写真展レポート

人間の尊厳を見つめて。中条 望さん写真展「今ここで生きる:ロヒンギャ難民キャンプ」がオリンパスギャラリー東京で開催中

写真家の中条 望さん。展示会場入り口にて。

オリンパスギャラリー東京(東京・新宿)で写真家・中条 望さんの写真展「今ここで生きる:ロヒンギャ難民キャンプ」が開催されている。会期は9月16日~9月27日。初日の展示会場にて中条さんにどのような視点で難民問題を追っていったのかを聞いていった。

作品から立ち上がる人々の姿

難民という言葉から想像されるような悲惨・凄惨な悲劇は、しかし展示会場にはひろがっていない。中条さんの捉えた彼らロヒンギャ難民たちの姿はひたむきで、人々の明日へ向けた眼差しが強く印象に残る構成となっていた。

展示会場の様子。

だが、その眼差しを支える歴史は複雑そのもの。取材中には凄惨な場面にも多々遭遇することになったという。写真から立ち上がる世界は、それだけでも奥深さを感じさせるものとなっているが、彼らをめぐる歴史をふまえて見ていくと、全く違った見え方になる。それは彼らが置かれている状況と密接不可分な要素だからだ。ここでその歴史をざっと整理してみたい。

難民を生んだ歴史

バングラデシュ国内には複数のロヒンギャ難民キャンプが存在する。中条さんは、これら難民キャンプのうち、南部のナヤパラキャンプ(1992年設立)を基点に取材を続けている。その規模は隣接するキャンプと合わせると今では約10万人を超える規模になっているという。では、なぜこのような状況が発生したのだろうか。

難民キャンプはバングラデシュでも有数の観光地のひとつであるコックスバザールに置かれている。世界最大のメガキャンプと称される「クトゥパロン」はコックスバザールの北部、ウキアに位置。中条さんは南部のナヤパラキャンプで取材をしている。

この素朴な疑問に答えるためには、彼ら民族の成り立ちから知っていく必要がある。「ロヒンギャ」という名がいつから生まれ定着していったのかは明らかになっていない。が、その名は民族それ自体と不可分なものと考えられる。ロヒンギャが話す言語は、ベンガル語のチッタゴン方言のひとつだとされている。ベンガルとはインドのベンガル地方を指し、主に現在のバングラデシュを示す。

彼らの流入と定着の歴史は、複数の層にわけて捉えられている。その歴史は遥か15世紀頃まで遡る。

15〜18世紀、ビルマ・アラカン地方(現在のミャンマー・ラカイン州)に成立した仏教王朝のアラカン王国にベンガル地方出身のイスラム教徒が一定数入り、王国内で役職に就く人々が出てくるなど、定着が進んだとされている。これが彼らの同地定着の基盤となっていった(第1層)。王国全盛期には現在のバングラデシュ南部まで統治範囲はひろがっていたとされている。

この王国も17世紀に入ると内乱や暴動により衰退がはじまり、1785年(1784年とする説もある)にビルマ王国の侵略により滅亡する。そして、1824年〜26年にかけて発生した第一次英緬戦争を経て同地はイギリスの植民地となった(イギリスによるビルマ統治。1824〜1948年)。この期にベンガル地方側からムスリムが同地に移住。定住が進んでいった(第2層)。

第二次世界大戦を経て1948年1月にミャンマーは独立するも、東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部において、東パキスタンで食糧不足に苦しむベンガル地方からの流入が進んだ(第3層)。

そして1971年、第3次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争)が発生。人々の流入が進んだ(第4層)。

数世紀にわたって移住・定着が進んでいった彼らの歴史は、大きくこれら4層に区分して捉えることができる。しかし1982年にミャンマー国内において改正国籍法(現行国籍法)施行に基づき、彼らが土着の民族ではないことが合法化されると状況は一変した。正式に彼らはミャンマー国内において非国民扱いとなり、国籍が剥奪されるに至った。彼らの生活区域は制限され、労働や教育の機会を得られない現在の基盤が成立した。

そして2017年8月25日、彼らにとって5度目の移民を強いる状況が発生した。ミャンマー国内において、ロヒンギャ(仏教徒が多くを占めるミャンマーにおいてバングラデシュに程近いラカイン州出身の少数派イスラム教徒)の大量虐殺が発生したためだ。

虐殺の犠牲となった人々の数は約1カ月間でおよそ6,700人におよんだという。この難を逃れるため、彼らはバングラデシュ側へ移動。わずか半年間で約70万人(前年度からの流出と合計すると約90万人)もの人々がバングラデシュに流入したのだという。

