特集

ライカMモノクロームによる写真展
セイケトミオ「Light in Monochrome」レポート

©Tomio Seike

 モノクローム写真は不思議だ。

 何が写されているかを認識する以前に、黒と白が織りなす存在感に魅了される。もちろんすべての写真に当てはまるわけではなく、ごく限られた優れたプリントのみが味わわせてくれる愉楽だが。

「私がモノクローム写真に惹かれるのは、光。これは、ほかの芸術にはない魅力だ。例えば墨絵も同じモノトーンの芸術だが、そこに光は存在しない」とセイケさんはいう。

「ライカMモノクロームはライカM8、ライカM9とも、これまでのフィルムとも異なる新たなカメラだ」

 光をテーマに、作者のイギリスでの拠点、ブライトンの街を切り取った14点が並ぶ。

セイケトミオ写真展「Light in Monochrome」

  • 会場:ライカ銀座店サロン
  • 住所:東京都中央区銀座6-4-1
  • 会期:2013年1月11日~2013年4月7日
  • 時間:11時~19時
  • 休館:月曜

光への意識

 人の心を打つ1枚の写真には、独特の存在感がある。プリントという平面に描き込まれた像が、奥行きのある立体的な世界に変わる。

「それを実現してくれるのがライカのレンズ。鮮明な描写ができるレンズはほかにもあるが、ライカのレンズは僕にとって特別です」

 特に今回は、モノクローム写真の基本となる光を重視して撮影を試みた。昨年10月から11月にかけて主に、朝と夕の2~3時間、ライカMモノクロームを手に、ブライトンの街を散策した。

 よい1枚を得るためには、何より自分がどうしても撮りたいと感じることが大事だという。

「眼を開いていても、心にひびかなければ、見えないんです」

銀塩での表現が基本

 セイケさんは早い時期からデジタルカメラは使ってきた。ただそれは遊び感覚でだ。エプソンR-D1で、デジカメへの印象を少し変えたが、その後、ライカM8、ライカM9でも本格的に作品は制作していない。

 それがライカMモノクロームを使い、背面液晶に映った画像を見た時、手応えを感じたという。

「ライカM9と同じ23万画素のモニターなのに、素晴らしいチューニングがされた画像が表示される。写真をどう考えているか、カメラメーカーとしての哲学が現れる箇所だと思う。デジタルであっても、ライカのカメラ作りのベースには、銀塩で培ってきた表現を置いている。僕はそう確信する」

 その違いはプリントにすると、より明らかだ。

「ハイライトはライカM9の方が扱いやすいんだけど、中間調での分離が悪い。どこか曖昧なんだ。ライカMモノクロームは、特にその表現が違う」

 撮影データはLightroomで現像し、好みのプリセットをベースに少しだけ手を入れる。暗部とハイライトを調整するくらいだ。

「デジタルはやろうと思えば、どこまででもできてしまう。ただ写真は果たして、そういうものだろうか。自分の中に確たる基準がないと、滅茶苦茶になってしまうよ」

ヨーロッパへの憧れ

 セイケさんが写真に興味を持ったのは、写真好きだった叔父の影響だ。小学生の頃には自分のカメラを持ち、自宅にあった暗室に出入りするようになっていた。

「叔父の書斎にはアメリカの写真集がたくさんあった。中には子どもが見てはいけないものもあったけど、叔父のいない間に入り込んでね。暗室の匂いや、赤く暗い光を幼い頃に経験すると、ある種の病にかかってしまうんだと思うよ」

 写真学校を卒業後、林忠彦氏のアシスタントを3年半務めた。70年代の初めだ。
「海外の写真といえばアメリカが主流だったんだけど、カメラ毎日がヨーロッパの写真を紹介し始めた。それがとても新鮮で、オシャレに感じた。当時の写真界に村社会的な息苦しさを感じていたこともあって、日本を出たいと真剣に思い始めたんだ」

