東京エッジ~首都辺境を巡る写真紀行
第11回:東京の端に位置する巨大湖——多摩湖
2019年9月2日 07:00
毎日走っていた場所へ
東京にも大きな湖があるのをご存知だろうか? 多摩湖。今回の舞台である。奥多摩にある奥多摩湖の方が大きいが、奥多摩湖は山梨県にまたがっているため、東京都単独のものとして捉えれば、多摩湖が東京で最も大きい湖である。かつて私はその多摩湖を毎日訪れていた。
ハタチで上京してきて初めて住んだのは、東京の西部に広がる郊外、小平市だった。西武新宿線「小平」駅の南口から徒歩5、6分の距離にある“パークアベニュー小平”という4階建てのアパートメントの3階角部屋が私の住まいだった。この頃はいいことは何もなかった。私にとっての暗黒時代である(笑)。趣旨が変わってくるのでここでは詳しく書かない。いずれまたの機会に。
小平には約4年間暮らした。家の近くに走るのにちょうど良いコースがあった。多摩湖自転車道と呼ばれる自転車と歩行者専用の道路である。車は通れないので安心して走れる。起点は私が暮らしていた小平より約5km東に位置する、東京都西東京市新町で、終点は東京都東村山市多摩湖町である。全長21.9km。直線部10.7kmと多摩湖周辺部の11.2kmから成る。
高校時代ボクシングをしていて体を動かすことが日常化していた私は、そのサイクリングロードを走ることにした(2018年4月1日より「多摩湖自転車歩行者道」と改名されたようである)。
当時、走った日はカレンダーにチェックを入れていたので、ある年の年末に数えてみたら、一年365日中、350日ほど走っていた。休むのは月に1回程度。大概は大雨の日だった。普通の雨ぐらいならカッパを着て走っていた。今でこそ多くのランナーが皇居や駒沢公園を走る光景が当たり前になったけれど、30年前はそんな風潮はなかった。走るのは中高生の運動部とスポーツ選手ぐらい。通常は学校を卒業して授業としての体育が終わったらおしまい。一般人がレクリエーションとして日常的に走ることなどまずなかった。
走る距離は12km。たまに土日などの時間があって元気な時は22km。暗黒時代の私は走ることしかなかったのだ(笑)。別にマラソン大会に出場する訳でもないのに、とり憑かれたように走っていた。もちろんその時の自分には、その時なりの理由があったのだが、まあそれはいい。基本は往復12kmの行程、6kmの地点で折り返す。その6kmの地点にあったのが多摩湖である。
8年ぶりの再訪した場所
今回『東京エッジ』で多摩湖のことを書こうと思って、久しぶりに小平を訪れた。ちなみに多摩湖を訪れるなら西武多摩湖線、武蔵大和駅が便利だが、私にとっての多摩湖とはあのランニングコース“多摩湖自転車道”を経てのものなので、小平駅で下車することにした。住んでいたアパートメントも見てみたいし。
訪れたのは5月。JR高田馬場駅で西武線に乗り換えて向かう。「あれっ、もう着いた?」スマホをいじっていたらすぐ到着した。時間にして20分ちょい。昔はもっと遠かった印象だったのだが。葛飾区立石から現在暮らしている高尾に引越しする際に、一度小平の物件を見に来たことがあるので、訪れるのは8年ぶりである。
駅周辺の大きな造りはあまり変わっていない。営業している店はかなり変わっているが。昔よく行ったラーメン屋に入ってみた。味噌ラーメン500円が、650円になっていた。20数年の歳月とはそういうものなのかと思いを巡らす。味は変わっていなかった。
次に暮らしていたアパートメントを訪れてみた。あった。まるで変わらずに佇んでいる。であるが故に一気にあの頃に引き戻される。畑だったところが一部駐車場になっているぐらいで、周りの環境もさほど変わっていない。1991年から1994年までここにいた。東京に出てきた頃、巷ではKANの「最後に愛は勝つ」が溢れていた。バブルが弾ける前夜、そんな時代だ。どうやら郊外の景色とは20年や30年ぐらいでは変わらないようである。
多摩湖へつながる道
多摩湖を目指して多摩湖自転車歩行者道を進む。この道を行くのはリアルに25年ぶりぐらい。数字でみると凄い数だ。なんせ四半世紀である。だがそれほどの歳月が経った実感はない。25年をもってしてもそれか。ちょっとがっかりする。そういう年齢に自分がなったということなのだろう。30歳の人にとっての25年、つまり5歳の子供が30歳の大人になる25年とは意味合いが違う。40歳を過ぎてからの10年、20年とは案外“さっきのこと”なのである。
