土屋勝義(つちやかつよし)
プロフィール:1963年東京都築地生まれ。1983年東京工芸大学短期大学卒業。六本木スタジオを経て、1986年より篠山紀信氏に師事。1989年独立。2000年「勇き光の戦士たち~つかこうへいの世界~」(ミノルタフォトスペース)他、以降も写真展を開催。写真雑誌や広告、舞台写真などで活躍中。キヤノン・EOS学園、オリンパス・ズイコ-アカデミーなど写真教室講師や撮影会実習など後輩の指導も手がける。
いつだって、どこへだって一脚を持ち歩いている男。普段はポーカーフェイスなのに、何気ないことで顔にしわを寄せて笑いだすと、屈託ない優しい少年の表情に戻る。それが正統派カメラマン、土屋勝義の素顔だ。
生まれも育ちも築地、そして現在も築地に暮らしているツッチーこと土屋勝義氏は、江戸っ子ならぬ築地っ子。父親は日本の台所、築地にある青物関係を扱う会社で働いていた、築地のフルコースみたいな(笑)、下町のごく平凡な家庭で育った小学生だった。
ある日、道を歩いていたら偶然に拾った標準レンズ付きの一眼レフカメラ「フジカST701」。フィルムを買う小遣いも無いまま、ファインダーを覗いてピントを合わせたりして遊んでいた。いわば土屋少年は、その後の人生を変える“禁断の高価なオモチャ”を手にしてしまったのだった。
Katsuyoshi Tsuchiya(c) | ||
Katsuyoshi Tsuchiya(c) | ||
Katsuyoshi Tsuchiya(c) |
顔の無いポートレート Katsuyoshi Tsuchiya(c) |
意外なことに小学生の土屋少年はそれまではスケートに夢中でかなり熱心に打ち込んでいたという。一緒に練習していた仲間たちはその後オリンピックへ出場するくらいのレベルだったが断念し、中学・高校はエスカレーター式の私立明大中野という男子校へ進学。中学へ入ってから担任のススメで写真部に入り、鎌倉や上野動物園で写真を撮っては暗室でベタ焼きからプリントなどをやり始める。
中2の時の作文には「将来はカメラマンになる」と書いていたそうだ。しかし当時はカメラマンといっても情報が少ない時代なので、新聞やニュースなどで活躍するいわゆる報道カメラマンくらいしか想像ができなかった。高校は明治大学の付属なので、多くの友人が明治大学へ進む中、彼は工芸大を選んだ。
学校へ入ってからはどんな事を考えて何をして過ごしてた? との質問に、「なんにも記憶がないんですよー、まったく」と即答。
ええっ? 何かあるでしょ?
「いやあ、それが大学に入った年の秋くらいに脳腫瘍になっちゃって、手術してそれから半年は病院で寝たきりになり……」と、いつもはボソボソっと話すツッチーが、身を乗り出して昔話を語り始めた。
「普通に暮らしてたんだけど、1年の秋くらいに進級試験があって、それが終わったんで打ち上げだってことで友人たちみんなでディスコとかへ飲みに行ったわけですよ。その日、朝帰りしたら突然倒れてしまって、病院でレントゲンを見たら、頭の中にタマゴ大の大きな腫瘍が出来てて、これはもう手術しかないという状態で緊急手術ですよ」
「それまでは、脳腫瘍とかガンとかの病気や生きるとか死ぬとかいうようなことは他人事だと思って生活してたのに、いきなりでしたね」
手術は無事成功し、体力が回復して退院してからは、幸いにも試験を受けた後だったので無事に進学でき、足りない出席日数も追加授業を受けて卒業することができた。
卒業の時には某代理店系のグループ会社に、サラリーマンカメラマンとしての内定が決まって、内心ほっとしていた。ところがそこの会社の写真部長から「キミはやる気はあるのかね?」と訊かれ「もちろん、やる気あります!」と意気揚々と答えたら、いきなり六本木スタジオへ連れて行かれ「それなら、まだ若いんだからココで暫く修行を積んでからウチへ来なさい」と。「ガーンだね(笑)」「ガーンですよ、そりゃ……」。
人生、山を越えてもまた高い山が立ちはだかっていたわけだ。
六本木スタジオは、当時(1980年代)の数多いレンタル撮影スタジオの中でも老舗の一つで、厳しいことで有名だったスタジオだ。そしてツッチーは、思いもしなかったスタジオマン修行という険しい道のりを歩むわけだが、大勢の新人スタジオマンたちがすぐに音を上げて辞めていく中、3日坊主どころか半年、1年と過ごし、やがてチーフにまでなった。
