「サンディスク・エクストリーム・チーム」スペシャルインタビュー ~アフロスポーツ代表・青木紘二編

Reported by市井康延

(c)青木紘二 / アフロスポーツ

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 スポーツの一瞬の迫力と感動、アスリートたちのドラマを見せるスポーツ写真。現在は数多くのフリーカメラマンが活躍するジャンルだが、その歴史は意外と若い。1970年半ば頃までは、試合結果の報道を目的に新聞社のカメラマンが撮影していただけだったからだ。

 以降、カメラマンたちが「見たことのない1枚」を捉えるために凌ぎを削った。その写真表現の広がりは、デジタル化をはじめ、撮影機材の進化も大いに後押ししてきた。このスペシャルインタビューでは、スポーツ写真界のパイオニアである2人のカメラマンを紹介する。彼らのこれまでの歩みと、今なお情熱を持って被写体に向かう姿勢は、写真を志す人にとって興味深く、示唆に富んでいるはずだ。


 後編となる今回は、株式会社アフロ代表取締役で現役のスポーツカメラマンでもある青木紘二さんを迎え、お話を伺った。

 サンディスクがプロスポーツカメラマンを集めて発足した「サンディスク・エクストリーム・チーム」には、青木氏自身に加え、アフロスポーツ所属の築田純氏、戸村功臣氏、北村大樹氏、YUTAKA氏、杉本哲大氏、中西祐介氏が参加している。現在、サンディスク・エクストリーム・チームのWebサイト上において、青木氏と中西氏の作品を紹介している。今後は、サンディスクによるイベントへの参加も予定しているという。

青木紘二氏

その瞬間を絶対に止める。その気迫が大事だ

 この2点は、とりわけ青木さんの個性が際立つ写真だ。最初は2008年北京オリンピックでのワンシーンで、和田投手が投げたボールにピントを合わせた。

「日本が守備側で3回ぐらいだと、動きがなければ真剣に撮るものがないんだよね。だから遊んでみたんだ」と笑う。

(c)青木紘二 / アフロスポーツ

 プロが投げるボールは、時速140km前後で、当然AFは追随しない。置きピンで、ボールに合わせてシャッターを切る。アルペンの滑降は最高速度が140kmに達する。これを撮れるのだから、ボールも撮れるのではないかという気持ちがあった。

「連写はするけど、最初の1枚目で合わなかったら無理。連写でどうにかなるスピードじゃないからね。この時は5球ぐらいトライしたかな」

 長年、マニュアルフォーカスで高速の被写体を捉えてきた技術と感性は、AFの時代になっても仕舞い込まれることはない。時折、こうして遊びのように自分に課すのだ。

 また、プロゴルファーのインパクトの瞬間を撮る時も同様だという。

「ボールを叩いた瞬間にシャッターを切ったら、写っているのはゴルファーがフィニッシュしているシーンだよ。これはタイミングで撮るんだよね」

(c)青木紘二 / アフロスポーツ

 ちなみに公式試合でカメラマンはゴルファーがボールを打つ瞬間まで、シャッターは切れない。その前にシャッター音を響かせたら、その場でプレスカードを没収されてしまうのだ。

「その代わり、ものすごい集中力が必要だから、何カットも続けられない。AFと連写で育った若いカメラマンは、こうした『絶対撮ってやる』という気迫を持つ人が少ないのが残念だね」

 青木さんはプロになりたての頃、昭和通りの陸橋に上がり、向かってくる自動車のナンバープレートを撮って、ピントを合わせるトレーニングをしたそうだ。

「300mmを使い、画面いっぱいに撮る。シャッタータイムラグがどのぐらいあるかも身についてくるし、良い訓練になるよ」

集中力が不可能を可能にする

 もう一点は、キヤノンEOS-1D Mark IIIの製品カタログで使った1枚だ。飛び込みの選手が水中に入ったシーンを収めた。

(c)青木紘二 / アフロスポーツ

 これは当然、撮影者も水中にいなければ撮れない。青木さんは身体に重りとロープをつけて沈み、合図を送ると、ロープで引き上げてもらった。

「1回潜って、2人の選手を撮った。二人目は水中の泡が静まるのを待ってからだから、1分半以上は水中にいることになる。普段はそんなに息を止められないけど、カメラを持って、撮るぞと思うとできてしまう。やはりそれは集中力だろうね」

 水中に入ってわかったのは、選手は飛び込んだ瞬間、すぐに浮上を始めることだ。そうすると身体が一直線に伸びず、きれいな絵にならない。

「そこで床に手を着くように指示を出した。最初、彼らは驚いていたけどね。撮りたいイメージを得るために、いつもその場でアイデアを出していくんだ」

 カヤック競技では滝の中に飛び込んだ時でも、「僕をにらみ続けていてくれ」と指示を出した。その写真からは、実際の試合のような緊迫感が醸し出されている。

(c)青木紘二 / アフロスポーツ

「これはAFで撮ったけど、眼にピントが合った。水飛沫に蹴られることが多いんだけど、これは一発で決まったよ」

 撮りたいイメージが明確にあり、それを実現させる手立ての巧みさが青木さんの真骨頂だ。

モナコグランプリが初仕事

 青木さんが写真を始めたのは小学生からだ。

「父親が稀代のアマチュアカメラマンで、僕を自分の趣味に引っ張り込みたかったみたい。小学5年生の頃には自分でプリントを焼いていました」

 もう一つその父から影響を受けたのが映画。中学時代から映画雑誌に映画評を投稿し、ヨーロッパ映画への関心から、20歳でスイスに留学を決めた。異国でのアルバイト先はスキー学校を選んだ。