 あるカメラメーカーの宣伝部長がイギリスにいる写真家とコンタクトがあると聞き、紹介状を書いてくれと懇願した。

「先方に聞くとアシスタントは必要ないし、来てもダメだと言っていると断られたんだけど、何とか紹介状だけは書いてもらい、イギリスに出発した」

本物のプリントに出会った衝撃

 イギリスに着くと、ちょうどその写真家の個展が開かれていた。

「見たら、その人への興味がなくなって、訪ねる気が失せてしまった(笑)。行くあてもなく、英語もできないから、最初は無為に日を過ごしていたよ」

 この滞在は約1年続いたが、この時の一番の収穫は、素晴らしいオリジナルプリントに出会ったことだ。日本で写真のプリントといえば、ほとんどは印刷用の原稿で終ってしまう。

「本物のプリントのクオリティを自分の眼で確かめ、触れられたことが、僕の写真の方向性を決めた」

 ギャラリーを回り、多くの写真を見る中で、もう一つ定めたことがある。それは日本の題材を撮らないことだ。

「日本的なモチーフは、彼らから見れば異色なものに見えてしまう。仮に優れた作品を作り上げても、別枠でしか評価されない。アカデミー賞の外国語映画賞みたいなものだよね。僕が考える海外の一流写真家と、同じ被写体を選び、同じ土俵に立とうと思ったんだ」

 後年、イギリスで初個展を開く際、欧米人のようなペンネームを用い、オープニングパーティなど、人前には一切出ないようにしようと真剣に画策していたそうだ。

ゾイとの出会い

 帰国後は広告、エディトリアルの撮影をしながら、時間と資金が貯まると、イギリスに渡る生活を続けた。そんな時、1982年にある女性に出会う。

 公私で付き合いのあった東京・飯倉のモデルクラブ事務所に遊びに行った折、アメリカ人女性が入ってきた。

「理屈も何もなく、彼女を撮らなくては駄目だって思った。考える間もなく、近づき、声をかけた」

 それがセイケさんを作家として世に送り出した「ZOE」(ゾイ)が生まれるきっかけだ。およそ5年にわたり撮影を続けたが、その過程で、ロンドンのフォトグラファーズギャラリーに初めて作品を持ち込んだ。

「1階にギャラリーがあり、2階にプリントを売るセクションを作ったばかりだった。持ち込んだ7点を預け、日本に帰国したら、すぐに『売れたから、もっとプリントを送れ』と手紙が来た」

 そのセイケ作品のコレクター第1号は、人気ロックバンド、ポリスのギタリストだったアンディ・サマーズだ。

 ちなみにその時の販売価格は1点75ポンド(セイケさんの記憶によれば、当時のレートは1ポンド480円)。

作家デビューの陰に……

 アクシデントもあった。1985年、ニューヨークに行った時、強盗に襲われ、大怪我を負ったのだ。

「ロンドン、パリ、東京でゾイを撮っていたので、ニューヨークでも撮ろうと出かけたんだけどね。ロンドンに戻った時、ずっと嫌な気分が続いていた。それを払拭したくて、ロンドンで一番格式が高かったハミルトンズ・ギャラリーに写真を持ち込もうと思い立ったんだ」

 その結果、そのギャラリーで初個展を開くことができ、写真作家としてのキャリアをスタートさせることになる。

「あの経験がなければ、このチャンスはもっと後になるか、もしかしたら永遠に訪れなかったかもしれない。いろいろな形で人はチャンスをもらうんだ」

 セイケさんが現在、メインで使うのは35mmと50mm、75mmだ。

「このアポ・ズミクロン75mmは最初、気に入らなかったけど、最近、やっと僕に懐いてくれた」と笑う。本展では35mm〜135mmまでさまざまなライカレンズを使い、味わい深い光景を定着させた。

 そして、セイケさんは「ライカMモノクロームを使えば、誰もがこのレベルのプリントは作れるでしょう」と話す。

 さて。

 人はいろいろな形でチャンスを得るのだ。