中道 淳(なかみち あつし)
プロフィール:1957年兵庫県神戸市生まれ。1979年東京工芸大学短期大学部卒業。同年より仲佐猛氏の仲佐写真事務所に入社師事し、以来ナカサアンドパートナーズに在籍。建築、インテリアの分野を中心に活躍中。撮影件数は1年に400件を超える。多忙なスケジュールをこなし、日本国内や海外を日々駆け巡っている。故倉俣史朗のプロモーションビデオ「パープルシャドウズ」が、1993年モントルー・エレクトリックシネマフェスティバルの産業部門最優秀賞受賞。2001年に個展「ワタシノイバショ ボクノイバショ」、2005年6月に個展「ハーイトリマース! ワタシノイバショ ボクノイバショ パート2 ─大感謝祭─」を開催。2009年6月には同タイトル「パート3」をAXISギャラリーにて開催。以降ワールドカップの前年に4年おきの6月に開催。次回は2013年の6月に開催予定。
「それってステキだと思いません?」
比喩表現において、そんな口癖の話し方をされる中道さんこそステキな兄貴だと勝手に思っているボクなのだが、実は仲佐さんと中道さんのお2人の、そして会社全体のもっともっとステキな永きにわたる義兄弟のパートナーシップぶりをきかせてもらうのが楽しみだった。
ボクの知る限り、建築やインテリアと呼ばれているジャンルで最も面白い写真表現をしている人。そしてわれわれ人物写真をメインにやっている写真家にとっては誠に残念なことに、ポートレートまでもが巧いという困った人でもある(笑)。
「生まれ育ったのは神戸です。ウチは不動産屋さん商売をやってました。親父の家は元々造船所をやっていて、お爺さんの代でその造船所を売ったお金で生活してたらしいんですが、その後親父が一緒になった女性がお袋で、お袋の家が不動産屋さんだったんです。だから親父はマスオさん状態で、家族は両親と母方の祖父母そして男ばっかり3人兄弟の7人家族の長男です。下町の不動産屋なんで小さな部屋のアパートとか扱っていて、夜逃げとかいろいろなことがあって、こういうとあれですが結構面白かったですよ。信用商売みたいな感じでしたね」
「僕は写真を知ってからはずっと写真をやってきました。中学高校が一体の私立の男子校だったんですが、中学の時には “文化部荒らし”っていわれてました(笑)。小学校の5年6年はリトルリーグに入って少年野球をやってたもんですから、野球の強い中学に入っても野球をやろうと思ったんですが、あまりにも層が厚い学校なんで“これではとてもやっていけんなあ”ってすぐに諦めました。それで何をやろうかって時に、写真部と鉄道研究部に入って英語の先生の薦めでESSに入り、図書部の先生にも薦められて図書部へも入り、全部掛け持ちでやってましたねえ」
「で、2年生、3年生となるにつれ段々と鉄道オタクの道にハマって行くわけですね。最初は中学2年の時に高校生の先輩と一緒に、住んでる神戸の町から比較的近い姫路とか岡山とかに日帰りで撮影に連れていってもらい、どうやったらよい写真や価値がある写真を撮れるのかを機関車の種類や角度や状態などを教わるんです。これならひとりで行けるかもと、翌年くらいからは1人で出掛けるようになり、まずは兵庫県でも日本海側の鳥取県に近いあたりまで蒸気機関車を撮りに出掛けて行くんです」
「昔は蒸気機関車そのもの以外に、運転士さんとかも撮ってたんです。機関士さんと機関助手さんって呼ぶんですけど、自分たちからすると彼らはスターなんです。“鉄道ファン”や“鉄道ピクトリアル”とかっていう専門誌やダイヤグラムを見て、何時何分にどの列車がどこを走るかを調べて、それから機関区へ行って休憩中の機関士さんの写真を撮らせてもらってサインをもらったりするんです。今の鉄道写真だと電車そのもののフォルムや顔しか撮ってないですけど、当時の鉄道写真では機関士さんが顔を出してるカットとかも写してたりしたんです。蒸気機関車を走らせるには燃料である石炭をスコップで運んで火室にくべなきゃいけませんし、それが男の仕事みたいでかっこ良く見えて結構憧れていました」