この道路の周辺も変わらない。新緑の季節、歩くのには気持ちいい。JR国分寺駅と西武遊園地駅を結ぶ、距離にして9.2km、駅数わずか7つしかない西武多摩湖線と並行して進む。
東京の郊外を走る西武多摩湖線沿線は実にほのぼのとしている。それは多摩湖自転車歩行者道も同じだ。歩行者と自転車専用の道路は、歩くのに快適である。それは走っていた時も同じだった。走るのは大概夕方で、小さなラジオを持って東京FMを聞きながら走っていた。ブラジリアン柔術を始める前だから、今みたいに耳も潰れていなくて、イヤホンはすんなりと入った。
真っ直ぐなこの道をただひたすら走っていたあの頃、色んなことを恨んでいた。鬱屈の塊だった。25年経ってみたけれど、結局大して変わっていない。
写真を生業とし、結婚して親になり、両親が亡くなってと、もちろん状況は変わってはいるけれど、人間四半世紀ぐらいじゃ大して変わらないのだな。25年という歳月は大変なものに思えるけれど、実際過ぎてみるとそうでもなかった。となると、その2倍か3倍の人の一生というものも案外大したことなく過ぎ去ってしまうのだろう。などと感じながら、あの頃と同じ景色を歩いた。綿々と変わらぬ営みを繰り返していくのだな、ひとは。尊いことである。今回の舞台はどうしてもセンチにならざるを得ない。
小平から約5km。多摩湖自転車道は武蔵大和駅近くの東京都道128号線とぶつかったところで一旦終わる。起点となる武蔵野市関前5丁目交差点からは丁度10km。ここまではアップダウンなしの平坦な直線ロードだが、ここからは多摩湖に向けての登りとなる。
右に左に折れながら緩やかに坂を登る。距離にして約1km。走っていた当時はこの坂をダッシュで登った。登りきると、そこに多摩湖がある。初めて訪れた際、その広大な景色を前に、自宅から走って来られる範囲にこんなものが……、と驚いた。上京してきた頃は、都会で人が多いのが東京で、山や自然などという印象はなかったから余計に。
東京都最大の湖
多摩湖、正式名称は村山貯水池。東京市の人口増加に対応した水源確保のため、東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵の谷を活かして昭和2年に完成したダム湖。
補足すると、東京都水道局のホームページには、村山貯水池は東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵を利用して造られたアースダム形式の貯水池とある。村山貯水池は西側(上流側)の村山上貯水池と東側(下流側)の村山下貯水池に分れている。
村山上貯水池の竣工は大正13年3月、村山下貯水池の竣工は昭和2年3月。数字を見てもピンとこないが、一応記しておくと、村山上貯水池の有効貯水量は298万3,000立方m。村山下貯水池の有効貯水量は1,184万3,000立方m。まったく分からないが(笑)。
アースダム(earth dam)とは「土を盛り台形に築いたダム。小規模のものが多い」(「大辞林」第3版)とある。
多摩湖自転車歩行者道は多摩湖の縁を一周しているので、多摩湖を知る意味でも、さらに先に進む。時計回りに行くことにする。
最初はここまでと同様に住宅街が続く。この辺りは東大和市となる。時計回りに行く場合は、右手に多摩湖、左手に住宅地域ということになる。東京もここまで来ると、土地もある程度安いのだろうか、庭付きの一戸建、大きい家が並ぶ。
おそらく30年、ないし40年前に若い夫婦ふたり、あるいは小さな子供を伴ったファミリーでこの場所に移り住んできた人達がこの町を形成したのだろう。お父さんは平日はちょっと遠いけれど、ここから都心の職場まで電車で通い、休日は緑の多い自然豊かな、四季を感じられる多摩湖の環境で家族とのんびりと過ごす。お母さんは家を守り、子供を育てる。ある時代、日本で当たり前だった光景。
時には「金曜日の妻たちへ」のようなアバンチュールもあるのかもしれないな、などと走っていた当時は、大人の世界への憧れとも相まって、勝手な妄想を膨らませていた。古くてすみません。それぐらい綺麗で大きな家が並んでいた。
自分が走っていた25年前より、町並みが少し古びた気がする。若干だけど、空き家も目につくし。今ではその多くが子供を育てあげ、退職した人達が暮らす町となったのだろうか。今回、多摩湖自転車歩行者道を歩いてみて初めて“時”の経過を感じた。
自然の趣を多分に残す公園、東大和狭山緑地まで来ると、住宅が消えて、ラブホテルが姿を現す。半分は営業しているが、半分は廃墟となっている。多摩湖にドライブに来たカップルの利用を見越しての立地だろう。
