Photographer's File

 #14:鹿野貴司

取材・撮影・文  HARUKI

鹿野貴司(しかの たかし)
プロフィール:1974年東京都葛飾区生まれ。1998年多摩美術大学映像コース卒業後、さまざまな職業を経てフリーの写真家に。写真展に「Tokyo Sunny Day」(コニカミノルタプラザ)、「甦る五重塔 身延山久遠寺」(キヤノンギャラリー)、「Beijingscape」(エプサイトギャラリー)など。写真集に『甦る五重塔 身延山久遠寺』(平凡社)。2012年5月22日〜31日、新宿コニカミノルタプラザ、ギャラリーBにて写真展「感應の霊峰七面山」開催中。



 シカーノ(鹿野貴司)という人間は不思議な存在である。番犬の代名詞である、柴犬のように人に対してとても優しく面倒見がいい反面、猫だから勝手でニャーゴみたいな部分もある。誰でも持ってる人間の二面性なのだが、1年間この取材を軸に様々な場面で観察してきた結果、彼のルーツや現在をみていて、手前味噌だが何となく霧が晴れるように見えてきたような気がする。ただ、その研究結果をボクが学術的に説明するのは困難なので、ボクの質問(誘導尋問?)に対して発してきた彼自身の言葉の網から、欠片を拾って感じていただけたらと思う。

(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司
(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司
(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司
(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司
(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司

「カメラライフ VOL-11」(玄光社MOOK)より「カメラライフ VOL-11」(玄光社MOOK)より
「カメラライフ VOL-11」(玄光社MOOK)より「カメラライフ VOL-11」(玄光社MOOK)より

「最初に中国へ行ったのは北京オリンピックの前年でしたので2007年でした。それまでも興味はあったんですが、ビビリな部分があって中国語もさっぱりわからないし社会主義国家だしちょっと怖い国だという意識が強かったですね。はじめて北京に行く時は自転車がたくさん走ってる写真が撮りたくて行ったんですが、あまりにも自転車が少なくてがっかりでした。イメージしてたのと状況が変わっていて、自動車はたくさん走ってるんですが、自転車はほんのちょっとしかなくって(笑)」

「それにはがっかりしたんですが、逆にオリンピックをきっかけにどんどん変化してる北京の街というのは、かつて高梨さんや長野さんたちが撮っていた東京オリンピックによって変化していった東京の街と似ているなって思ったんです。まさにコレがその被写体じゃないのだろうかって。それから北京や上海の変わっていく姿を撮るようになったんです」

「昔から下町にある平屋の建物を“胡同(ふーとん)” と呼ぶんですが、再開発のためにそれらがどんどん壊されていくんですが未だ残ってる部分もあって、その風景が僕の生まれ育った東京の下町の葛飾区立石という場所とよく似ているんです。マンションだと人の顔や暮らしが見えないんですけど、昔は小さな一軒家で人びとの生活が見えていたんですが今はなくなってしまいました。それが未だ残ってるような感じがして、ノスタルジーだけではないんですけどリアルな人の営みというか、人がいる風景というものを撮っています」

2011年の秋。シカーノが仕事とライフワークを兼ねて北京で撮影をするというので、ちょうど中国づいていたボクもついでに全額自腹で5日間の密着同行をしてきた。ボク自身5〜6回目、この年だけでも3回目の中国だったが地方都市ばかり巡っていたので、北京へは10数年ぶりであまりの急速な近代化への変貌に驚くばかり。近年、何度も訪れているシカーノの後をついていき、迷子にならないようにするのだが、お互い写真の被写体に夢中になるとあっという間に消えてしまうという得意技を発揮していた(笑)

 中国ってすごく広い国だけど、主に撮っているのは北京と上海という2大都市だけというのは何か理由があるんでしょうか?そして鹿野的に面白い部分というか、魅力としてはどういうところなんでしょうか

「他の場所へも行ったりはしてるんで、ゆくゆくは他でも撮りたいと思っているんですが、北京と上海の都市部だけでもかなり広くてなかなか撮りきれないんです。この2都市は日本でいうと東京と大阪ですから、それぞれオリンピックとか万博っていうのがあって急速な経済発展や近代化に向かってたりしているので、中国の中でも最も中国らしくない場所だともいわれているんですが、全国から人が集まってきてカオスな部分もありいろんな意味でそれこそが今の中国の象徴じゃないかと思うんです」