「あとね、拓本ってあるでしょ? 半紙の長い紙と墨とお袋に作ってもらったポンポンするヤツを持って行って、SLのナンバープレートの拓本を取って集めてましたね。今じゃ考えられないですし、そんな列車も環境もないですけど、昔は子どもだったから甘かったしノンビリしてる時代だからユルかったんですね。遠出していると知らない大人の人に声をかけられたり、人との関わりを鉄道写真の実地の場面で体験していくんですね」
「それから高校になって、ウチの高校の野球部が甲子園に出たりするんで野球部員が自分たちの勇姿を写真に撮ってくれと依頼されるんです。で、どうやったらカッコ良く撮れるかを研究してまして、なんせ僕は“オフィシャル”ですから何でも注文ができるわけですよ(笑)。撮った写真は写真部の部費でバンバン伸ばした半切や全紙のプリントでパネルを作って彼らに売っちゃうんです。すると彼らの親が親戚や周りの人に配るために、焼き増しの注文が入るんで大量生産していくんです。もう忙しくって忙しくて(笑)」
「その写真を気に入ってくれた彼らから、今度は自分の彼女の写真を撮ってくれという依頼が来るんですね。コッチは彼女いない歴十数年っていう時に、野球部の連中はモテモテだから彼女が何人もいるんですよ、悔しいことに! そんでその中でも一番かわいい女の子を自分の彼女だって連れてくるんです。その頃にはペンタックスの67に標準105mm付きを持ってましたから小っちゃいストロボを買ってキャッチライトを入れて、逆光で髪の毛や輪郭がキラキラってなるようにしたり。あとUVフィルターにポマードを塗って手作りソフターでデビッド・ハミルトンとかみたいにやって、“コレはよいかも!!”って撮ってました。あんまし付け過ぎるとボケボケになったりして(笑)。そしたら、その写真がまた評判良くって、撮って欲しいってまたまた行列で大繁盛なんですねえー(笑)。
「そのうちに女子校で“こんなにカッコ良く写真を撮れるのは誰?”ってことになり、僕もモテモテの第1期黄金期を迎えるわけですねー。ちょうどその頃に弟がプログレッシブ・ロックを聴きだして、それまで僕はフォークを聴いてたんだけどロックの方がカッコイイとなり、楽器はあんまりできないんだけどデニムジーンズを新品で買っても河原でブリーチアウトしたり穴を空けたりして、ロンドンブーツを履いたりするようになるんです(笑)」
(c) Atsushi Nakamichi | (c) Atsushi Nakamichi | (c) Atsushi Nakamichi |
7月半ばの夜、新宿駅東口のGUCCIのショーウィンドウに現れた、ジミー大西画伯の手になるポップな不思議オブジェの展示撮影シーン。家路に向かう人びともオブジェの前で記念写真を撮ったり、皆さん足を停めていくのが見ていて面白い。※現在は終了しています |
■写真の先生は近所のカメラ屋さん、土屋のオッチャンだった
「近所にあった土屋カメラという2坪くらいの小さな写真屋さんに学校の帰りとか毎日のように立ち寄っては喫茶店からコーヒーをとってくれて、それをご馳走になりながらオジサンからカメラや写真に関わるいろんな話しを聞かせてもらってました。オジサンが使っていたのはミノルタの一眼レフカメラとロッコールのレンズで、毎日それをいじってるんです。“コレがエエんじゃあ〜!”ってね(笑)」
「写真部に在籍はしていたんですけど、ちゃんとした撮り方とか現像や写真の焼き方とかを知らなかったんで、3年生くらいになって覚えていくまでは自分にとっては土屋のオジサンが写真の先生でした。写真をとおして人との接し方や社会のいろんなことを教わってました。ありがたいことですよね」
「そこから何年かしたら、もっと洗練された写真の情報が入ってきたり、僕が東京へ出て行くことや未来のことで頭がいっぱいになってくると、オジサンとはだんだんと疎遠になっていき離れてしまうんですよ。オジサンとの一番楽しい思い出は、フジカラーの撮影会が奈良のドリームランドっていうところであって、それに参加して僕が撮ったガラス越しにモデルさんが写ってる写真が特選になっちゃうんですよ。そんでトロフィーもらって新聞に載って、副賞でラッキーの引き伸ばし機をもらったんです。だけど写真部の暗室にあった引き伸ばし機のほうが立派だったんで、結局使わなかったと思うんですが。そんときオジサンもビックリしながらも喜んでくれて、“すごいなあー、将来は篠山紀信みたいな大物になっちゃうんじゃないかあ”なんて言われてお世辞でも嬉しくって、その気になっちゃうんですよね(笑)」
