「サンディスク・エクストリーム・チーム」スペシャルインタビュー ~スポーツカメラマン・水谷章人編
(c)水谷章人 |
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スポーツの一瞬の迫力と感動、アスリートたちのドラマを見せるスポーツ写真。現在は数多くのフリーカメラマンが活躍するジャンルだが、その歴史は意外と若い。1970年半ば頃までは、試合結果の報道を目的に新聞社のカメラマンが撮影していただけだったからだ。
以降、カメラマンたちが「見たことのない1枚」を捉えるために凌ぎを削った。その写真表現の広がりは、デジタル化をはじめ、撮影機材の進化も大いに後押ししてきた。このスペシャルインタビューでは、スポーツ写真界のパイオニアである2人のカメラマンを紹介する。彼らのこれまでの歩みと、今なお情熱を持って被写体に向かう姿勢は、写真を志す人にとって興味深く、示唆に富んでいるはずだ。
スポーツの醍醐味は勝敗よりも、選手たちの人間ドラマにあることを教えてくれたのが、1980年2月に創刊したスポーツグラフィック「Number」(当時月2回発行)だった。同誌14号から始まった水谷章人さんの連載「ザ・シーン」は、写真だからこそ伝えられる一瞬の魅力を写しだし、「スポーツ写真」というジャンルを広く一般に印象づけた。
現在、活躍中のスポーツカメラマンにはこの連載をきっかけに、この道を志した人も少なくないという。水谷さんは、まさに日本スポーツ写真界のパイオニアなのだ。
1965年にフリーカメラマンとなって以来、46年経つが、今も第一線を走る。昨年末には10年ぶりにスキー写真に挑んだ個展を開いたほか、日本スポーツプレス協会の会長を務める。サンディスク・エクストリーム・チームのメンバーとしても活動している水谷章人さんに話を聞いた。
なお日本スポーツプレス協会では、サンディスクのスポンサードによるフリーマガジン「Extreme Press」を4月8日に発行した。同協会所属のカメラマンやライターを起用し、スポーツ写真を中心に掲載している。発行は年4回。カメラ系家電量販店などで無料配布している。
水谷章人氏 |
■転機は杉山進さんとの出会い
水谷さんが最初、志したのは山岳写真だった。東京綜合写真専門学校の在学中、中日新聞社の写真部でアルバイトをしていた。
「スポーツ全般を撮っていて、野球は巨人担当だった。残らないかと声をかけてもらったけど、サラリーマンになりたくないし、山が撮りたかったから、卒業と同時に辞めた」
最初の転機はスキーヤーの杉山進さんとの出会いだ。冬季五輪(1956年)の日本代表であり、オーストリアでスキーを学んだ後、帰国。1965年に志賀高原にスキー教室を開講した。
「写真家の小川隆之さんのアシスタントとして、杉山さんを撮影しに行く機会に恵まれた。その滑りはそれは美しかった。さらに杉山さんから『うちのスキー教室に来て写真を撮らないか』って誘ってもらえた」
それから3年間、志賀に通い、プロのスキーヤーたちを相手に撮影を行なった。
■当時、スキーは山岳写真家が撮っていた
それまでスキー写真は、山岳写真のモチーフの一つだった。スキーヤーと、彼らが作るシュプールは、山の美しい点景としてしか捉えられていなかったのだ。杉山さんの滑りに魅了され、撮影許可を与えられた水谷さんは、スキーそのものにもっと肉薄して撮りたいと考えた。
「雪山を歩き回って撮影場所を選び、そこで滑ってもらうわけだけど、撮る瞬間はスキーヤーとカメラマンの格闘だよ。当時は良い望遠レンズがなかったから、接近して撮るようになる。スキーボードがはねた雪をかぶるのは当たり前で、ストックで叩かれたこともあるよ」
彼らが自分の技術を最大限に見せながら滑降するのだから、自分はその魂を撮らなければならない。現場で被写体と向き合うことで、アスリートたちの一瞬を「クローズアップ」で止める手法を見い出したのだ。
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「当時、カメラマンの間では『シャカマン』って言葉が流行っていた。1枚撮ると、万単位のお金が稼げるカメラマンのことで、それになるには人と同じことをしていてはダメだって教えられてきたんだ」
ここで撮りためた写真で、1970年10月、東京・銀座の富士フォトサロン(現在は六本木に移転)で個展「限界に挑むスキー」を開いた。山岳写真の一つとしてしか描かれなかったスキーが、雪山という大自然に人間が挑むスポーツとして表現され、見る人に大きな衝撃を与えた。
「これで毎日グラフが特集を組んでくれた。ちょうどスキーブームで、専門誌も創刊された頃で、それまではまったく食えなかったけど、これ以降はどんどん仕事が入ってくるようになった」
■新聞社のアルバイト経験が生きる
