赤城耕一の「アカギカメラ」
第32回:ユージン・スミスのミノルタ——映画「MINAMATA」に寄せて
2021年10月20日 09:00
ジョニー・デップが世界的な報道写真家ユージン・スミス(1918〜1978年)を演じたことが話題の映画「MINAMATA」を観ました。
第二次大戦中の戦場の記録、ルポルタージュフォトで「LIFE」誌などグラフジャーナリズムの世界において名を馳せたユージン・スミスは、1971〜1974年にわたり、水俣に住んで水俣病に関する写真取材を続けました。そして1975年に写真集「MINAMATA」を出版します。
映画はその当時の状況とユージンのことを描いています。詳細な話を書くとネタバレになりますからここではやめておきますが、日本での映画の評価は二分されているようです。
テーマの深刻さという問題もさることながら、史実に基づいてどう展開するのか、映画表現としてどのくらい“盛る”のか。被写体になる患者や家族の方々の気持ち、ユージンの思惑、媒体側の考え方など、複雑な要件も絡んできます。ただ、ジョニー・デップ自身がプロデューサーとして参加していること。映画の主役が自身で資金を投じて映画化し、世の中に問いたかったことは何なのかを考えてしまいました。日本映画として「MINAMATA」を制作するのは難しそうです。
ちなみにお客さんの入りはあまり捗々しくないみたいなんで、少し気の毒になりましたけどね。テーマがテーマだけに鑑賞しても楽しい気分になれそうにはありませんし。筆者はユージン・スミスに実際にお会いする機会はもちろんありませんでしたが、映画の中のデップはユージンにしか見えないですねえ。そのあたりの俳優としての気合いの入れ方はすごくて、それだけでも観る価値はあるのではないかと申し上げておきましょう。
さて、本連載はカメラ、または写真話をすることが目的ですから、本題として今回はユージンが水俣にて使用したカメラについて軽くお話をしようかと思います。ええ、例によってどうでも下世話な話をします。ごめんなさい。御用とお急ぎでない方のみお立ち寄りくださいませ。
水俣取材の時にユージン・スミスのアシスタントを務めたのは写真家の石川武志さんです。原宿で偶然見かけたユージンに声をかけたことがきっかけで、ユージンもアシスタントを探していたらしく、この偶然の出会いは神がかっています。
現在、石川さんは東京・新宿にあるリコーイメージングスクエア東京で写真展「MINAMATA ユージン・スミスへのオマージュ」を開催中です(10月25日まで。火・水曜休廊)。ほとんどがユージン・スミスのポートレートで、水俣取材時に撮影したものが多く、非常に貴重な写真家の記録になっています。映画とは違ってホンモノのユージンにここで会うことができます。
石川さんは、水俣の取材と同時にユージンの仕事中、プライベートな姿をたくさん撮影しています。今ふうにいえば「メイキング」ともいえそうです。石川さんと筆者は同じ媒体で仕事をしていたこともあるので、ユージンのアシスタントだったことは以前から存じ上げていましたが、その様子を詳しくお聞きしたことはありませんでした。それでも時おり会話にでてくるユージンの話はなかなかに興味深いものがありました。
アシスタント当時に撮影した写真のモダンプリントを2021年の今日に見ることができたのは嬉しい経験でした。写真はすべてモノクロですが、半世紀近く前とは思えないライブ感を感じます。当時の石川さんは20歳そこそこだと思いますが、写真学校を出たばかりですし、たいへんな実力者であることがわかります。
カメラマンアシスタントの主な仕事はいうまでもなく師匠の撮影の手伝いや暗室作業ですから、本来なら師匠と同じ場所で共に写真を撮ることなどありえないのですが、ユージンは石川さんにフィルムを渡し、「おまえはなぜ撮らないのだ」と言ったそうです。現場で撮影することで自分の写真とも対峙してみろということなのでしょうか。これは最高の教えでもあるかもしれませんが、日本の師弟関係ではなかなか同じことはできないと思います。ちなみにユージンを撮影するのに石川さんが使用したカメラはキヤノンFTbだったそうです。1971年発売の最新機種ですね。