「自分の中での興味をひとことでいうと “なんでもあり” ですね。しかも最低でも1日1回は必ず“ナンジャこりゃあ!?”ってことやモノや人に出くわしますね(笑)」

北京はカオスだ。やはり面白い。

最も多用しているのはキヤノンのデジタル一眼レフ。現在使ってるのはEOS 5D Mark III、EOS 5D Mark II、EOS 7D。交換レンズ類はキヤノン純正の他にシグマとタムロン。シグマSD1やリコーGXR、オリンパスやペンタックスなどのコンパクトデジタルカメラ類。
OLYMPUS PEN E-P3 & OLYMPUS OM-D E-M5と交換レンズ類。銀塩時代のOM-2もある。メモリーカード類は最速タイプのサンディスク製品。カードケースはスイスGEPE製の「カードセイフ・ エクストリーム」。防水性が強く車に轢かれても大丈夫という噂。キーボードはお気に入りのPFU製Happy Hacking Keyboard Lite。

身延山や七面山でのグッズたち。上はトレッキングポール(ストック)。あると無いとじゃ登山道の上り下りの体力疲労や所要時間も大幅に違うらしい。カーボン製は軽いけど折れてしまうのでアルミ製とのこと。下は、腰のベルト位置にクイックセットして、ワンタッチで着脱可能なガンベルトタイプのイタリア製のスグレモノb-grip EVO。ボクもロケの時に使ってるけど便利です。カメラストラップはボクと同じくOP/TECH製。上は霊山に登る人間なら誰でも必要な数珠と鈴のお守り。過去にはクマが出たこともあるそうだ。下はお寺でいただく夕餉の食事。もっと質素なものを想像していたが意外と豪華だがこれらもすべて精進料理。白米のお茶碗の左側にある徳利が気になるのだが、お酒(御神酒)は付くそうだ(笑)

 シカーノ(鹿野氏を普段こう呼んでいるので)は、元々カメラマンじゃなく、編集とかそっち側の仕事をしてきたらしいんだけど、なぜカメラマンになったのかのいきさつも含めて訊かせてください。

「子供の頃はクルマが大好きだったんですけど、当時はまだテレビでF1中継とか無い時代で雑誌や新聞などの紙媒体でしか映像を見られないんですね。お小遣いでクルマ雑誌を買って眺めては、いつかこんな写真を撮りたいなって思ったのがきっかけです」

「何の経緯だったのかは覚えてないんですが、中1の頃に近所に住んでるクルマ好きの友人と一緒に東京の外れから自転車を漕いで、今も新宿にある出版社なんですが、そこの雑誌編集部へお邪魔したことがあるんです。電送機で写真の紙焼きが送られてきたり、航空便で海外から届いたばかりのエアメール封筒を開けると中からアイルトン・セナの写真が出てきたりして、そういうのを編集部で見せてもらってるうちに、将来は簡単にそういう仕事ができそうな気がしてきたんです(笑)」

「そして小遣いを貯めて中2の時に、友人から借りてきた望遠ズームレンズ付きの一眼レフカメラと近所の写真屋で買ったフィルム10本くらいを持って鈴鹿のF1グランプリに行きました。でもフィルム感度もシャッタースピードや絞りのことも知らないままで、いま思うと当たり前なんですけど帰って現像してみたら、思うように全然撮れてなくって……(笑)」

「で、その悔しさと、テクニック的な疑問点でカメラ雑誌を買ったり、クルマ雑誌でも撮影テクニック講座みたいなコーナーがあって、そういうのを読んだりするうちに、フィルムにはネガじゃなくポジっていうのがあるんだ、とか、望遠レンズにはこういう種類がある、とか、モータードライブが必要、とかいろんな知識が入ってくるんです。そしたらクルマそのものよりもカメラとか写真そのものに興味が移っていき、高校になったら写真部に入りました」


身延山久遠寺ポスターより身延山久遠寺ポスターより
身延山久遠寺ポスターより身延山久遠寺ポスターより
身延山久遠寺ポスターより身延山久遠寺ポスターより
フェーズワンの雑誌広告よりSIGMA SD1 Webサイトより

リコーのカタログよりリコーのカタログより

2011年、北京の四合院造りのホテル中庭にて

 失礼ながら超ビンボーな家庭で育ったと訊いてますけど、肝心のカメラはどうしたの?高価なのでやっぱり盗んだりとかしてたんですか?(笑)

