辺からスタートせざるを得ないという古いシステムが当たり前に残っていたというのも皮肉な話だ(笑)。

 
 半年ほど経った頃にスタジオエビスをやめて、当時超売れっ子で飛ぶ鳥を落とす勢いの写真家のひとり、半沢克夫氏の事務所の門を叩き、そこで約2年の修行に入った。半沢事務所へ入ってすぐに、ロスアンジェルスへのロケに同行することに。右も左もわからないままに助手としての仕事がスタートした。

 「当時の半沢さんは広告ポスター、雑誌グラビア、ファッション、CDジャケット、ムービーと多岐にわたる撮影内容だった。休みはほとんど無いくらい多忙だったが、24時間365日勤めてるつもりだったのでキツイという感覚はなかった」と語るマイヤマだが、それでもたまの休みの日には浅草などへ出掛けて行き、そこにいる人に声を掛けポートレートを撮らせてもらったりスナップ写真を撮っていた。

 「助手時代は海外ロケへ行っても集合時間前や、夕方仕事が終わった後で自分のカメラを持って街を歩きながら写真を撮っていましたね」

 1986年に独立。2年間アシスタントとして彼は、撮影の準備からセッティング、そして納品まですべてひとりでこなしていた事が勉強にもなって、まわりのスタッフからもかわいがられたので、独立した時にも役立ったと述懐する。

「半沢さんの所にいた2年間で、撮影はもとより仕事の進め方やいろんなことを教わっていたので、本当ならそれからが師匠へ恩返しをしなきゃいけない時期なんだけど、自分自身のタイミングを考えた結果、事務所をやめて独立という道を選びました」

 独立してすぐに車内刷りポスターの仕事がきた。その後もアシスタント時代にかわいがってもらってたデザイン事務所や知り合いの広告代理店のディレクターなどの所へモノクロで撮り溜めたポートレート作品のプリントなどのブックを持ち込み営業活動をして仕事が依頼されるようになり、順調なスタートを切った。念願だったレコードジャケット(当時は未だCDよりレコードがメインだった)などの仕事も舞い込んできた。翌年にはAPA(日本広告写真家協会)に応募し奨励賞を受賞。

「賞をもらったのをきっかけに助手時代の師匠関係者だけじゃなく、もっと多くの人たちにも営業しやすくなり、それまで知り合いではなかったいろんな方面からの仕事も入ってきたので、僕にとっては良いきっかけだったと思いますよ」

 阪本順治監督のデビュー作でもある、1989年公開の映画「どついたるねん」のポスターは、ガツンッとしたストレートな写真で、強い。マイヤマの本質が出ていてボクは好きだなー。ボクの中では若きマイヤマ作品の中で代表的な感じに捉えて強く印象に残ってるんだけど、いきさつとかを聞かせてください。

「あの仕事はブックを持って営業にまわってた中、ポートレート作品を気に入ってくれたデザイン事務所から電話がかかってきてやらせてもらうことになったんです。元プロボクサーの方の自叙伝的な映画になるっていうので、当時は赤井さんも一般的にはあまり知られていなかったから、撮影するにあたっていろいろ調べてからお会いしました」

「最初の話は宣伝用ポスターの撮影だけだったんですが、実際には劇中のスチールも担当させてもらうことになりました。映画自体は学生時代から超がつくほど大好きだったんで、映画の現場へ入れるのも大喜びでしたよ。あの頃は映画ロケに伴って、何回も大阪へ行ったり来たりしていました。赤井さん以外の他の登場人物も、実際に赤井さんが関わってきたリアルな人も多くてなかなか緊張感のある現場でした(笑)」

仕事がオフの日。額装のフレームやオーバーマットを選びに、芝浦にある写真専門ギャラリー&ショップのPGI(Photo Gallery International)へ出掛ける写真家は悩む、マイヤマは悩む、さらに悩む(笑)PGIの野崎さんからいろんな意見をきく。そして額装方法や種類についての説明を親切丁寧に受けた結果、なんとなく方向性が絞れていったようだ

 マイヤマとは長い付き合いだが、今回いろんなインタビューをさせてもらった中、彼が同時代にやっていた仕事の中でボクがオッと思った話しが出た。

「CDジャケットの仕事で北島三郎さんの写真や、北島事務所の全員のカレンダー用写真とかも撮らせてもらったことがありました。独立していろんな仕事をはじめてからも、田舎の親としては"息子はいったい何をやってるんだ?"って感じでいたんですが、北島さんを撮ったっていうと親父は大喜びでやっと一人前としてこの仕事を認めてくれましたね(笑)」

 このあたりが、彼の九州人たる所以を象徴しているのかも知れないと思う。

 その後、CDジャケットの仕事がどんどん増えていったわけだけど、CDの仕事というのはもちろん彼ひとりの力ではなく、アートディレクター(AD、グラフィックデザイナー)たちとの出会いの中から生まれてくるアイディアなどの大切さを強く感じているという。

Hidekazu Maiyama (c)
Hidekazu Maiyama (c)

 そういえば10年くらい前に、hitomiさんの撮影をかなりやっていたと思うんだけど、同じ被写体を撮り続けてみた経験はどうでしたか?