その頃、幸いにもスタジオが全面改築することになり、建て直し期間の約1年近く、よそのスタジオへ派遣で行ったりフリーカメラマンのロケアシなどを頻繁にやれて勉強になったという。そしてスタジオマン時代に現場で会っていた篠山氏の事務所の先輩が辞める時期に声がかかり、篠山紀信事務所へと入ることになった。
助手になってはじめての泊まりのロケ先で、若いからこの業界のことを何も知らないままスタッフにからかわれたりとかして驚いたりしてましたが、緊張をほぐすためだったんですね(笑)。
「篠山さんのところで勉強になったことはたくさんあるけど、下っ端のアシスタントだった僕でも大物女優さんや名物編集者と一緒のテーブルについて食事させてもらったりとか、いずれ独り立ちしてから恥をかかないように、修業時代から食べ物でも何でも良いモノを知るということをさせてもらったのは印象的でした」
事務所の先輩たちや、卒業して独立した先輩たちにも活躍しているスゴイ人が多いので、3年あまり篠山氏の下で過ごした時間は、いろんな意味でとても勉強になったという。
篠山さんとの想い出で印象的だったのは?
「昭和天皇崩御で大喪の礼があったんですが、撮影中に別の助手がフィルムの巻き戻し途中でカメラの裏蓋を開けちゃったんです。どうしようーってなって篠山さんに伝えたら、“そうか、おまえたちも緊張してたのか?”って言って篠山さんはまったく怒らなかったんです。後で現像したら、感光したのはたまたま仕事に差し支えない部分だったんですが、この歴史的な大事に、あの篠山さんだって緊張してたんだなって。この人に一生ついて行こうと思いましたネ」とても良い話だ(笑)。
超時光伝 2011 Katsuyoshi Tsuchiya(c) | ||
超時光伝 2011 Katsuyoshi Tsuchiya(c) |
独立するにあたっては、名刺デザインを田中一光氏、挨拶状はK2の長友啓典氏というデザイン界の超大物のお2人に作っていただいてのラッキーなスタート。独立してすぐの頃は助手時代からの仕事の付き合いがあった編集者などからご祝儀で仕事を発注してもらっていた。例えばGORO、CanCam、家庭画報、DIME等々といった雑誌の撮影。以降、主にポートレートなどの撮影で活動中だ。
土屋氏は6月16日より、1人のモデルを15歳から足かけ4年撮影してきた集大成として、個展を開催している。今回は土屋氏とモデルの滝沢カレンさんに話を訊いてみた。個展の詳細は下記の通り。
・土屋勝義写真展「瞳の天使」- 会場:キヤノンギャラリー銀座
- 住所:東京都中央区銀座3-9-7
- 会期:2011年6月16日~2011年6月22日
- 時間:10時30分~18時30分
- 休館:日曜、祝日
- 会場:キヤノンギャラリー梅田
- 住所:大阪市北区梅田3-3-10 梅田ダイビルB1F
- 会期:2011年6月30日~2011年7月6日
- 時間:10時~18時
- 休館:日曜、祝日
- 会場:キヤノンギャラリー札幌
- 住所:札幌市中央区北3条西4-1-1 日本生命札幌ビル 高層棟1F
- 会期:2011年7月14日~2011年7月26日
- 時間:9時~17時30分
- 休館:土曜、日曜、祝日
- 会場:キヤノンギャラリー仙台
- 住所:仙台市青葉区国分町3-6-1 仙台パークビルヂング1F
- 会期:2011年8月4日~2011年8月16日
- 時間:9時~17時30分
- 休館:土曜、日曜、祝日
以前の展覧会でチラッとお会いした時は、カレンさんまだ高校生だったんですね。ずいぶん大人っぽいけど、いま19歳ってきいて驚いています!(笑)では、早速ですが、お二人の出会いや撮影することになったいきさつから訊かせてください。
土屋(以下T)「最初に会ったのは、あれは2008年だったかな?確かPIE(フォトイメージングエキスポ)の会場で、もともと知り合いだった事務所の松本社長が会場に彼女を連れてきて紹介されて。せっかくだからと会場の空いてるブースに上がってカメラを向けたらパッと顔が赤くなったんだよね(笑)」
カレン(以下K)「すっごく恥ずかしかったんです。初めてでみんなが見てたし、まさかいきなり撮られるなんて思ってなかったから。イヤでしたね、あの時は本当にモデルなんて向いてないからやりたくないって思いました」
最初にツッチーと会った時、15歳って高校生だったの?