ここまで来ると駅からは歩いて来れない。ちょっとした遠足になってしまう。住宅がないので、人気はない。多摩湖自転車歩行者道といえどランニングをしている人は稀だ。この辺りまで走りにくると、折り返して家に戻ることを考えれば、相当な距離になるためだと思われる。当時の私もこの辺りまで来ることは稀で、多摩湖からさらに進むのは5kmと決めていて、そこで折り返して都合22kmのランニングとなった。人の営みが少なくなった分、多摩湖沿岸の自然の力が強くなり、道は少し荒れて枝や葉っぱなどが落ちている。
多摩湖から5kmの地点を越えて、初めて足を踏み入れる地域にきた。多摩湖自転車歩行者道の湖周辺部は11.2kmあるので、あと半分以上ある計算である。こんなところで折り返してたんだっけ? と記憶は曖昧である。緩やかな上り坂の途中だった。進んでも進んでも、相変わらず人家はなく、景色も変わらなくなってきたし、これで合ってるのかと少々戸惑い気味。この辺りは多摩湖からも離れて、湖の気配すら感じられない。人の影響から逃れて、益々、木々は旺盛に繁っている。夜だと怖いだろうな。
東京の境目を歩く
この道しかないのだからと信じて進むと、ようやく状況が変わった。東京と埼玉の県境に来たようだ。ここから先は埼玉県の所沢市と標識がある。
多摩湖自転車歩行者道には、定期的に起点からの距離を示すプレートが埋め込まれているので便利である。そのプレートで17.5kmを示す地点から、20mほど行ったところで東京から埼玉に入った。
ではここまでは東京のどこだったのかというと、住宅街のあった多摩湖沿岸の途中までは東大和市で、その後は武蔵村山市である。今回も連載の企画意図に違わず、東京の“エッジ”を歩いている。この先にどんな景色が待っているのかと、毎回知らない道は心がざわつく。それはブラジル、アマゾンやアメリカ、デトロイトのような世界の辺境地でなくとも、東京ー埼玉間のたわいのない道でも同じである。
多摩湖自転車歩行者道と並んだ形で、所沢武蔵村山立線(55号)が現れたので、車の姿が目についてきた。それに伴って空間も広くなった。
少し行くと、右手に神社がある。玉湖神社(たまのうみじんじゃ)である。
東大和市公式ホームページ内検索によると、
【多摩湖のほとりにある玉湖神社は、水神を祀る神社でした。昭和初期に当時の東京府水道局が中心となって建てたものの、戦後、諸般の事情により昭和42年に「御霊(みたま)遷し」が行われ、神様がいない神社となりました。】
とある。
諸般の事情とは、東京都水道局(前身は東京府水道局)は東京都の地方公営企業であるため、時代の変遷に伴い、公の組織が神様を祀ることが問題となったからのようである。神様のいない神社、みたま遷しとは初めて聞いた。
そして、まだ小さいけれど、ようやくプロ野球・パシフィック・リーグの埼玉西武ライオンズの本拠地、西武ドームが見えてきた。メットライフ生命保険が2017年3月から2022年2月末までの命名権を取得したため、「メットライフドーム」が正式名称である。
心うばわれる、光に
ほっとする。ゴールは近い。近づくにつれて爆音が聞こえてきた。少女の歌声が次第に大きくなっていく。本日は金曜日。恐らく週末に行われるイベントのリハーサルをやっているのだろうと推察する(後に調べてみたら、公演名が『NO GIRL NO CRY』で、出演者が「Poppin’Party」と「SILENT SIREN」だった。もはやおじさんには分からないレベル)。
GW明けの好天を狙ってやってきたため、心地は良いが、ずっと歩いていると暑くてそれなりに疲れる。18時過ぎ、ようやく日が傾いて、日差しが柔らかくなってきた。ここからはマジックアワーまでの写真的に絵になる時間。歩いてきた道を振り返ると、なんの変哲もないのだけれど、美しい光景が広がっていた。自然と言葉がこぼれる。
「世界は光で満ちている。時折それを写真に教えられる。(気持ちが)落ちたとき」
写真家とは実にアホな人種である。こんなことを恥ずかしげもなく口に出して喋っちゃってるのだから。でも実感としてあるのだ。写真に救われたと思うときが。そしてこうも思う。「ほんと光って大事だな。物語にするのは光だ」と。
観覧車が見えた。西武園ゆうえんち。ようやくゴールだ。初めて多摩湖を一周した。写真を撮りながら歩いて、4時間ぐらいか。
今日も変わらず、東京に帳が降りる。そこかしこの灯にそれぞれの暮らしが。