「そう、盗んで……いや、違いますよ! 我が家は確かに貧しかったんで買ってもらえなかったんですが、千葉で土建屋をやってる、親戚の叔父さんがいるんですけど、その頃は羽振りが良くって。3つ下の弟の中学入学と僕の高校入学が同時なので、兄弟二人分共通の入学祝いにと段ボールを1箱送ってきてくれたんです」

「その段ボールの蓋を開けると、中身は叔父さんが趣味で毎週山のように買っていた過去1年間に買った宝くじがギッシリ詰まっていました。叔父さん曰わく、“全部調べてないけど、そこそこ当たってるハズだから”ということで。それを銀行へ持って行き換金したら、実際に全部で15万円くらいになったんです」

「弟と山分けして、本当はニコンが欲しかったんですが高くて買えなかったので、自分の取り分でキヤノンAE-1プログラムというカメラを中古で買ったんです。初めての自分のカメラを手にして暫くの間は喜んでいたんですが、例の叔父さんが何を買ったか見せてみろってことで、そしたら“今どきお前は何を買ってんだっ! 今はなぁ自動でピントが合うカメラがある時代なんだから買い換えろ”ってことで、有無をいわさず買ったばかりのAE-1を持ってカメラ屋へ連れていかれ、下取りに出して無理矢理に買わされたのが発売されたばかりの35-105㎜ズーム付きのEOS630。最新機種にランクアップでした(笑)」

 そのカメラを手に入れて何を撮っていたんですか?

「その頃から今と同じく街のスナップばかり撮っていましたね。高校があった鐘ヶ淵から川を挟んだ対岸に汐入という地区があって、まさにHARUKIさんが大好物な風景(笑)いわゆる昭和の作りそのものだったんです。そこがちょうど再開発の途中だったんですけど、地元の人たちが “ここら辺はもうすぐ、すっかり変わっちまうから今のうちに撮っておきな“ってことで撮ったりしてました。今は跡形もなくキレイに区画整理されて変わってしまいましたね」

「その頃、都写美(東京都写真美術館)がプレハブの建物で仮オープンしたころでよく見に行ったりしてたんですが、街の風景とかスナップとかが流行ってる時代で、いろんな作家のそういう写真を見てて“コレはもう一流の写真家になれるな!!”って自分で思い込んでましたね(笑)。もちろん “将来そうなりたい!”という憧れのほうが強いんですが。撮った写真をコンテストに応募して入選したりしてて、若さゆえの勘違いや何の根拠も無い自信みたいなのはありましたね(笑)」

 当時、好きだったりとか、影響受けたり尊敬してた写真家ってどんな方たちでしたか?

「高梨豊さんや長野重一さん、石元泰博さんとかです。モノクロームで瞬間を切り取るような都会的な写真を撮る人に憧れていました」

 なるほど〜。じゃあ高校生の鹿野少年は、いずれはそういう大作家陣たちと肩を並べる写真家になると思い込んでいたわけですね?(笑) 勘違いというものは怖ろしいもんですよねえ〜(笑)

「いやいや、どんな世界でもそのくらいの思い込みがないと実際に近づいていけないので、ボクは“アリ”だと思います。自分だってピカソに負けないつもりで、今は未だ青の時代だと思っています。ちょっと長すぎるんですけど、青の時代が……(涙)。

 大学は多摩美だけど、この学校へは写真をやろうとして通ったわけじゃないんですね?

「いいえ、最初から写真をやりたくて行ったんです。多摩美には写真学科というのはなくて映像コースというんですが、ゼミは写真専攻でした。だけど美大の先生って作家が多いからちょっと変わってて、実際には何も教えてはくれないというか、自分たちで勝手に作品制作をして、それを提出して単位を取る。そういうシステムでした」

 そっかあ、そういうシステムなんですね。ボクが行った九産(九州産業大学芸術学部)や、写真の王道である日芸(日本大学芸術学部)なんかは、総合大学の芸術学部だから一般の授業もあってのカリキュラムだけど、多摩美や武蔵美の場合は最初から“ONLY芸術学部”ですもんね。もっと自由というか、学生の自主性によって成り立つというシステムで、むしろそれが本来の美術学校のあるべき姿かも知れないですね。

 あ、話が横道へ逸れましたが、シカーノ自身が学生時代を通してずっとやってきたことって具体的には何でしょうか?