水谷さんの写真のもう一つの特長は、粗い粒子と極端にローキーな表現だ。それが競技の一瞬の緊張感と、臨場感を強烈な存在感として伝えた。それを水谷流に言うと「あまりにも汚い写真で驚いたんだ」となる。
1975年から1年間、毎日グラフで62回の連載「パワー&スピリッツ」を掲載した。すべてのスポーツを題材に、クローズアップの撮影手法を追及していった。
「学生時代のアルバイト経験が生きたね。600mmレンズは絞りが開放でF5.6。フィルムも増感できる限界を超えて、ISO3200以上で処理していた」
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当時の新聞社では、写真は映像が出れば良いという考えが基本にあり、荒っぽい現像が日常茶飯事だったという。現状の撮影機材で、一瞬を止めるためには、限界を超えた増感処理もやむなしだったのだ。
「スキーの水谷とともに、スポーツの水谷がそこで確立できたんじゃないかな」
この連載以降、水谷さんは再度、スキー写真に戻る。この頃は、発表媒体を持たないフリーカメラマンは、競技場にすら入れない時代だったのだ。1980年になって、文藝春秋のNumber編集部からの依頼を受け、新連載「THE SCENE」が始まる。
■スポーツの水谷へ
この連載も毎日グラフと同様に、スポーツの一瞬を1枚の写真で見せた。が、Numberでは連載33回から、サイズが見開き4ページ分の大パノラマになった。
「観音開きになるページを作り、畳んだ時の見開きに広告を入れたいというスポンサーが現れたんだ。こんな細長いのを最初から撮るなんてできないって思ったよ」
キヤノンに依頼し、ファインダーの中にスリットを入れてもらい、狙うイメージがファインダー内で確認できるようにした。水泳、サッカー、ラグビー、新体操など、あらゆる競技を、このインパクトのある画面に切り取っていった。
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「瞬間への挑戦。競技の一瞬を切り取ること。若い頃は、それがスポーツ写真のすべてだと思った。その後、自分も年齢を重ねて、人生の機微が少しわかるようになると(笑)、競技から離れた選手の姿も撮りたいと思うようになった」
Numberの連載59回では、馬渕よしの選手が飛び込み台から離れる瞬間を捉えた写真が「氷結した孤独」のタイトルで掲載された。その後の85回では、画面右上に飛び込み台で膝を抱える馬渕選手を配置した「少女の時間」が載っている。足元に広がる空間と、緊張に耐える選手の対比が、観る者に深い余韻を響かせる1枚だ。水谷章人の「クローズアップ」は、この連載でより深化したといえるだろう。
なおこの連載は81年に、第12回講談社出版文化賞を受賞した。スポーツ写真ではいまだに唯一の受賞者だ。
■自分の決定的瞬間を持て!
スポーツの一瞬を撮る時に、大切なことはと問うと「反射神経以外にない」と即座に答えが返ってきた。かつては今のように連写ができるカメラはなく、スキーであれば一度の競技でシャッターチャンスは一度しかない。
「1枚にかける集中力は並大抵じゃない。滑降は130~140kmの速さで飛び出してくるんだ。それを撮る訓練を最初にしたから、あとはどんなスポーツだって楽だよ」
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フィルムカメラの時代はスポーツ写真家の寿命は40歳と言われていたそうだ。
「秋山庄太郎先生に『そろそろ引退後のことを考えて、花でも撮れよ』って言われたことがある(笑)。それがうまい具合に機材が進化してくれたお陰で、撮り続けていられる」
想い出に残るシーンは、数限りなくある。ロス五輪での柔道・山下泰裕の表彰台、ボクシング具志堅用高が負けた試合、アイルトン・セナの死……。
「けれど何より懐かしく思い出すのは、自分の失敗だね。良い選手の試合では、前ピンになりがち。コンマ何秒の速さを意識しすぎて、早く反応してしまうんだ。あとオリンピックの決勝戦で、フィルムを入れずに撮ったとか。会場の大歓声で、巻き上げ音なんか聞こえないから、蓋を開けてようやく気づいた。ホント、失敗も多いよ」
若いカメラマンへのアドバイスを請うと、
「土日、試合があれば、毎週撮りに行くこと。これを怠ったらダメ。僕は今でも毎週、撮りに行っているよ。己を知って、己を理解したうえで、自分に合う作風を作ってほしい。それは自分の決定的瞬間を持つことにもつながる。今はカメラとメディアが良くなって、何枚でも連写できるけど、10枚以上連写するようならば、それは自分の決定的瞬間をもっていないからだね」
水谷さんは近々、スポーツ写真の新連載を始めるという。どんな一瞬を切り取ってくれるのか、今後がますます楽しみだ。
(c)水谷章人 |
2011/4/27 00:00