「生まれが富山で、スキーは子供の遊びとして育ちました。スイスのグミュタードにあるスキー学校の校長がその地方のボス的存在で、普通外国人は入ることができない国家教師となるべく養成コースに入る段取りをしてくれた。おかげでスイス歴代6,624番目の国家教師になれました。その当時のスイスのスキー教師は報酬が高く、冬だけ働いても、使うこともないから結構お金は貯まったんですよ」

 3年間、スイスで勉強半分、仕事半分で働く間に得た収入で世界中貧乏旅行を楽しんだ。

「旅ではいつも写真を撮っていましたね。スキー教師はいつまでもやっていられないから、次に何をしようかと考えていた時、カメラマンも選択肢の一つに浮かびました」

 スイスで学生だった1969年に、日本の雑誌社からモナコグランプリの取材を頼まれたことがあった。

「簡単には日本から海外取材に行けない時代で、アマチュアである私には、良い写真が撮れたら使ってあげるよぐらいの話でした。僕は表彰式でモナコ王妃のグレース・ケリーが見たかったから行った(笑)」

 モータースポーツを撮るのは初めてだったが、「最近、その時の写真を整理したら、ちゃんとピントが合っていた」そうだ。

そんな背景もあり、1976年、プロ写真家を宣言した。

プロカメラマンとして順風満帆だったが……

 海外旅行の豊富な経験と、語学力を武器に、JALパックや機内誌の仕事が増えていった。

「最近、その当時の編集者に『あの頃、青木さんは写真が下手だったね』と言われた(笑)。まあ、アマチュアが突然、プロになったんだから、しょうがないよね」

 そのJALパックでスキーツアーが始まり、青木さんもスキーを撮るようになった。

「20kgの機材を担いでいたって滑れるからスキー撮影は楽だった。ただ僕はスポーツカメラマンって言われるけど、自分でそういう意識はないんだ。昔も今も何でも撮っているし、撮りたいと思っている」

 プロになって4年目。スイスに拠点を置いて、年に10カ月は撮影旅行に出かけていた。カメラマンとしては順調な滑り出しだ。

「だけどそれだけでは物足りなくなってきた。何かビジネスがしたくなって、フォトエージェンシーを始めました」

 当時、同業者はすでに300社あり、周囲で賛成する人は一人もいなかった。

「どんな場面でも、いつも良い写真が撮れるわけじゃない。多くのカメラマンの写真を集めれば、より良い写真を提供できるようになる。具体的なビジネスのやり方は全く知らなかったけど、そうしたかったんだ」

 ターゲットは絞ろうと、最も人脈があったスキー関係のカメラマンに声をかけ、写真を集めた。1年後には、スキー関係の写真を一番持つエージェントになり、それがアフロ躍進の礎となった。もちろん、今ではあらゆるジャンルの写真素材を扱っている。

(c)青木紘二 / アフロスポーツ

良い写真と儲かる写真は違う

「良い写真は見る人の想像力を刺激する。けれど、一番儲かる写真は印象に残らない、何回見ても忘れる写真なんだ」

 稼ぐ写真は何回も使われ、その売上げは1,000万円を超すという。その代表的な1枚は、ゴルフのグリーン上にティーとボールが置かれた写真だ。

「84年、岡本綾子選手が活躍していた頃のハワイでのトーナメントだった。初日、丹精されたグリーンが美しくて、ボールとティーを置いて望遠で撮った。あそこまで完璧な状態の芝は滅多にないんだ」

 今でこそパソコンで修正という方法があるが、その頃はフイルムの時代。別にどうこういう映像ではなかったが、100点満点の80点か82点かというこの2点の差が売上げに非常に大きく影響するのは、今のデジタル時代でも変わりはない。

 ワールドカップで、ベッカムがゴールを決めてガッツポーズしたシーンは、数多くのカメラマンがいたが、唯一、青木さんだけが撮影できた。この1枚は試合の翌日だけで世界40誌に掲載された。

「ベッカムのゴールに反応して、そこにいたカメラマン全員がゴールポストに向かった。僕だけベッカムの真後ろに行ったんだ。それも広角レンズを持ってね。その理由を聞かれてもわからない。なぜか行ったんだ」

 人と同じ動きをしたら、同じ写真しか撮れない。そうした経験則から出た行動でもあり、本能的なものでもあるのだろう。それが青木さんの写真には一貫して流れているし、アフロの重要なDNAにもなっている。

 なおアフロの社名の由来は、美の女神のアフロディテ(Aphrodite)だという。

「ローマ字でのつづりは違いますが、日本語では同じアフロです。名簿で最初に載るように、アではじまる社名にしたかった。それと青木フォトロケーション(AFLO)の意味も込めていました。これは初めて明かす話です(笑)」






(いちいやすのぶ)1963年、東京生まれ。ここ数年で、新しいギャラリーが随分と増えてきた。若手写真家の自主ギャラリー、アート志向の画廊系ギャラリーなど、そのカラーもさまざまだ。必見の写真展を見落とさないように、東京フォト散歩でギャラリー情報の確認を。写真展の開催情報もお気軽にお寄せください。

2011/4/28 00:00