「“街”ですね。街の写真を撮っていました。大学へ入る前に中判のマミヤ6を買って、大学へ入ってからは年間に500本とか、あるいはそれ以上に撮っていました。それを学校の課題とかに提出してたりしたんですけど、まったく評価されず、“オレはこんなに良い写真を撮っているのに、ジジイたちは何で解ってくれないんだ!”って。しかしその評価は半分は正しいですね。今それを見返してみると、稚拙というか甘いというか(笑)」

「マミヤ6を使い始めて3年くらい経った頃にボロボロになったので、当時新宿にあったマミヤのサービスセンターへ持ち込んだら“このカメラをこんなに使い込まれてるのは珍しいですよ。こんなに使われるのなら悪いこといいませんから、中古でいいので今のうちに予備のボディを買われておいたほうが良いですよ”っていわれて、結局3セットに買い足しました。当時は今みたいに全てがデジタルになるとは思わないのでずっと使うつもりで、無くなると困るからという理由で。望遠はあまり使わないから1本だけでしたが、ワイドレンズ3本、標準レンズ2本、ボディは3台と全部同じモノを揃えてました。結局20代の間はこのマミヤ6をずっと使い倒しました」

「味の素・Cook Do 香味ペースト」より (c)鹿野貴司「味の素・Cook Do 香味ペースト」より (c)鹿野貴司
「味の素・Cook Do 香味ペースト」より (c)鹿野貴司「味の素・Cook Do 香味ペースト」より (c)鹿野貴司「味の素・Cook Do 香味ペースト」より (c)鹿野貴司

味の素 「Cook Do 香味ペースト」の広告写真撮影の現場。味の素さんのキッチンスタジオへお邪魔した。電通コミュニケーションデザインセンターの関本みよさんのプランニング、アートディレクションはカイブツの木谷友亮さん。この日の美人モデルである、実際に食べても美味しい料理を作っているのは味の素コミュニケーションズの小田明宏さん。この商品は現在は東海・北陸地方で昨年から先行発売中なのだが、近日中に全国発売の予定らしい。

この日の機材類はこんな感じ。キヤノンEOSセット一式にクリップオンストロボ2本とソニーNEX。ほとんどのカットは100mmマクロを装着したEOS 5D Mark IIとバリアングルモニターが便利なNEXだった

この日は「デジキャパ!」6月号(学研パブリッシング)の初心者向けのテクニック講座ページの撮影現場、代々木公園や裏原宿などへお邪魔して、ついでにボクも同じテクニックで撮ってみた(笑)。モデルで登場しているのは澤田園子さん。デジキャパ! 編集部の三木さん、池田さんオツカレサンでした!

世田谷区若林にある小さなギャラリー・233に集まった、233写真部のメンバーが世田谷のWEBテレビの放送をするというのでお邪魔した。ゲストはシカーノ。今回の展覧会の告知なども交えて盛り上がっていた。ついでにこのデジカメWatchのPhotographer’s Fileの記事告知でボクもチラッと出演してきた。ギャラリー233へはボクはこの日はじめて訪れたのだがすっかりうち解けて仲間に入れてもらった。


 下町育ちのシカーノがカメラマンになるまでの職業遍歴を語ってもらいました。

「二十歳で大学入学と同じ時期からやりはじめたアルバイトが編集プロダクションでした。美大の学費なんてシカノ家の家計ではまかなえないので、給料のいいところを探したんです。幸い社長が江戸っ子で面倒見のいい人で、大学を卒業できたのは先生よりも社長のおかげですね」

「そこから偶然が重なって、IT関連企業(笑)というか携帯サイトのコンテンツを作る仕事に転職しました。まあおもしろそうだからっていう好奇心ですね。業界の中では、いわゆるWEBのコンテンツプロバイダーと言われている制作会社です。でもとにかくハードで、繁忙期には週に1回しか帰れなかったし、例えば日曜日のお昼に家へ帰って汚れた衣類を置いて、1週間分の着替えを持って夕方また会社へ行くというサイクルの繰り返しでしたね」

