東京エッジ~首都辺境を巡る写真紀行
第13回:霊山より深く高く分け入って——笹尾根
2019年12月27日 07:00
風景や動物、鉄道といったある特定の分野を撮る者を、〇〇写真家と括る風潮があまり好きではない。本来写真とはそういうものではないと思っているからだ。心が動いた瞬間にシャッターを押すのが写真家で、そこに垣根はない。その時気になっている女性の場合もあれば、路地裏でふと出会った猫のこともあるし、思わず見上げた、夕闇迫る美しい空にカメラを向けることもある。対象は縦横無尽。
そんな私でも、メディアに紹介される際に「格闘写真家」と呼ばれていた時期がある。カテゴライズした方が分かりやすいので、理解はできる。人は交通整理、分類分けをしたがるもの。当時それぐらい格闘技を撮っていたということだろう。自分もブラジリアン柔術というものをやっていることもあるし。ただ格闘技に限らず、撮りつづているものがある。山だ。この連載でも何度か東京のエッジとして山を紹介している。
昔は山を越えたら違う国だった。東京近郊でいうと、甲斐(山梨)、武蔵(東京、埼玉)、相模(神奈川)など。日本に限らず、山や川は国や県(州)など、なにかの境界線になることが多い。
今回の舞台もそういった山である。
6年前、山梨県の金峰山(2,599m)から、『東京エッジ』第1回で表した東京都最高峰の雲取山(2,017m)まで、テントを担いで秩父の山々を3日間歩いたことがあった。地図を見ていると、一度、奥多摩湖まで下りるが、そこからまた山に入って高尾山まで歩いて帰れることが分かった。その時は疲れていたので大人しく奥多摩駅から電車に乗って帰ったが、いつかそれをやってみたいと思っていた。
奥多摩にある奥多摩湖から三頭山(1,531m)に登り、自宅のある高尾まで歩いて帰ってくる。今回のミッションはそれである。
行きは電車で奥多摩駅まで行き、そこからバスに乗って「小河内神社」停留所で降りる。
奥多摩湖に掛かっている橋、厳密にいうとポリエチレン・発泡スチロール製の浮子でできている浮橋を歩いて渡る。以前はドラム缶の浮子を使用していたので、通称ドラム缶橋と呼ばれているようである。もっと揺れるのかと思いきや安定していて歩きやすい。さくさくっと渡って対岸に移る。しばらく車道を歩いて、山に入る。
まず目指すのは奥多摩三山のひとつ三頭山だ。奥多摩三大急登(諸説あり)と呼ばれているだけあって、なかなかにきつい登り一辺倒。日が沈む前に着き、山頂直下の避難小屋に入る。おじいさん3人組の先客がいて、陽気な酒盛りが始まっていた。
翌朝、高尾山を目指して6時前に出発。通称「笹尾根」と呼ばれている山の稜線を歩いていく。少しいくと西面に視界が開けた場所があって夜明け前の富士山が見えた。しばらく写真を撮る。
東京の山々は富士山とは切っても切れない関係にある。どこに登ってもひとたび視界が開けば富士山が見える。とても近しい関係。江戸時代、富士講(富士山信仰、富士山詣で)が流行したのも頷ける。何度見ても形が秀逸で美しい。(第4回「富士塚」で詳しく書いてある)
道中、登りあり下りありのアップダウンの連続だが、それでも全体として見れば、三頭山(1,531m)から高尾山(599m)への下り傾向の道のりだから助かる。進行方向が逆だったらよりしんどかったことだろう。
聞いたこともないような無名の山をいくつも越えていく。残念ながら山頂は視界が開けていないことが多いが、時折、不意に富士山が見えたりして嬉しい。この笹尾根は大部分が山梨県と東京都の県境、エッジである。進行方向右手が山梨県上野原市、左手が東京都で唯一の村、檜原村となる。行程は長いが基本的には歩きやすい道のり。今日は天気もよく気持ちがいい。
笹尾根の真ん中ぐらい、土俵岳(1,005m)を下った分岐点にお地蔵さんがいらっしゃった。近くに昔の標識があって、上野原町猪丸と檜原村人里に下れると書いてある。いわゆる辻というやつだ。辻は異世界からきたいろんなものが出会う場所。必ずしも良いものばかりではない。ならず者や疫病、時には魔物も入ってくる。だからそういうところには道祖神、路傍の守り神としての地蔵が置かれていることが多い。