「彼女とは90年代の終わりくらいから2000年代のアタマにかけて丸5年間くらい、様々な仕事を一緒にやらせてもらいましたね。最初の2年くらいはCDジャケットだけだったんですが、その後はCDと連動したポスター、それから写真集を作って発表したんですけど、それが大ヒットして彼女をモデルに起用した広告キャンペーンの撮影もあって、hitomi関連の撮影の仕事がものすごく増えました」

「あの頃、彼女が雑誌や広告に出てる写真の8~9割くらいを撮影してたんじゃないでしょうか。それまではいろんなモデルを撮影しても、モデルが変わったりロケ地が変わってたりすることで変化を出せたんですが、当たり前なんですが彼女の撮影では被写体はいつも彼女で、その他のスタイリストやヘアメークもカメラマンも同じというスタッフワークの中でやってました。超売れっ子の彼女は毎月のように女性誌やファッション誌、ビューティーなど同じような読者層を抱える雑誌に登場することが多く、企画内容も似ているので、その中で常に新しいものを作っていく、それも彼女のイメージを壊さないように作っていくというのが正直のところ悩みどころで大変でしたね(笑)」

「被写体のhitomiはもちろん、スタッフもみんな優れた人たちで、とても良い条件が揃ってるんです。だけど良い条件の怖さっていうか、晴れがずっと続くと全部が晴れの写真にしかならないのと同じで、たまには雨が降ってほしかったり風が吹いてほしいんです。そこから違うものにしなければいけない辛さがあるように、良い条件ゆえに同じようにならないためには、毎回毎回、ロケ場所やライティング、背景のセットなど、手を変え品を変えて、それでも自分には無い部分はADや編集者からのアイディアも全部いただいたうえで、いろんなhitomiの撮影にチャレンジ出来たことで、表現の広がりや厚みも増えたかなと思います。30代後半からの自分でしたが、妥協したら負けだと思って頑張った結果、とても良い勉強をする経験になりましたね!」

 ほかの職業でもそうだが、往々にして30代後半から40代前半というのは、仕事にも慣れキャリアもある程度積んできてしかも体力だってまだある、いわば脂ののった時期だ。経験と慣れというのは紙一重で、ある実績を積んでいくと、自分自身だけじゃなく世間の評価もそこに落ち着きはじめる。写真家は新しい表現をしたくてもなかなかできない場合もある。なかには、慣れだけでやっていき、その先へいけなくなる場合だってあるだろう。そんな年齢に差し掛かった時期にマイヤマの場合は慣れに陥ることなく、そして怠ることもなくいい仕事にチャレンジ出来たことが、今も第一線で活躍していることの証しにも繋がっているんじゃないかとボクは思う。

この日は月刊雑誌「CIRCUS」の巻頭グラビア撮影で、朝9時に葛西臨海公園に集合。タレントさんのメイクや着替えをやってる間に、編集者さん、助手さんとマイヤマたち撮影スタッフのみですぐにロケハンまわりしてテストを行う。オートフォーカスは使うが、露出はすべてマニュアル設定で単独の露出計で測光してから撮影するというのもマイヤマ流のこだわりの一つ11時、撮影スタート。この日も撮影機材はニコンD3s、14-24mm、24-70mm、70-200mmの開放F値2.8のナノクリスタル3兄弟のズームレンズセットで快調に進んでいく普通のレフ板ではなく、物干し竿のバーを使って大きな白いシーツをクリップで固定して使う。広い面積で柔らかく反射させたり、時にはデュフューザーとしても使えるし、バラしてたためばコンパクトで運べるというマイヤマオリジナル。彼が特許申請をしているかどうかは知らない(笑)
ピクニックデートで食事をするというシチュエーションの撮影。モデルさんが食べるならカメラマンも試食してみなければいけない。これは撮影時の礼儀である。それだけじゃなく、ちょうど昼時なので空腹なのも事実だが(笑)この日はマイヤマのほかに、モデルの女優さん、マネージャーさん、編集さん、メイクさん、スタイリストさん、ライターさん、アシスタントさんが2名、総勢約10名。3月初旬の天気の良い日だったが、まだ風が強くて海浜での撮影は辛い季節。それを4月発売の掲載写真には微塵も感じさせず、春らしく仕上げるのもプロの仕事午後1時、撮影が終わってやっとランチタイム。メモリーカードを交換するたびにデータはパソコンへ取り込まれているので、この時点でMacBookProに取り込まれた写真の荒選びは始まっている。担当編集者はKKベストセラーの多賀さん。オツカレサマでした

 仕事とは別に「GARDEN」というタイトルで、淡々とした動物園シリーズの作品をずっと撮っているよね。どういう意図や方法論で撮ってるのかを教えてください。

「かなり長いスパンである仕事にかかわっていた時期があって、その間には作品撮影をあまりやってなかったんですね。何かワンテーマで自分自身のための写真を撮りたいっていう思いが強くなってきて、仕事のスケジュールの合間でも時間ができたらすぐに撮影可能なテーマを探していたんです。」