「社長の思いつきで本を作ろうってことで出版もやったり、できたばかりのベンチャー企業で急成長している途中だからいろいろなことができて無くって。会社としてのシステムというよりもいかにして自分が儲けるかが優先になっていて、とにかく“儲かりゃいいジャン”みたいな気風になってまして。前にいた会社が編プロの中でも割ときっちりした会社だったので、ビックリしてたわけですよ。でもそこに居る人たちはベンチャー企業を渡り歩いてたり自分がそうやってきた人が多いから、ここのシステムが普通なんですね」

「最初は十数人だった社員があっという間に100人を越して、毎日のように知らない顔の新入社員が増えていくんですけど、会社の規模が大きくなって社員数も急激に増えていくと様々な問題が生じるんですね。本来の業務じゃないことなんだけど誰もやる人がいないんで仕方なく僕がやっていて、そうすると昼間の仕事が滞って夜になり、夜の仕事が翌日へ持ち越されとどんどん溜まっていくわけです。本来の自分の仕事が。悪循環の繰り返しと体力的に1年半で限界になり辞めてしまいました」

「今では上場してる大きな会社ですが。そのまま働いていたらストックオプションでタワーマンションのひとつでも買ってたはずですけどね(笑)」

「その会社を辞めた後に、やっぱり自分はビジネスじゃなくて創作がしたいんだと思って、フリーでカメラマンをやるぞ! と意気込んでいたんですが。最初の編プロの社長が寿司をごちそうしてくれるというので、ラッキー! と思いきや、“カメラマンになりたいだなんてナニをいってるんだお前は! 今は大変な時代なんだから無理だ。とにかくオレに任せろ”ってことで、フリーの契約編集者として送り込まれたのが講談社。最初に就いたのが女性向けのムック本とかを作る部署でした」

「例の編プロ社長から“その後、調子はどうだ?”って連絡がありまして。“忙しい割にはギャラが安いんです”って正直に答えたら、“もっと良いところを紹介してやる”って学芸局というノンフィクションや学術書をつくる部署を紹介されまして。そこが五木寛之さんの百寺巡礼という新しいシリーズをスタートするということで、その編集スタッフの一員になったんです。その100カ所ある取材先の一つに「身延山久遠寺」があったんです。それが2004年でした」


写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司
写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司
写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司
写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司
写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司
写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司写真集「甦る五重塔 身延山久遠寺」より (c)鹿野貴司

2012年2月3日、節分会。この日は節分を撮影する仕事のシカーノに付き合って、早朝から出発してボクも初めて身延山久遠寺へお邪魔した。底冷えのするようなもの凄く寒い日で凍えていたのだが、不思議なことに大勢のお坊さんたちの奏でるお経を聴いていると身体の奥の方が柔らかくなっていくような気がした。お経の文言や意味はよくわからないんだけど、聴いていると本当に心地よいものだ。登山の自信は体力的にないけど、車なら違う季節にまた来てみたい。

「父方の実家は千葉の漁師町で、房総は日蓮さんの生まれ故郷なので日蓮宗が多いのですが、実家も熱心な檀家でした。亡くなった祖父はカメラが趣味で、居間に作品を入れた大きな額をいくつも飾っていたのですが、それがすべて身延山と、その隣にある七面山で撮ったものだったんです。だから仕事で初めて身延山に行ったときは、他のお寺にはない感慨があったし、また身延山のお坊さんはフランクというかオープンな方が多くて、仕事が終わっても交流があったんです」

「そして2006年の春ですが、いよいよ明治初期に焼けた五重塔を復元することになったので、記録などを手伝ってもらえないかというお話をいただいたんです。聞けばハイビジョンで記録はするけど、スチール写真は工場記録以外はとくに撮っていないと。そりゃもったいないし、マズイですよ! なんなら僕が撮りますよ! みたいな感じだったと思うんですけど、わりと軽いノリで撮影をスタートしたんです」

「それが撮っていくうちに五重塔も、僕の勝手な撮影プロジェクトも、どんどん大きくなって、引くに引けないというか(笑)。これは自分が写真家としてやっていくための大きな礎になるなと。実際に写真展や写真集としてカタチになったというのもありますが、それ以上に縁とか自信とか、いろいろな収穫があった仕事でしたね。身延山からも認めていただいて、ポスターやカレンダーの撮影も任せていただけるようになりましたし」