松本社長(以下M)「いいえ、その日はまだ中学生でしたね。中学を卒業する直前でした。4月からは高校生でウチの事務所に所属するという時期です」
滝沢カレン Katsuyoshi Tsuchiya(c) |
T「ちゃんと撮影したのはそれからしばらく経って、ゴールデンウィークに社長の母校のキャンパスで撮影したのが最初。レフ板当ててライティングして撮ったんだけど、まったく動けないし緊張して笑うか睨むかしかできなくって困ったのが第一印象」
K「土屋さんがすごく怖くて、モデルってこんなに辛くてつまんないもんなんだーって。怒られるし(笑)」
じゃあ、すぐに辞めたいって思った?
K「はい、最初はそうでしたね。だけど、その後もだんだんと撮影の回数を重ねていって、土屋さんが褒めてくれるようになって、それからは頑張るようになっていきました。土屋さんにも認めてもらいたいし、そのうちに楽しくなってきました(笑)」
こんなかわいい少女をツッチーはなんでいきなり苛めたわけ?(笑)
T「最初はかわいい中学生だったし、ちやほやさせるのは簡単だったけど、それじゃあ彼女のためにもいけないから。初めてだったから余計にこの仕事は楽じゃない、厳しいんだってことをわからせようと厳しく接しましたね。何度もジャンプとかさせて、とにかく何かをやるところから自然の表情を出させようって、辛かったと思うけど。それからは真冬の雪原で撮影したりとか、四季折々の風景とかいろんな表現をしたわけですよ」
やっぱし辛かった?
K「当時はまだ子供だったから(笑)、怒らないで欲しかったし優しく接して欲しかったんです。いま思うと、あの時に厳しくされたから余計にがんばったし、自分でも積極的に努力するようにもなりました。そのお陰でオーディションにも合格しましたし。集英社の雑誌、セブンティーンに応募してミスセブンティーンのグランプリにもなったわけですから。今は感謝しています!」
T「以前、渋谷のギャラリールデコでやった時は15~16歳の少女だったんですが、今回のキヤノンギャラリーでの発表は、17歳以降から現在大人になった彼女の魅力を見て欲しいです」
数年を経て、自分で変わったところはありますか?
K「最初は本当にわからなくって土屋さんにも迷惑をかけてばかりだったんです。葛藤とかもあってイヤだとか思ったりすることもありました。でも今では撮影するのが本当に楽しくなってきて、自分でもポーズや表情、こんなバックでも撮りたいし、こんな洋服は? とかいろいろアイディアを出せるようになってきました」
T「欲が出てきたんだよね(笑)」
K「土屋さんにも自分の意見を言えるようになってきましたし、いまはもっと撮ってほしい、たくさん撮ってほしいと思っています」
いまや第一線のモデルとして活躍されてるわけですが、初期のころと比べてどうですか?
K「セブンティーンを卒業して、今はJJ(光文社)のモデルをさせてもらっています。昔と比べて雑誌を見るにしても以前はパッとページをめくってるだけだったけど、いまは他のモデルさんが出てる写真でも表情をよく見たり、ファッションのことや美容のことも積極的に研究しながら見るし、生活全般も楽しくなっていますね」
滝沢カレン Katsuyoshi Tsuchiya(c) |
今回の作品では海外でも撮影してきたんですよね、きっかけは何でしょうか?