「あの頃は自分の写真が絶対によいとか思ってたりして、結構コンセプチュアルな写真に凝っていたようでして、見よう見真似で友人の女の子のヌードとかを撮影してPHというコピー紙を使ってみたりとかしてました。写真の細かい事がどうとかいうよりも、“高校生でヌードを撮る”という行為そのものがかっこええと思ってるような可愛い段階なんですよねえ(笑)」
■神戸の青春時代、レンズは105mmが一番エエと思っていた
「うちのお爺さんが元々写真好きで、持っていたカメラがペンタックスのSVなんです。中学の時にはそれでスタートしたんですけど、友だちはハーフサイズとかコンパクトカメラが多かっただけに、35mmフルサイズの一眼レフを持ってるだけですごくよい写真が撮れるような気がして(笑)」
「レンズは55mmと28mm、それに200mmの3本がありましたね。それで蒸気機関車を撮り始めたんですが、中学3年くらいになると女の子の写真を撮らなきゃいけなくなるんです(笑)。そんで土屋のオジサンに相談したら、“そりゃあ200mm持ってるんなら、タクマーの105mmやろ。バックをボカすために開放で撮らにゃあかんで”っていわれて105mmのF2.8を買うんです。実際に撮ってみて、現像したら“コレは完璧だ〜!”ってなるんですよ」
「そのうちに2台目が欲しくなって、SVは露出計が付いてなかったから、TTL露出計付きのペンタックスSPというのを買うんですがブラックボディが貴重な時代でカッコ良くって、それがシルバーよりも確か2,000円か3,000円くらい高かったんですが、コレはプロみたいにカッコエエから絶対に女の子にモテるやろって思って。レバーを手巻きで早く巻き上げてシャッターを切る練習をして、人間モータードライブだ! ってやってました(笑)」
「ゴルフ場のキャディーのアルバイトとか郵便局の配達員のバイトなどをしてお金を貯めて、もう1台シルバーボディのSPを手にれて、中学生で3台持ってるヤツはおらへんでスゴイやろって」
「高校生になったら、スリックの“マスター”っていう出たばっかりのゴッツイ三脚を土屋のオッチャンに“コイツはスゴイ三脚やで。一生モンやなあ〜”って薦められて買うんです。バイクに乗ったおじさんがやってきて、“お兄さん、ゴッツイ三脚持ってはるけどカメラマン?”って訊かれ“いや僕は高校生です”なんて話してたら、その人は神戸で写真館を経営してるMさんという人でアルバイトをしないかということになり、結婚式とかの撮影のアルバイトも始めるわけです」
高校2年の時にペンタックス6×7を買いました。確かボディだけで13万5,000円やったと思うんですが、標準レンズのセットが90mmと105mmの2種類があって、僕はやっぱ105mmの方を選んで。“これでカメラ機材は揃った、あとは腕だけやー!!”って決意しました(笑)」
■東京へ
「以前のコンテストで特選をもらった時の審査員のひとりが、写真家の岩宮武二さんで大阪芸大の先生で面接官だったんですが、推薦で小論文と面接だけだったので面接時に“先生のファンでして、おかげさまで賞をいただきありがとうございました”なんて話して、岩宮さんからも“君みたいな学生が来てくれたら”なんていわれたんですが、結局は行かなくてそのあと東京写真大学(※現、東京芸工大短大)も推薦で受けるんですけど、すでに1校受かってるので余裕があったもんだから、岩宮さんの時とは違ってこっちがなぜだか上から目線なんです(笑)。でも東京へ行きたかったので、結局はこちらの学校へ入学しました」
