特集
ライカMモノクロームによる写真展
セイケトミオ「Light in Monochrome」レポート
(2013/2/4 00:00)
モノクローム写真は不思議だ。
何が写されているかを認識する以前に、黒と白が織りなす存在感に魅了される。もちろんすべての写真に当てはまるわけではなく、ごく限られた優れたプリントのみが味わわせてくれる愉楽だが。
「私がモノクローム写真に惹かれるのは、光。これは、ほかの芸術にはない魅力だ。例えば墨絵も同じモノトーンの芸術だが、そこに光は存在しない」とセイケさんはいう。
「ライカMモノクロームはライカM8、ライカM9とも、これまでのフィルムとも異なる新たなカメラだ」
光をテーマに、作者のイギリスでの拠点、ブライトンの街を切り取った14点が並ぶ。
セイケトミオ写真展「Light in Monochrome」
- 会場:ライカ銀座店サロン
- 住所:東京都中央区銀座6-4-1
- 会期:2013年1月11日~2013年4月7日
- 時間:11時~19時
- 休館:月曜
光への意識
人の心を打つ1枚の写真には、独特の存在感がある。プリントという平面に描き込まれた像が、奥行きのある立体的な世界に変わる。
「それを実現してくれるのがライカのレンズ。鮮明な描写ができるレンズはほかにもあるが、ライカのレンズは僕にとって特別です」
特に今回は、モノクローム写真の基本となる光を重視して撮影を試みた。昨年10月から11月にかけて主に、朝と夕の2~3時間、ライカMモノクロームを手に、ブライトンの街を散策した。
よい1枚を得るためには、何より自分がどうしても撮りたいと感じることが大事だという。
「眼を開いていても、心にひびかなければ、見えないんです」
銀塩での表現が基本
セイケさんは早い時期からデジタルカメラは使ってきた。ただそれは遊び感覚でだ。エプソンR-D1で、デジカメへの印象を少し変えたが、その後、ライカM8、ライカM9でも本格的に作品は制作していない。
それがライカMモノクロームを使い、背面液晶に映った画像を見た時、手応えを感じたという。
「ライカM9と同じ23万画素のモニターなのに、素晴らしいチューニングがされた画像が表示される。写真をどう考えているか、カメラメーカーとしての哲学が現れる箇所だと思う。デジタルであっても、ライカのカメラ作りのベースには、銀塩で培ってきた表現を置いている。僕はそう確信する」
その違いはプリントにすると、より明らかだ。
「ハイライトはライカM9の方が扱いやすいんだけど、中間調での分離が悪い。どこか曖昧なんだ。ライカMモノクロームは、特にその表現が違う」
撮影データはLightroomで現像し、好みのプリセットをベースに少しだけ手を入れる。暗部とハイライトを調整するくらいだ。
「デジタルはやろうと思えば、どこまででもできてしまう。ただ写真は果たして、そういうものだろうか。自分の中に確たる基準がないと、滅茶苦茶になってしまうよ」
ヨーロッパへの憧れ
セイケさんが写真に興味を持ったのは、写真好きだった叔父の影響だ。小学生の頃には自分のカメラを持ち、自宅にあった暗室に出入りするようになっていた。
「叔父の書斎にはアメリカの写真集がたくさんあった。中には子どもが見てはいけないものもあったけど、叔父のいない間に入り込んでね。暗室の匂いや、赤く暗い光を幼い頃に経験すると、ある種の病にかかってしまうんだと思うよ」
写真学校を卒業後、林忠彦氏のアシスタントを3年半務めた。70年代の初めだ。
「海外の写真といえばアメリカが主流だったんだけど、カメラ毎日がヨーロッパの写真を紹介し始めた。それがとても新鮮で、オシャレに感じた。当時の写真界に村社会的な息苦しさを感じていたこともあって、日本を出たいと真剣に思い始めたんだ」