T「いろんなシーズンや場所で撮ってきたんだけど、2010年の6月にはロスで撮ってきました。彼女もプロとしても成長してきたし海外でも撮ってみようってことで」
M「私の友人が向こうで洋服関係の仕事をしてまして、カレンが洋服の勉強をしたいという意思もあり、じゃあ一緒に行こうか! ってノリになりました(笑)」
K「向こうでは精神的にリラックスして撮影出来ましたし、自分の中でも今まで撮った中でも最高の写真を撮ってもらったと思います。これからも機会があればまたみんなで海外へ撮りに行ってみたいと思っています」
T「ヘアメイクさん、スタイリストさん、スタートからずっと同じスタッフでやってきたんで、成長した彼女の写真を見てもらえたらって思います」
時間は遡って、1990年代後半の土屋勝義。つかこうへい氏との出会い。
あまりお酒が飲めないツッチーだが、当時ただひとつ通っているバーが銀座の博品館裏にあった。そこのママさんとは懇意で、編集者や企業のトップ、業界の先輩たちなど様々な人を紹介してもらった。ある夜、自宅で寛いでいたツッチーに、彼女からの電話がかかってきた。
劇作家で演出家のつかこうへい氏を紹介されたのがきっかけで、つかこうへい氏の劇団関係の写真を撮ることになった。土屋の方法論はISO100(当時の話しになるとASAと書きたくなってしまうが・笑)のポジフィルムをそのままの感度で使用し、スローシャッターでほとんどがブレているカットの中に、一部分だけ被写体が止まる瞬間を狙った。
それまではモノクロか、カラーでも感度を上げて増感した写真ばかりだった演劇写真の中にあって、ノンフラッシュでリバーサルフィルムを増感もしていないために、色再現やトーンが美しかった土屋の写真は、つかこうへい氏の目に留まったわけだ。
以来、つか氏の劇団関係の撮影の多くを手がけることになり、撮り溜めた写真で2000年には初めての個展を開催するに至った。つか氏との写真で個展を開催したのがミノルタ(現コニカミノルタ)というカメラメーカーのギャラリーだったことは、その後のメーカー系での仕事の付き合いへと繋がっていった。
写真界の師匠はもちろん篠山紀信氏だが、その後の自分に与えた影響という意味では、つかこうへい氏もある意味人生の師匠かもしれない。
口立てという手法で芝居のけいこをするつか氏だが、ある日リハーサルを撮影中に、つか氏から「次のシーンで俺の肩越しからレンズを向けて撮ってみな」と言われた。その通りに撮ってみたら役者の目線が来ている、迫力がある写真ができ上がった。今は亡きつかさんとの関係はその後も続き、仕事というよりも自分自身の実験的なことも好きにやらせてもらったという。
「つかさんとの出会いや過ごした時間は宝物。知らないうちに自分も演出されてたのかなあ?」とツッチーは笑む。
日頃から後輩カメラマンの作品制作や展覧会などの悩みにも熱心に相談にのったりしている良い兄貴的存在なんだけど、撮影の仕事とは別に、カメラメーカーの主催する写真教室でも指導していますよね。それはどういったスタンスでやってるのか教えてください。
「銀塩時代とか昔の写真教室って、ベテランプロの講師を迎えて、その人のガス抜きや老人クラブの接待の場みたいな感じでナンセンスだったと思うんだけど。僕自身はミノルタでスタートしたのをきっかけに、今は2つの教室で講師をやっていますが、唯一ユーザーとも触れ合える場だし、生の声を聞けるので、こっちも勉強になる。メーカーの垣根を越えてやっていいのならば、もっと敷居を下げて裾野を広げて、若い人たちが参加しやすい場にして積極的にかかわっていくべきじゃないかなって思います」
尊敬する写真家は?
「もちろん篠山紀信さんでしょ(笑)、それから日本人いっぱいいるけど立木義浩さんも大好き。他にはヘルムート・ニュートン、ジャンルー・シーフといった王道なあたりかなー」
築地 2010 Katsuyoshi Tsuchiya(c) | ||
築地 2010 Katsuyoshi Tsuchiya(c) |
■運あって、縁あって。
六本木スタジオから篠山さんとの出会い。つかこうへんさんとの出会いや、今回の写真展のモデル、カレンとの出会い。写真教室も業界の諸先輩たちとの出会いもすべてが運で、写真を撮るよりも前に人との出会いという運や縁があって、すべてが始まってるとツッチーは語る。
「大事なことは写真の技術じゃなく、そんなのはあるのが当たり前で、写真を撮る前に、写真記憶能力、写真発想能力、写真決断能力、そして一番大切なのが、写真段取り能力でしょ?」はい。勉強になりました。
今回の展覧会でまた大きく飛躍するんだろうなあ。そして新しいツッチーがこの先に登場するんだと思う。出来たらコーラじゃなくって、一緒に酒が飲めるともっとうれしいんだけどねー(笑)。
2011/6/17 17:01