1978年のビルマ入国管理局によって大規模なロヒンギャの逮捕と追放に伴う大規模な流出(約20万人といわれている)から、1991年のミャンマー軍と仏教徒による組織的な虐殺に伴う流出など、2017年に至るまで数度にわたって人々の流出はあったが、この2017年8月の流出は過去最大規模となり、バングラデシュ国内におけるロヒンギャ難民は一気にふくれあがることとなった。その数は優に100万を越え、多くの無国籍民を生む状況となっている。

2017年以降の人々の生活を追う

中条さんは、2017年末から2020年初頭にかけてロヒンギャ難民キャンプ内における人々の生活を取材していった。この間、何度も現地を訪ね、彼らの苦悩に接し、また彼らの生きる姿、未来を見つめる姿を捉えていったのだそうだ。今でこそ新型コロナウィルスの世界的な感染拡大に伴い移動が制限されているが、数年間にわたって彼らと信頼関係を築き、その生活に迫った内容が本展の展示作品に結実しているわけだ。

これら作品について、中条さんは「今この瞬間だけでなく連綿と今に至る過去、容易に辿り着く事の出来ない未来に在る事を忘れてはならない」として、「彼らが今ここで“人”として生きる姿」こそを自分自身の眼で捉えていきたいのだ、と語ってくれた。

展示作品より。学び得た知識を使う場面はないが、子ども達は英語や数学を学び続けている。

中条さんは2018年12月から2019年1月にかけて、東京および大阪(当時)のオリンパスギャラリーにおいて「サゴッタ 11歳の女の子が過ごす難民キャンプ」と題した写真展を開催。本展と同じく難民問題に取材したドキュメンタリーを作品展を通じて伝えていた。作品展は難民キャンプで暮らす女の子を描いた内容となっていたが、彼らビハール難民と比較して、本展で取りあげられているロヒンギャ難民問題は、その歴史の複雑さとともに特有の難しさがあると言う。

「難民はそこで生活するにあたって「1.流入(逃避)」「2.定着」「3.同化」というプロセスを経ていくと考えています。現在は「2.定着」の段階にあるとみられますが、その状況は長く変化がなく、「3.同化」には至らない状況が続いています。特に私が取材を行っているナヤパラキャンプは、2016年と2017年に大規模な「1.流入(逃避)」が加わり、依然として混乱が続いています。日々キャンプは広がり続けており、内部では治安の悪化も発生しています。取材中も変わり続ける状況に心休まる瞬間はありませんでした。」(中条さん)

展示会場の様子。
展示作品より。難民キャンプという言葉から想像されるよりも彼らの生活空間は簡易的なものとはなっていない。しかし裏をかえせば、それは彼らの定着の度合いを示しているということでもある。

写真展では、キャンプ内における人々の生活を様々な側面から捉えた作品が並べられている。日々の営み、配給を受ける姿、宗教、学校で学ぶ子ども達の姿へ。流入からはじまる人々の生活と、現地に「定着」した様子が伝えられている。

作品の配列について、中条さんは「内から外へ向いていく流れを意識した」のだと教えてくれた。この配列も悩みに悩んで決めていったという中条さん。彼らの何を伝えたいと考え、そして彼らのどのようなところに惹かれたのか。そうした無意識下でシャッターを切っていたひとつひとつの瞬間に向き合う中で、それらの想いを言語化できるようになっていったのだと話す。そして、そうした中で特に彼らの目の強さが印象的だったのだと続ける。

そうした想いは、写真展の結びに寄せたメッセージ「彼らは生きて今ここにいる。私は無視する事は出来ない。」によく表れているように思われる。展示会場に配されている作品は美しさをたたえているが、その美しさについて中条さんは、彼らの姿の中に人間としての尊厳を見出したのだと語る。

展示会場に入ると、まず一人の少女の姿に対面することになる。本展で1番目の作品だが、はじめて会った時の彼女は、目が落ち窪み、ガリガリに痩せた姿だったのだという。それから数年間にわたって交流が続いていく中で、変化していく彼女の姿を都度見つめ続けていった。

「僕は彼女を通じてこのキャンプの姿全体が見えるように感じています。それは彼女がキャンプの中で大切にされ、また未来を見据えて学ぶ姿勢を止める事のない人々の力強さが、その瞳に宿っていると感じたからです。」(中条さん)

展示作品より。

彼らに見せても嫌な気持ちを抱かせないような作品展を目指したという中条さん。彼らをめぐる社会問題を伝える責務を追いながらも、そうした彼らの姿から人間としての尊厳を感じてほしいと話す。

概要

会場

オリンパスギャラリー東京
東京都新宿区西新宿1-24-1 エステック情報ビル地下1階

会期

9月16日~9月27日

時間

10時~18時

休館日

火曜・水曜
※会期中は9月21日および9月22日の2日間

本誌:宮澤孝周