「2009年にキヤノンでの個展が決まってから、写真集を作りたくていろんな出版社をまわっていたんですが、なかなか話がまとまらず困っていたところに、旧知の日本出版ネットワークの藤田さんという出版エージェントをされている方が“この写真は眠らせちゃいかん! 俺に預けろ”といってくれて、写真を預けたんです。藤田さんが平凡社へ繋いでくれて、写真集が実現しました」

 シカーノ自身はこれまで身延山へは何回くらい登ったんですか? そして、どのくらいのカット数を撮ってきたんでしょうか? 現場でのことをふまえてちょっと具体的な数値みたいなことを教えてください。

「以前にも訊かれたことがあるので数えてみたんですが、五重塔を追いかけていたときは2年間で100日は行きましたね。それ以降は大きな行事くらいしか行きませんが、年間に10回くらいでしょうか。2年前からは七面山に登っていて、コチラは毎月1回なのでもう20回は超えていますが」

「五重塔の復元工事がピークのときは、週に何度も行くこともありましたね。大きな部材を組み上げるような作業は一瞬で、しかも飛び飛びにあるんです。だから月水金で日帰り3往復とか。東京と身延山で往復350kmありますから、車の走行距離とETCの利用額、あとガソリン代がすごいことになりましたね。道路会社と石油業界には相当貢献したと思いますけど(笑)」

「写真集ができ上がるまでにシャッターを切ったカット数は10万回を越えていました。最初に撮り始めた頃はキヤノンのEOS 30Dと初代EOS 5Dで撮ってたんですけど、暗かったり工事の粉塵が俟ってたりとかの苛酷な現場なんでこの機材じゃまずいなってことでEOS-1D Mark IIIが出てすぐに追加しました。当時としてはISO1600が普通に使えるカメラが少なかったですから、無ければ撮れないような場面もありましたね」

「五重塔の時には身動きができない状況なのでレンズはズームでした。16-35mm F2.8の初代、24-105mm F4と70-200 F4の3本がメインでした、ですから暗い場所が多いので少しでも速いシャッターが切れるギリギリのところで感度設定してまして、主にISO1000とかISO1600が多かったですね」

「宮大工の職人さんたちに勢揃いしてもらった時に、プラナー付きのローライにモノクロフィルムを詰めて1時間で20人近くを一人ひとりのポートレートを撮ったんですけど、それは喜んでもらえましたねえ。宮大工さんたちは金剛組という歴史ある組織でとても有名なんですが、彼ら自身がメインで取り上げられるというのは滅多にないので良い記念になったっていってもらえましたね」

「やはりこの塔を実際に作っている宮大工さんを含めて、現場の職人さんたちというのは普段は寡黙な人が多いですし、外部の人間である僕がカメラを構えていることで心情的には邪魔だったりしたこともあると思うんですよ。だけど、何度も通っているうちにだんだん溶け込んでいき、そのうちにお互い何を求めてるかがわかりあうようになるというか、仲間意識みたいなのが生まれたような気がしますね」

写真展をやる時には必ず、縮小サイズのスケールで簡単な会場の模型を作って、そこに写真を配置してから、実際の並びの順番などを確認しながら決めていくという作業をやっている。パソコンが普及した今だからこその便利なワザなのだ

「子供の頃、爺ちゃん婆ちゃんから身延山や七面山の話は聞いていたんです。とりわけ七面山は“素晴らしいところだけど、とにかく行くのは大変”って聞かされてたんです。五重塔を撮っていたときに、五重塔落慶記念の品として、身延山のすべての伽藍や行事を収めた写真集をつくることになって、9月の七面山大祭に行くことになったんです。その時は直前に富士山にも登ってたんで楽勝だろうって思ってたんですよ」

「カメラバッグにはいつものようにメインのカメラ&予備のカメラボディ、魚眼から望遠まで持ってる交換レンズを目一杯入れて15kgくらいを担いで行ったんです。そしたら途中で足が動かなくなってきて、一歩も前に進まなくなったんです。後で知ったんですが七面山の登山口から山頂そばの敬慎院までじゃ、富士山の五合目から頂上までよりも高低差があるんですよ。一緒に登った体力のある方にカメラバッグを担いでもらいながら8時間かけてどうにかこうにか登りました。上まで辿り着いたときは“ああ、ココが七面山かあ!”という感動もあったんですが、同時に“二度と来たくない、勘弁してくれ”っていう思いの方が強かったですね(笑)」