石川さんの写真展に写っているユージンが手にしているカメラの多くはミノルタのSR-T101かSR-T SUPERのようです。なぜユージンはミノルタ(現コニカミノルタ)のカメラを選んだのでしょうか。
これはいくつか説があるようですが、ひとつには、日本での取材時に新幹線の中でライカなど撮影機材一式の入ったカバンを盗まれ、困っていたユージンにミノルタが手を差し伸べ、機材を提供したこという話がありました。これは都市伝説化していますが、締め切りまでにウラが取れませんでした。
ところが今回、あらためて石川さんにお話を伺ったら、当初、ユージンはサポートをお願いした日本のあるカメラメーカーに断られ、その話を聞いたミノルタがユージンの希望を引き取り、サポートしたのではないかということです。
ユージンが過去、仕事先やLIFEなどの媒体と色々なトラブルを抱えていたことが問題となったのでしょうか。正確な理由はわかりませんが、いずれにしろ協力した当時のミノルタはさすがです。
映画「MINAMATA」にもミノルタSR-T101かSR-T SUPERと思われるカメラが頻繁に出てきます。SR-T101の発売は1966年、改良型のSR-T SUPERの発売は1973年で、ユージンの水俣滞在と同時期に現役バリバリですね。
ただ、SR-T101かSR-T SUPERは、価格帯からみてプロ用機とは言い難いところがあります。モータードライブの装着も最初から考えられていません。モータードライブ=報道用と考えてしまう方が偏見かもしれませんが、ミノルタSRシリーズで唯一モータードライブが使えるのは、モータードライブ一体型のSR-Mのみで、登場は1970年でしたから、ユージンが使用していてもおかしくはありません。けれど石川さんの話ではユージンはSR-Mは選んではいませんでした。重たいからというのがその理由らしいですが、一枚一枚大事に撮影したかったのでしょうか。そういえば1973年にはミノルタの初のフラッグシップ機X-1も出ています。絞り優先AEを採用しているので便利そうですが、これもユージンが使用した形跡はなさそうです。
1970年台の初頭といえば、報道現場のカメラはニコンがあたりまえの時代というイメージがあり、どこかミノルタでは似合わないようにも感じてしまったのは、こちらの勝手な思い込みでもあります。ユージンとミノルタのカメラはとても相性が良かったと思います。
石川さんの作品には、ブラックペイントのオリンパスペンFTを構えたユージンのポートレートが象徴的な姿として展示されていますし、さらに石川さんによれば、ミノルタの他にはニコンやライカも使っていたということです。そういえばTVのインタビューに答えていたユージンの元妻のアイリーンさんは、ユージンが使っていたカメラとしてニコンF2フォトミックを紹介していました。なんだか今回のテーマと話が違ってまいりましたが、これは事実ですから仕方ありませんね。映画「MINAMATA」のポスターを見ると、あらゆるメーカーのカメラを提げたユージンの姿が大きく描かれています。映画を観ればなぜ色々なカメラが登場するのかがわかりますが、それは史実とは異なりますので念のため。
正直なところ、ユージンが「緑のレンズ」として名を馳せたミノルタのロッコールレンズを愛でていたとか、SR-T101の大きなシャッター音に感激して、夜中にサントリーレッドを飲みながらSR-T101の空シャッターを切っていたという話は一切聞こえてくることがありませんし、当たり前ですがカメラメカニズムのお話しから一番遠いところにいる写真家であったことは間違いありません。
ただ、石川さんによれば、ミノルタロッコールでお気に入りのレンズがあって、これがMC WロッコールNL 21mm F2.8だったようです。このレンズは1973年3月に発売されていますので、タイムリーな登場でした。水俣取材中のユージンもすぐに試用して、お気に入りになったのではないかと推測します。その前のWロッコールQH 21mm F4はカメラをミラーアップして装着する必要がある、後玉の突き出た対称型のレンズでしたし、最短撮影距離も0.9mと遠いものでした。