あるカメラメーカーの宣伝部長がイギリスにいる写真家とコンタクトがあると聞き、紹介状を書いてくれと懇願した。
「先方に聞くとアシスタントは必要ないし、来てもダメだと言っていると断られたんだけど、何とか紹介状だけは書いてもらい、イギリスに出発した」
本物のプリントに出会った衝撃
イギリスに着くと、ちょうどその写真家の個展が開かれていた。
「見たら、その人への興味がなくなって、訪ねる気が失せてしまった(笑)。行くあてもなく、英語もできないから、最初は無為に日を過ごしていたよ」
この滞在は約1年続いたが、この時の一番の収穫は、素晴らしいオリジナルプリントに出会ったことだ。日本で写真のプリントといえば、ほとんどは印刷用の原稿で終ってしまう。
「本物のプリントのクオリティを自分の眼で確かめ、触れられたことが、僕の写真の方向性を決めた」
ギャラリーを回り、多くの写真を見る中で、もう一つ定めたことがある。それは日本の題材を撮らないことだ。
「日本的なモチーフは、彼らから見れば異色なものに見えてしまう。仮に優れた作品を作り上げても、別枠でしか評価されない。アカデミー賞の外国語映画賞みたいなものだよね。僕が考える海外の一流写真家と、同じ被写体を選び、同じ土俵に立とうと思ったんだ」
後年、イギリスで初個展を開く際、欧米人のようなペンネームを用い、オープニングパーティなど、人前には一切出ないようにしようと真剣に画策していたそうだ。
ゾイとの出会い
帰国後は広告、エディトリアルの撮影をしながら、時間と資金が貯まると、イギリスに渡る生活を続けた。そんな時、1982年にある女性に出会う。
公私で付き合いのあった東京・飯倉のモデルクラブ事務所に遊びに行った折、アメリカ人女性が入ってきた。
「理屈も何もなく、彼女を撮らなくては駄目だって思った。考える間もなく、近づき、声をかけた」
それがセイケさんを作家として世に送り出した「ZOE」(ゾイ)が生まれるきっかけだ。およそ5年にわたり撮影を続けたが、その過程で、ロンドンのフォトグラファーズギャラリーに初めて作品を持ち込んだ。
「1階にギャラリーがあり、2階にプリントを売るセクションを作ったばかりだった。持ち込んだ7点を預け、日本に帰国したら、すぐに『売れたから、もっとプリントを送れ』と手紙が来た」
そのセイケ作品のコレクター第1号は、人気ロックバンド、ポリスのギタリストだったアンディ・サマーズだ。
ちなみにその時の販売価格は1点75ポンド(セイケさんの記憶によれば、当時のレートは1ポンド480円)。
作家デビューの陰に……
アクシデントもあった。1985年、ニューヨークに行った時、強盗に襲われ、大怪我を負ったのだ。
「ロンドン、パリ、東京でゾイを撮っていたので、ニューヨークでも撮ろうと出かけたんだけどね。ロンドンに戻った時、ずっと嫌な気分が続いていた。それを払拭したくて、ロンドンで一番格式が高かったハミルトンズ・ギャラリーに写真を持ち込もうと思い立ったんだ」
その結果、そのギャラリーで初個展を開くことができ、写真作家としてのキャリアをスタートさせることになる。
「あの経験がなければ、このチャンスはもっと後になるか、もしかしたら永遠に訪れなかったかもしれない。いろいろな形で人はチャンスをもらうんだ」
セイケさんが現在、メインで使うのは35mmと50mm、75mmだ。
「このアポ・ズミクロン75mmは最初、気に入らなかったけど、最近、やっと僕に懐いてくれた」と笑う。本展では35mm〜135mmまでさまざまなライカレンズを使い、味わい深い光景を定着させた。
そして、セイケさんは「ライカMモノクロームを使えば、誰もがこのレベルのプリントは作れるでしょう」と話す。
さて。
人はいろいろな形でチャンスを得るのだ。