「ところが2010年の春になって、身延山でお世話になってるお坊さんのお2人が七面山の別当さん(お寺の最高責任者、住職)と執事さん(副住職)になられて、前の別当さんとの交代式があるから撮りにきてくださいよとお誘いいただいたんです。お世話になってる方だし行かないわけには、とは思ったもののあのキツイをまた登るのかと思うと……。でもこれも縁だし、写真家としてはまた大きなチャンスかもしれないと思って、ふたつ返事で撮影に行ったんです」

 最初に地獄を見た前例があるので、この時はさすがに学習したと思うんだけど、装備や行程はどんな感じだったんですか?(笑)

「もちろん機材も厳選して少なくし、ボディとレンズ3本くらいですね。別当さんや執事さん、そのご家族や信者さん、若いお坊さんたちと朝9時に登山口を発って、一行に合わせて5時間くらいで上に着いて。途中も撮りたいので遅れるわけにもいかなかったのですが、今はだいぶん慣れて早いときには3時間半くらいで登っています。お坊さんたちは2時間を切るそうですけど」

「七面山の登山口には滝と門があるんですが、毎回そこで憂鬱になるんですよ。“あぁ、またあの道を登るのか”って(笑) 何度も登って、道のカーブや撮影ポイントもほとんど頭に入っているはずなのに、登る度に参道の傾斜というか、段差がきつくなってるんじゃないかと感じるんですよ」

「前の別当さんも法話でよく“七面山は何度上り下りしても一向に楽にならない。むしろきつくなっている”とよく仰ってたらしいんです。しかも一番下が0丁で頂上を50丁っていうんですけど、景色のいい場所って30丁目あたりに1カ所あるだけなんです。ヒマラヤなどの山岳ロケを請け負っているビデオカメラマンの方と一緒に登ったことがあるんですが、 “こっちの方が精神的にキツイ”っていってましたね(笑)」

 修業の場という意味が大きい場所だけに、その視界を利用した辛さもおそらく成し遂げた時の慶びのためにある計算なんでしょうね。一度行った方が良いよって何度も一緒に登るように勧めてくれてますが、素人が麓から登ると6時間とか8時間はかかりそうだし、ボクには信仰心がないので無理でしょうね。想像しただけで脚の筋肉が痛くなってきました(笑)

「敬慎院は富士山の真西にあって、見晴らし台からは富士山をドーンと真っ正面に拝めるんです。お彼岸の中日には富士山の真上から陽が昇るんですが、その光が見晴らし台から門や参道をくぐり抜けて、本殿にスポットライトで当たるんです。昔は本殿も小さかったので、奥に祀られている御神体に当たっていたそうです。700年以上も前、GPSも何も無い時代にどうやってそんな仕組みが作れたのかというのも不思議ですよね。富士山があって太陽があって、天地創造じゃありませんが、昔の人はそういう自然の力を最大限に感じて、それを信仰する仕組みを生み出したんでしょうね」

「撮影時の装備としては、日帰りで登り下りしたときは、負担を軽くするために PENやGXRで登ったこともあるんですが、やはり七面山では一眼レフじゃないと撮れないですね。中国のスナップなどは360度を見ながら被写体へフォーカスしていくので、ミラーレスが合っていますが、 七面山は自分のイメージができあがっていて、 それに一致した場面にぐーっと集中していく感じなので、 ファインダーをのぞきこまないとしっくりこないんです。暗い場面が多いというのもありますが」



 今回のコニカミノルタプラザでの展覧会のタイトル「感應の霊峰七面山」ですが、「感應」ってどういう意味なんでしょうか?

「その本殿に掲げられた扁額に書かれている言葉で、人びと(自分)が感じたものを素直な気持ちでお祈りすると、七面さまが応えてくれるという意味です。今の自分にもそういう感じて応じる心が必要だなと思って、タイトルに使わせていただきました」


(c)鹿野貴司

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(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司
(c)鹿野貴司(c)鹿野貴司

 海外とかで撮れば簡単にカッコイイ写真とかすぐに撮れるじゃない。誤解を恐れずに訊くけど、なのになんでわざわざ通うだけでも肉体的に大変だし、見る人によっては地味にさえうつる絵になりにくいかも知れないくらいの被写体を選んだんだろうね?