このレンズ、最短撮影距離が0.25mということも、この時代の広角レンズとしては大胆な仕様ですよね。時代的にフローティング機構が内蔵されていたのかは分かりませんが、ユージンの作品にはこのレンズを使用したと思われる作品がいくつかあります。レンズ構成は9群12枚構成。かなり贅沢です。デザインはレトロフォーカスタイプの象徴みたいな感じで、フィルター径も72mmある大きなレンズです。でも、私も画質も鏡胴のデザインも好きですよ。お持ちの方は大事にした方がいいですよ(笑)。石川さんの写真展でも、このレンズを装着したミノルタSR-T101を持つユージンの姿を見ることができます。
ミノルタSR-T101やSR-T SUPERは個人的にも好きなカメラですが、中古市場ではとても不人気です。デザイン的な色気に乏しいからでしょうか。機能的に特筆すべきところがないからでしょうか。質実剛健すぎるからでしょうか。理由はわかりませんが、たしかに無骨ですね。男性的という言い方は最近してはいけないのか、でも筋肉質で骨太な印象で、見せびらかして優越感に浸れるタイプのカメラでもありません。
ミノルタのカメラは国内と海外では名称が異なったりしますので、同じカメラでもバージョン違いというか名称違いのものが多く、SRでもこれは例にもれず、刻印違いを数台所有しています。海外ロケに行った時に覗いたカメラ屋さんでSR系カメラをみつけると新鮮に感じて、思わず買ってしまったりするわけです。困ったことです。でも、海外においても勢いで買える値づけだったりするので、これがまたアブナイわけですが、重たいから携行も厄介で、必ず後悔することになります。こうやって無駄なものが増えてゆくのだと反省しますが、すぐに忘れてしまいます。
ミノルタSR-T101とはどんな印象のカメラか具体的にお話ししますと、大きな特徴は、MCロッコールの名称のレンズを装着すると開放測光で使用可能なことです。発売当時としては先進的で、まだ「開放測光と絞り込み測光のどちらが優れているか」とカメラ雑誌で論議された時代です。しかも、SR-T101ではレンズ交換時にニコンのようにボディにレンズの開放F値を知らせるための所作は不要としました。レンズ前の「MC」の名称とは「マルチコート」ではありません「Meter Coupler」の略ですね。MCレンズにはTTLメーター用の絞り環にボディ側と連動する爪が備えられています。MC名称がない以前のロッコールレンズも装着することができますが、この場合は絞り込み測光になります。
さらにSR-T101には他のメーカーにはない測光のこだわりがあり、ミノルタが誇るCLC(Contrast Light Compensator)方式が搭載されています。これはペンタプリズム内に画面の上部と下部をそれぞれ測光するCdSを配置し、これを直列につないで双方の輝度の平均を測光しようというものですが、明るい空の部分からの影響を受けにくくしようとする、現在のほとんどのカメラに搭載されている分割測光のハシリともいえる機能でした
どうなんだろう、それなりに効果は見込めたのでしょうか。SR-T101に限らず真剣にTTLメーターを頼りにしたことがないので判断がつかないし、「縦位置の撮影時はどうするのかな?キミ」といういじわるなツッコミもしたくなるのですが、やめておきます。このCLC方式による測光は、SR系モデルの最後まで搭載されていましたから評判は悪くなかったんじゃないですかねえ。
メーターのスイッチとバッテリーチェッカーはボディ底部にあります。ファインダー内表示は追針式です。バッテリー室もこの近くです。バッテリーはH-D水銀電池なので、アダプターか代替品を使う必要があります。私はスイッチを入れるのすら面倒なので、メカニカルカメラの場合はバッテリーは滅多に入れませんし、入れても針の動きはあまり見ていないのですが、バッテリーがなくても動作するメカニカルカメラってやはりいいと思います。先日もロケでデジカメの予備バッテリーを忘れ、いつバッテリーがなくなるかとヒヤヒヤしながら撮影してきたこともあるのですが(笑)。