さらに進んだ浅間峠に小さな祠があった。どういった経緯で建てられたものなのかを示すものは何もない。すぐそばに2対の大きな杉の木があって、注連縄が巻かれてあるので、おそらくその木を祀ったものだと思われる。万物には神仏が宿るとする、日本固有の宗教観。大きな木や岩は依り代(神霊が降臨するところ)として、特に祀られる傾向にある。
これまで日本各地の山々を150以上登ってきた。日本は山には神仏がおわすと捉える文化があるから、その多くが霊山である。笹尾根はここまで小さなピークをいくつも越えてきたが、祀ってある痕跡がなかったので少々残念に思っていたが、ここに来てようやくその証を見つけたので嬉しかった。日本の思想・文化の根底になっているとも言える自然崇拝の心。四季ある美しい国、日本故である。
さらに進むと、先ほどの祠とは違って、もっときちんとした建造物である鳥居が出てきた。軍刀利神社元社とある。祭神として日本武尊命を祀ってある。500年の歴史をもつ本殿がここから40〜50分山梨県側に下った上野原市にあるようである。往時は軍神として甲斐の武田氏や、岩殿城主小山田氏から篤い崇敬を受けていたようだ。
里に近づいてきてようやく霊山になってきた。人が介在しないと霊山足り得ない。山はただそこに佇んでいるだけである。それを“霊山”とするのは、あくまで人であり、人の想いだ。
少し行って、三国山(960m)に到着。「みくにやま」とも「さんごくさん」とも呼ばれる。その名が示す通り、まさに武蔵(東京)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)の三国が接するところである。400〜500年前(戦国時代)、この辺りでは北条、武田、上杉などの激戦が繰り広げられたのだろうと思いを巡らす。
生藤山(990m)を過ぎて、約2時間歩き、ようやく和田峠(690m)に着いた。笹尾根はここで終わる。
これより先は陣馬山(855m)に登り返し、奥高尾とも呼ばれる、高尾山域に入る。
実質朝の6時に出発し、現在、午後の3時。ここまで約9時間の行程。
20分登って、陣馬山に到着。陣馬山には何度も来ている。広く平坦な頂上が特徴的で、尚且つ見晴らしが良いことから、陣を張るのに最適ということで付いた名前とされている。北条氏が武田氏に備えて砦を築いて陣場としたことから付いた名だとも。とても人気のある山。今日は時間も遅く、また先日の台風19号の影響で登山口〜高尾駅間のバスが運行していない影響もあるのか、ほかに登山客はいなかった。今日も変わらず心地の良い山頂。少し休憩して高尾山(599m)を目指す。往くのは東京と神奈川の県境である尾根道。
訪れたのは11月の終わりであり、一年で一番日が短い時期。景信山(727m)に着く頃にはすっかり暗くなってしまった。広大な関東平野の夜景が見える。ようやくここまで帰ってきたと実感する。我が街はもうすぐそこ、目に見えている。暗くても、道は整備されていて安全だし、何度も通った道だから問題はない。
高尾山(599m)に19時半に到着。一年でもっとも賑わう紅葉の時期の高尾山頂も、真っ暗なこの時間はさすがに若いカップルが一組いただけ。やっと来た。もう少しだ。
風呂に入って、美味い飯が食える。何を食おう。もうそんなことで頭がいっぱいだ。
元気な時は15分で駆け下りるところを、きっちり1時間かけて歩き、ようやく下山。距離にして約35km、14時間半を歩ききった。
山の尾根を歩いて、自分の足で奥多摩湖から帰ってきた。人間の足ってすごい。昔の人はこうして国を越えてきたのだな。
高尾山口駅に隣接してある京王高尾山温泉に入ってビール。もうそれしか考えていない。脂が食いたいから、カツカレーかとんかつにしよう。
つくづく思うが、自分はどこまでいっても取材者(写真家)なんだと思う。どんだけ山に登っても、やっぱり街場の方がいいもんな。山の中で人と交わらずひっそりと静かに暮らしたいとは思わない。生粋の山屋にはなれない。人の痕跡があるものを撮っている。だから山を撮るといっても霊山。里に近く、人の想いが介在した信仰の山。
私はどこまでも人を撮りたい。たとえ風景を撮ったとしても。人が介在している限りそれは社会性を帯びる。ジャーナリズムとなる。
さっぱりした身で、これ以上はもう歩きたくないと、自宅のある高尾駅までの一駅は電車に乗りましたとさ(笑)