山岸伸の「写真のキモチ」

第34回:1991年、ルーマニアでロケしたこと

僕は、根っからの写真好き

1989年におきたルーマニア革命。その2年後のまだ戦火の残るこの国に、ひとりの女性の写真集を撮影しにいった山岸さん。「歴史に残る僕の撮影」と言っているこのロケはどのような撮影現場だったのか? 当時の貴重なお話を伺いました。(聞き手・文:rinco)

なぜここだったのか?

1991年でした。僕は麻生真宮子さんをアイドル時代から何度か撮影していた縁で、「写真集を撮りにいこう!」となりました。ルーマニアという国での撮影が、なぜここだったのか? その理由はわからないです。編集者のみが知ることでしょう。

僕が行った頃のルーマニアは、1989年の革命で戦火の痕も残るまだ危ない時期でした。そんなルーマニアの首都、ブカレストにモスクワ経由で向かったんです。当時から僕は長距離の渡航が嫌いで、あまり嬉しい旅ではなかった。

写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

寒いモスクワにトランジットで一泊にしました。そのモスクワ空港で一緒に行ったみんなの荷物が全部鍵を壊されて、個々にバッグが開けられ、何か盗まれてました。僕はソニーのウォークマンを盗まれて、それは今でも忘れていないです。でも保険に入っていましたから、後からその補償はみんなできましたが……。

着く前にそれでしょ。それに、行くときに成田空港でスタッフが航空チケットの名前を間違えて取っていたことがわかり、大騒ぎ。「なんでそんなとこに行くことになったんだ!」って喧嘩したんだ。本当に大変だった。

KENTというタバコ

ブカレスト空港は暗い飛行場でした。でも、街に着いたら立派なところばかりで驚きました。実は当時、ルーマニアは不老長寿の国で有名でした。永遠に若さが保てるという薬があり、その薬を目当てに世界中のVIPがみんな来ていたんです。だから街には、立派なホテルがありました。

写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

でも、まだ街に弾丸の跡が残っているくらいの状況でした。「換金しないで」と言われていたけれど、10万円くらい換金したんですよね。そしたら、バッグいっぱい溢れるくらいのお札でびっくり。ところが替えても使うところがないんです。パン屋さんは行列ができていましたし、ほかのお店はほとんど閉まっていました。結局、ホテルのお店でお土産に少し使ったくらいです。全然使わないのにお金を替えてしまったんです。

写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

ロケ自体はすごく楽でした。現地のコーディネーター、はしもとさんが全てをスムーズに進めてくれたので助かりました。ルーマニアで、この人ほど顔が広い日本人はいないと僕は思います。彼はここでとても素晴らしい暮らしをしていたんですよ。シェフに日本で日本料理を学ばせて、彼専用の一流のシェフとして料理を作らせていました。

手にしているカメラはなんでしょう。

山岸さんの隣は用心棒の方。背がすごく高い人でしたね。一番右がはしもとさん。

はしもとさんに、「来る時に、KENTというタバコをひとり2箱、買ってきてください」と言われていたんです。現地ではなぜか、そのKENTがとても有効に使えて……。検問などがある場所に来るたびにそのKENTを渡す。すると、スムーズにことが運びました。

これは歴史に残る、僕の撮影

まずは、ポプラ並木みたいなところをずーっと突っ走ってチャウシェスクの別荘に撮影に行きました。別荘はどこを見てもとても美しく、素晴らしいところでした。

「この別荘の地下には戦車の道がある」という噂でしたが、確かにそういう感じはありました。なぜなら、敷地に入って行くわずか何百メートルの間に、機関銃を持った兵士がたくさん立っていて、その都度、KENTあげてどんどん入っていったんです。そのなんともいえない空気感は、怖かったよ、僕は。

ここは室内にあるプールの底。背景はそのタイル。写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

プールに入る階段。もちろん、大理石。写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

プールから見える壁の装飾。上は、天窓のようになっていた。写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

思い出深いのは鏡のある寝室です。鏡も含めて、部屋の家具全部に赤い紙が貼ってありました。差し押さえのようなことだったんだと思います。ここで撮影させてもらうにあたり、管理人にもKENTあげて、「オケオケ~」といわれて、この部屋の廊下に機材を並べて、撮影が始まったんです。