「この山やお寺の持つ魅力というか、自然の不思議、人間の不思議、信仰の不思議とかいろいろあるわけですけど、自分自身への挑戦っていうと大げさですが、お金があれば海外へ行ってパパッと作品を撮ることもできないことはない。だからこそあえて難しい条件で写らないものを写すというか、目には見えない空気みたいなものを撮ってみたいというか……」

「今度の写真展の作品は2010年から撮り始めていますが、最初の年は4回しか登ってないんです。東京からの距離もありますし、そこから何時間もかかるという場所ですから、依頼仕事じゃなくて自分からスケジュール立てるとなると、よし行こうってなかなかならないんです。それで次の年から月参りといって、毎月1度は登ることにしたんです。すると季節の違いや天候の変化、時間帯によって変わるものとかを五感で感じられるようになってきたんです。東京で電車に乗っていると本を読んだり携帯を弄ってたりして物事を考えるようなことすら忘れてしまったり、エアコンが効いた部屋で過ごしていたら見逃してしまうようなことを感じられるというのかな」

「今は写真は第一優先じゃなくて、七面山へ行くこと、そこをお参りすることが大事なような気がしてきています。写真家というよりも、ひとりの人間として貴重な体験をしているんだなって思います。これはもしかしたら死ぬまで続いていく、自分にとっての修行でしょうね」

「もちろん七面山に登ってお寺の中にいる時は、メシ食ってるときでも何処へいく時でもカメラを持っています。そこで修行するお坊さんたちの一瞬の表情や、自然のちょっとした変化が二度とないシーンだったりしますからね。例えばトイレに行く途中に良いシーンに出くわしてもカメラを取りには戻れないですから(笑)」

 自慢じゃないが、幼い頃からたいていの種類の悪いことはやってきた自信がある。だけど、そのどれもが小さく姑息な悪事だ。例えば実家にいる少年時代、お婆ちゃんの財布から毎日10円づつ小銭を引き抜いていたり、友人や家族にちょっとした嘘をついてしまい、それがバレないようにさらにその上にもう1枚の嘘を塗り重ねたりとか、そんなレベルだ。だったらやらない方がマシだ。いや、むしろやるべきではない(笑)。

 こんなことの繰り返しで大人になったいま、後悔してることがたくさんある。後悔はいくらしても元へは戻らない。けれども懺悔から生まれる新しい道というのはあるのかも知れないと思う時がある。

 今回の鹿野貴司を見ているともしかしたら、そんな救いを求める修行の旅をしているんじゃないかと。それは身延山、七面山だけじゃなく何処にいても出来ること。為すべきことなのかも知れないと自分にもいいきかせている。

 とりあえず、ボクもシカーノと一緒に山の空気を吸いにいってみたくなってきた。(コレは本当です、笑)





鹿野貴司写真展「感應の霊峰 七面山」

  • 会場:コニカミノルタプラザ ギャラリーB
  • 住所:東京都新宿区新宿3-26-11新宿高野ビル4F
  • 会期:2012年5月22日〜2012年5月31日
  • 時間:10時30分〜19時(最終日は15時まで)
  • 休館:無休

※5月26日14時〜15時にギャラリートークを行ないます。当日12時より整理券を配布。入場は無料。



取材協力:
身延山久遠寺、株式会社イーフォー、味の素株式会社、株式会社電通、ギャラリー世田谷233、サンディスク株式会社

今回の取材撮影使用機材:
  • ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL、SMC Pentax 67 90mm F2.8
  • キヤノンEOS 5D Mark II、EOS 7D、EF 16-35mm F2.8 L II、EF-S 10-22mm F3.5-4.5 USM、EF 50mm F1.4、SIGMA 85mm F1.4 EX DG HSM
  • ニコンD7000、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR、AF-S NIKKOR 85mmF1.4,AF-S NIKKOR 16-35mm F4 G ED VR、AF-S NIKKOR 70-200mm F2.8 ED VR Ⅱ、シグマ8-16mm F4.5-5.6 DC HSM
  • オリンパスE-P2、E-P3、E-PL1、M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6ⅡR、M.ZUIKO DIGITAL 40-150mm F4-5.6
  • パナソニックLUMIX G VARIO HD 7-14mm F4 ASPH、LUMIX G 20mm F1.7 ASPH
  • サンディスクExtreme Pro SDHC、Extreme Pro CF





(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
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2012/5/24 00:00