「そこで自分の作品を撮るにあたって"好きなモノを撮ろう"って思ったんですが、それは動物園かな、と。以前から動物園自体が好きで、いろんな場所へ行ってはその町の動物園を見たりしていたんです。さて実際にどうやって撮ろうかっていう時になって、動物のポートレートを撮ろうとしたんですけど、動物そのものだけじゃなくって飼われている柵だとか檻、それらを含むいろいろな環境が各動物園によって違うんです。それなら4×5カメラを使って箱庭感がある絵を撮ってみたらどうだろう?って考えて。お客さんの目線で動物とそれを含む環境を一緒に撮ってみたほうが、動物の心理を語れるんじゃないかと思ったんです。」

写真集「GARDEN」より Hidekazu Maiyama (c)
写真集「GARDEN」より Hidekazu Maiyama (c)

「カメラはリンホフのテヒニカ4×5にネガカラーのフィルムで撮っています。だいたい1回の撮影には40枚のフィルムホルダーを用意して、三脚を担いでひとりで通っています。朝、オープンから閉館までの間ずっと園内にいて、動物の種類や場所によって光線などが変わるので、あっち行ったりこっち行ったりして移動しながら40枚を1日でちょうど撮りきるという作業です。前回の写真集の内容が30カ所くらいなので、この先も残り30カ所くらいを続けて撮っていくつもりです。」

舞山事務所は同じビルの中に3部屋ある。ここは最上階の部屋で、主にマネージメント業務や事務処理、そしてデジタルデータをMacとエプソンのプリンターで仕上げまでを行っている舞山事務所スタッフの皆さん。左から片倉さん、舞山氏、森口さん、マネージャーの横田さん、萩さん
4Fの部屋には温度や湿度管理がされていて、過去から現在までに撮影した全てのネガやポジ、コンタクトシートやプリントなど作品保管庫になっているモノクロプリントはアーカイバル用の網棚に干して一晩自然乾燥する。枠は手製らしい工夫が。そしてこの奥には壁を青に塗られた暗室がある
現在の主力機材。雑誌撮影などのメインはニコンD3sと、この3本のナノクリスタルズームレンズのセットで殆どこなしている。AF-S NIKKOR 14-24mm F2.8 G ED、AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8 G ED、AF-S NIKKOR 70-200mm F2.8 G ED VR II。下のカメラバッグはライトウェア製
ハッセルブラッドの中判デジタルカメラシステムはポスターなど広告撮影に使われる。現在デジタルバックはLEAFのAputus54S、FASEの3,900万画素の45+。ネガっぽいリーフと柔らかいトーンのフェーズ。特徴が違う2種類のデジタルバック両方を所有し使い分けている
助手さんに無理を言ってカメラやレンズなどを並べてもらった。ニコンなど銀塩35㎜~ペンタックス645&67の中判セット~大型カメラ(45はリンホフとジナー、810はタチハラ)まで、最新のデジタルカメラを含めて全ラインナップが揃っている。三脚はすべてジッツオ製。機材は種類ごとにバッグに入れて管理されている
引き伸ばし機はDurst社のLaborator1200にCLS 501カラーヘッド搭載の最強マシンだ。これ1台で35mm~4×5まで対応している。今はほとんどがブローニーか4×5のプリントらしい
シンク上部には現像、停止、定着、予備水洗の順番にサラ現像用バットが並んでいる。最終的にはアーカイバルプリントウオッシャーで水洗。中段にはカラープリント用の自動現像機CP-51や薬品類のストック。下段には使用済みの廃液タンクと整理されて使いやすそうな作りだ35㎜判~4×5サイズまでの各対応の引き伸ばしレンズ群。ELニッコールとローデンシュトック製品。後ろにあるのは今気に入ってるというFORTE社のARGENTONEペーパー
暗室の片隅にはフィルム用の冷蔵庫。ネガカラーのPORTRA VCのブローニーが多用するフィルム。他に4×5などもオリエンタルのニューシーガル。ほかにもコダック、イルフォード、フジなど様々なペーパーの箱があるところを見ると用途で使い分けているようだ。右側は定番のサンダースのイーゼル

 最後に、好きな写真家の名前を教えて?

「学生時代に自分で写真を撮り始めた頃に心を打たれて、当時、憧れだったのはジャンルー・シーフとアンリ・カルティエ・ブレッソンですね。」

 事務所やスタッフを抱えて仕事をしながらも、自分自身の作品も精力的に撮影している。そしてレンタル撮影用のハウススタジオの経営もしている。

 ボクなんか足下にも及ばない成功の裏には、マイヤマの日々の努力があってこそと今回の取材では多くを学ばせてもらった。これからも尊敬できる友人でいてほしい。

(文中敬称略)

※舞山氏のポートレート撮影にあたっては、千葉県九十九里の「コンタクトスタジオ」にご協力いただきました。



(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
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2011/5/13 18:14