鏡を見ながら撮影していたら、管理人が血相変えてきて「出て! 出てください!」って叫ぶんだ。通訳も「出て! 出て! 早く!」って言うから、慌ててこの部屋を出ました。

出たら、廊下に置いてあった機材が全て無い。裏庭の湖にある船の中に僕たちの機材はすでに運ばれていたんです。その船の陰で僕たちも2時間くらい、隠れていました。

撮影にはコーディネーターはきちんと許可をもらってましたが、多分、急にもっと偉い人たちなのか、突然来て、慌てて「逃げろ!」となったのだと思います。でもなんだかよくわからないまま逃げて……また、喧嘩。今度は担当編集者と。「どうしてくれんだよ! 帰れなくなったらどうすんだよ!」ってね(笑)。

この撮影の最中に逃げた。多分、チャウシェスクの奥様が見ていた鏡だと思います。写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

相当、歴史的にすごい撮影だったと思っています。日本人で、ここまで行って写真を撮っている人はいないと思う。本当は「これぞ! 歴史の写真」なのですが、僕はドキュメントを撮らない。この時も、1時間くらいは余裕がありましたから、撮ろうと思ったら色々と撮れたと思うんです。

でも、なんせ女の子を撮らなければならない。彼女の気持ちを柔らかくするには、よそのことを考える余裕がなかった。そんな時代でした。

結局、2時間待機して、もう別荘には戻れずにホテルに帰りました。チャウシェスクの別荘での撮影は、この一度きりでした。

背景に見えるのがドラキュラ城。写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

次の日は、また別の場所で撮影です。ルーマニアといえば、ドラキュラ城。そこでは彼女に着物を着てもらい撮影しました。この写真集で、彼女が「着物を着たい」というので持っていきました。彼女は日舞をやっていて名取でしたから、着物もひとりで上手に着れたのです。

写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

ドラキュラ城に向かう途中の街道で撮影。のどかな田舎道。写真集「Especially」(株式会社 TIS、1991年)

31年も前の写真がこうして残っている

当時のロケは今みたいに「1日で写真集撮ってください」ということもなく、けっこう時間に余裕のある予定で組まれてました。滞在中、ホテルでお茶を飲んでいたら、ロビーでちょうど毛皮のファッションショーが開催されていて、暇だからそのショーを見ていたんです。

そしたら可愛い子がいて、すぐにコーディネーターに「ヌードを撮らせてください」って交渉を頼んだんです。いい値段のギャラを現金で支払いました。コーディネーターに「そんなに払わなくてもいい」と言われるくらいの金額でした。彼女も大喜びで撮らせてくれました。

いざ部屋で撮影しようと準備していたのですが、肝心のモデルがバスルームから出てこないんです。どうしたのかと心配していたら、全身の毛を剃っていたというの。そして、撮影する前に「少しお酒を飲ませてください」と言われてシャンパンをね、あげた。彼女はすごく真面目な子だったと思う。やっぱりヌードとなると緊張します。少し震えていたのが印象に残っています。

その時の写真は文春に掲載されました。「第一線写真家が百選する my best shot」(文藝春秋、1991年)

色々ありましたが、写真集の思い出としては面白かったな。僕は若い時はなんでもトライしていました。それは自分でも頑張っていたと思うし、31年も前の写真がこうして残っているのもすごいなと思います。スナップや風景は残っていないけどね。

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チャウシェスク(Nicolae Ceauşescu、1918-1989) ルーマニアの政治家。47歳の若さで党第一書記に就任し、党書記長兼大統領のほか、統一戦線、国防、経済、イデオロギーなどの最高機関の議長を兼任した。1989年末に勃発したルーマニア革命により失脚、死刑となった。

(やまぎし しん) タレント、アイドル、俳優、女優などのポートレート撮影を中心に活躍。出版された写真集は400冊を超える。ここ10年ほどは、ばんえい競馬、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、球体関節人形などにも撮影対象を広げる。企業人、政治家、スポーツ選手などを捉えた『瞬間の顔』シリーズでは、15年をかけて総撮影人数1,000人を達成。また、近年は台湾の龍山寺や台湾賓館などを継続的に撮影している。公益社団法人日本写真家協会会員、公益社団法人日本広告写真家協会会員。