ファインダーは少し暗めに感じます。明るいレンズをつけてもマット面のピントのキレが今ひとつなように思うのですが。これは私の視力があまり良くないからかもしれません。マイクロプリズムが中央にありますが、被写体や撮影条件によってはこれを頼りにしたくなります。情けないですね。
シャッターは布幕の横走りですが、動作音はそれなりに大きく、街中のスナップなどでは目立ってしまうなーとか思うことがあります。ユージンも水俣病というデリケートな問題を取材していたわけですから、静かな場所でこの大きなシャッター音を響かせるのはどうかとも思うのですが。でも、この動作音は撮影者の「覚悟」を感じさせるところがありますね。音もそうですが、カメラが大きいものですから、「姑息な撮影」をすることができませんので存在感を示します。あ、映画のネタバレを少しだけしちゃうと、ユージンはとあるところに潜入して、撮影を敢行するのですが、私はデカいシャッター音のSR-T101では、こうした撮影は厳しかろうとヒヤヒヤしながら見ておりました。音が大きいと見つかってしまうし、被写体側も警戒しそうですし。
音が大きいのは、ミラーの動作もあるのかもしれないです。SR-T101のミラーは長さ30mmもある大型のもので、スイングバック式、つまり、しゃくりあげ方式が採用されていて、超望遠レンズでもミラー切れの心配は少なかったようです。これは一眼レフとして優れた点でありますね。
そのSR-T101の上位機がSR-T SUPERになるのですが、両者の違いは、ファインダー内に絞り値が表示されるかどうか、ホットシューの有無、ファインダーにスプリットマイクロプリズムが採用されていることですね。ただ、絞り環の数値を光学的に無理やりにファインダー内に表示させようとしているためでしょうか、ファインダーが少々不恰好になりましたので、個人的にはペンタプリズム部はあまり好みのデザインではありません。
ミノルタSRシリーズは1975年発売のSR101、SR505が最後になります。前者がSR-T101の、後者がSR-T SUPERの後継機になります。ほとんどマイナーチェンジという感じで、ここに要点を挙げる程のこともなさそうです。
前年の1974年には絞り優先AE搭載の名機、ミノルタXEが発売されており、このため先の2機種はますます影が薄い印象になったことをうっすら記憶しています。どのくらいの間発売されていたのかはわかりませんが、ミノルタのメカニカル一眼レフカメラはこの後はもう製造されることはありませんでした。こののち1977年には、世界初の両優先AE機であるミノルタXD登場でまた大きな話題をさらいましたから、SRのことなど私自身忘れかけていました。
メカニカル一眼レフのニコンNew FM2を長く販売したニコンとは異なる方向性というか、思い切った割り切りなのですが、いま考えるとマイナーチェンジではないメカニカルの「SR」の新型機を見てみたかったようにも思います。そうした予定は全くなかったみたいですけれど。
ただ、現在うちにあるミノルタX-1をはじめXEやXDなど電子シャッターを搭載した一眼レフ達は、経年変化で怪しい挙動をしたり、メーターでおかしな値を示すようになりました。これは電子化されたカメラの泣き所で、修理も厳しいと思いますし、もはや信頼もおけません。でも、うちのSRくんたちは存在は地味なのに、動作させると往時とほとんど変わらぬ元気さで動作しますので、安心してMCやMDロッコールを装着して写真制作を続けることができます。これはマウントアダプターでのお遊びとは少し意味が異なるのですよ。
ユージン・スミス、いや、ジョニー・デップが手にしたミノルタSR-T101なのですから、もしかして中古市場では少しは注目されるようになったり、人気が出るのかしらと予想してある中古カメラ店で聞いたところ、店主は興味なさそうな顔をして、全然変わらず動きが悪いということでした。とにかく不人気なんですよ。うまくすると今晩の晩酌代くらいで標準レンズつきのミノルタSRのいずれかを入手することができます。これはチャンスですね。デップ、じゃなかった、ユージンを気取った撮影ができるかもしれませんよ。