赤城耕一の「アカギカメラ」
プロローグ:人間とカメラ、建前と本音
2020年6月20日 10:15
写真業界は危機的な状況と人はいう。
カメラは売れなくて、写真、カメラ雑誌などのメディアもふるわない。2020年を迎えてから『月刊カメラマン』(モーターマガジン社)も、『アサヒカメラ』(朝日新聞出版)もこの7月号で休刊したことからおわかりのとおり、楽な状況じゃないことはたしかですなあ。私もこの2誌で連載してましたしね。
休刊しちゃう理由はいくつかあるでしょうね。雑誌の役割はもう終わったとか、内容が時代にそぐわないとか、紙媒体の宿命である情報の遅さとか、新型コロナウイルスの影響とか。
ただね、世の中にあるものはいつか終わりがくるわけ。生命も事象も神羅万象すべてに、歴史のあるなしとかはまったく関係なく、たまたまこのたびは運悪く終焉に連続して遭遇してしまっただけですね。ひとつだけ言わせてもらえば幕の引き方はもうちょっと美しくできねえのかよと思ったけど。ま、そういう話は別の機会があればそれに譲りましょうか。
で、最終号の『アサヒカメラ』では「さようなら、またどこかで」と書いてしまったわけですが、すでにもう、こうして次のメディアでちゃっかり戯言を書いているわけですからまるで節操がありません。たださえ薄い信用がまた薄くなる(笑)。
カメラはあまり売れてないのだろうけど、読者のみなさんは以前にも増して写真撮ってませんか? すごい人になると毎日というか毎時間くらいとか毎分とか毎秒とか。
私も撮ってます。本日のシルメシとか、8月末で閉店しちゃう新宿東口の中古カメラ店、アルプス堂で7,000円で買ったモードラ付きのミノルタX700とかを被写体にして、これをiPhone 11で撮って、インスタに無意味にあげてみたり。無駄遣いの反省を込めて、みなさんに公開するわけです(笑)。
で、iPhoneで撮るのも「写真」だけど、シートフィルム使った大型カメラで撮るのもブローニーフィルム使う中判カメラで撮るのも、35mmフルサイズミラーレスデジタルで撮るのもまた「写真」なわけで、この違いをどう考えたらいいのか。
この連載は基本的に、おおげさに言えば「人間とカメラ」の関係について述べていきたいと考えています。いや、私個人の身勝手な意見や解釈だらけにになるかもしれないけど。新製品のデジタルカメラから、四畳半メーカーの怪しい二眼レフまで、過去から未来をつなぐ範疇にしたい広大な構想(笑)なわけです。
やっている本人が混乱するといけないので、約2週間のインターバルをいただきつつ、デジタル、フィルム、レンズの話などを交互に、あるいは著名写真家とか作品話なんかも含め、フレキシビリティーのある展開ができればいいなと。新型カメラのレビューも機会があればやりたいと思うんだけど、最高約○コマ/秒の連写速度がすごいとか、高感度のノイズがどうたら、とかいう論評をするのはもう勘弁してもらおうかなあと思っていたりするわけです。現行で売られているカメラでダメなものなんかないですよ。
先に述べたように、正直なところ、もはやアサインメントすらもiPhoneでこなすことができそうなんだけど、あまりにも世間体が悪いので、仕方なく「カメラ」を使っているという面もあるのではないかと。
実際、今だから告白するけど、編集者の立ち合いのない某PR誌の取材で、ロケハンの時にiPhoneで撮影した画像を一部に混ぜたんだけど、編集者は気づかないし、仕上がりもすげーキレーだったりするわけ。だってさ、これはあるあるなんだけど、本番撮影よりもロケハンの時の方が天気よかったりすることがあるから仕方ないよね。
この時にわかりましたね。もう「カメラ」はイラナイわけです。普通の生活というか、写真を得るための目的としては。でもねえ、それでは寂しいでしょ。逆に私たちは、なぜ不要なものが必要なのかという、カメラの存在意義に対する論考をするべきなんじゃないかとこのところずっと思っているわけですわ。逆にいうとアサインメント用に購入するカメラとかレンズとかその性能に関しては、ツッコミはあまり言えないんだよね。
ここからは個人的なライフスタイルの話だけど、iPhoneは自分と共にあるわけだから、常時カメラを携行していることになる。これはこれで安心だけど、さらにそこに不要な「カメラ」を加えるということはどういう意味を持つかを考えたいわけです。
アサインメントにはそれなりのカメラと交換レンズや周辺機器などの装備を携行するけど、美女の透き通るようなスキントーンを表現するために徹底してレタッチで追い込むとか、あとで複数の画像を合成して作り上げ、最終的には大きなポスターにしちゃいますよ、なんてことがなければ、デカいデータはそんなに必然性がない。
私にくるほとんどのアサインメントは大きなデータを必要としないということが分かってから、割り切ってメインカメラはオリンパスOM-D E-M1 Mark IIやPEN-F、パナソニックのLUMIX G9 PROなどのマイクロフォーサーズ機、あるいはAPS-Cの富士フイルムX-T3にしてしまいました。これらのカメラは機能もそうなんだけど、デザイン的に気に入っているので、使っていて気分もいいわけ。
でもスタジオ撮影やクライアントが立ち会う現場では、つまらない見栄もあるので、カメラが小さすぎると存在感が弱いのではないかと心配になったりして、ペンタックスK-1なんかの大きめの35mmフルサイズのデジタル一眼レフを"見せカメラ"として持ってゆくわけです。ロケでもアシスタントを同行できないような場合では、マイクロフォーサーズ機の小型軽量さには助かっているんだけど、通常の使用時にもメリットありますわ。
いまは加えて、プライベートな作品造りとしてローライフレックス3.5Fや富士フイルムGF670などの6×6判の中判フィルムカメラを使用した私的な写真制作に凝っていて、ほぼ毎日、アサインメントの合間とか、打ち合わせにゆく移動の途中で中判フィルムカメラでスナップ撮影しているわけです。
中判フィルムカメラはそれなりの大きさ重さがあるので、本業でもあるアサインメント機材が小型軽量ということは、総重量を小型軽量化できて、これもたいへん助かっているわけです。自身のモチベーションも保てるし。これらの写真は本年12月に写真展で発表しようと考えています。
フィルム中判カメラといえど、APS-Cのデジタルカメラなんかよりも情報量は少ないんじゃねえのと考える人もいるでしょうけどね、でもね、自分にとってはそういうのは関係ないわけです。はしょって言えば、私が6×6判中判フィルムカメラを使用することで求めているのは、「標準レンズ」の焦点距離が75mmとか85mmとかになる、真四角なアスペクト比のフォーマットの写真なわけ。ここから生み出される独自の雰囲気がいまの自分にはもっとも合っているし、重要と考えているから。
ただね、これも正直に言えば、ひとつのへ理屈にすぎない。私もいい加減だから、マイクロフォーサーズのフォーマットのデジタルカメラで撮影したスナップ写真も、後からみて、これは真四角な方がいいんじゃねえかな、となれば、バサバサとトリミングして、フィルム6×6判カメラで撮影した写真と並べてしまうかも。てか、もうやってしまっているか(笑)。
建前と本音。こうした優柔不断さは現代写真術として、すごく大切にしたいと思っているわけです。とにかく写真はまず楽しむことが必要ですね。
次回から「アカギカメラ」を本格的に始動します。よろしくお願いします。