「上京してからは、学生時代の3年間は杉並の学生寮で食事付き1万5千円でした。ここにはほとんど居りませんでしたけど(笑)。大学へ入ってからは親元を離れ都会へ出た開放感からか、神戸の高校時代からの知り合いで、別の学校へ通ってるお金持ちのボンボン連中と遊んでばっかりいましたね。1年から2年に上がれなくて留年が決まって、1年生を2回やって3年目の時に親父が倒れるんです。その時くらいから ”これはいかん真面目にやろうって” 考え直すんです。卒業したらどうしようって考える時期になって、長男だから実家のある神戸へ帰ってMさんの写真館でお世話になるというのでは、東京の学校まで行かせてもらった親に対して申し訳ないし、立派になるとか出世するっていうのはどういう事かって自問自答するんです」
ナカサ・アンド・パートナーにて。中道さんは撮影の現場ではもちろんプロとしてシビアに仕事をこなされるわけだが、会社内などプライベートに近い部分では基本的に人を楽しませるサービス精神豊富な方だ。おそらく仲佐さんからの影響も大きいのだと、この日社長室でお会いした時に思った(笑) |
中目黒にある会社には現在約30名のスタッフがいる。経理の方やマネージャーを除くとほとんどがカメラマンと画像処理のスタッフ。機材は4×5など銀塩時代のモノから最新のデジタルカメラまでいろいろ揃っている。今後はデジタルに特化していくそうでキヤノンEOS 5D Mark IIIなどのボディやEFマウントのシフトレンズなどは同じモノが複数揃えられていた |
「大学最後の年の秋、今のボス(仲佐猛氏)と出会うんです。仲佐さんが独立して自分の事務所を構え、最初のアシスタントを捜している時だったんですね。ナカサ・アンド・パートナーズになる10年も前の話しです」
「その当時は仲佐写真事務所っていう名前だったんですが、原宿にあったので最初に面接で会いに行ったのは原宿セントラルアパート(1960年代以降、多くの有名カメラマン、デザイナー、コピーライター、ミュージシャン、編集者たちがココに事務所を構えていたことから、文化の発信基地のひとつとして知られていた)の1Fにあった喫茶店レオン(原宿近辺でのロケの待ち合わせとして定番だった)だったんです。店内に足を入れたらカメラマンやモデルとかスタイリストとかがいっぱい居るオシャレな場所で、こんな所で面接されるなんて、かっこええわって(笑)」
「暫く待っていると、革ジャン着てウェリントンのメガネをかけた仲佐さんがやって来て、“なに飲む?”って訊かれたから、“じゃあコーヒーお願いします”っていうと、仲佐さんが店員に“キャフェとエスプレッソ”っていうんです。えっ、エスプレッソって何何〜? キャフェって呼び方がカッコ良すぎるわぁーってなるんですよ、あの時代ですから(笑)。食事に連れてってもらっても、カウンターの目の前で天麩羅あげてもらったり、できたばかりのゼストへ行ったりとかオシャレな場所で初めてだらけなんですよ。カフェ・バーなんて言葉が未だ無い時代ですから(笑)」
「年が明けてからは頻繁に事務所へ通うようになりました。運転免許を持っていない仲佐さんの代わりに原宿の事務所から六本木の現像所まで原付バイクで10分くらいでピッと行って来たりして、“あれっもう帰ってきたの!?”なんて重宝がられました」
「それから数カ月で学校を卒業するんですが、アルバイトからそのまま自然と就職という感じでしたね。最初は建築写真じゃなくって、商品のカタログのブツ撮りが中心だったんです。当時“ハイテック”という冷たいんだけどカッコよいみたいなステンレスものを使ったインテリアのスタイルが流行っていたんです。そのカッコよい商品を撮れるなんてステキだなって、やっていたんです。製品広告も撮影だけじゃなくコピーからデザインまでうちの事務所でやっていまして、コピーなんかはボスが書いてましたよ」
「で、そのステンレス商品自体をいろんな所へ納品して施工事例を記録撮影するという仕事で、いろんな建築現場へ出入りすようになるんです。初期の原宿の事務所はグラフィックデザイナーやインテリアデザイナーや他にも面白い人たちで共同で借りていたんです。当時からあった“商店建築”という雑誌を見てて、こういう仕事をやりたいですねえって仲佐さんと話してたんです」
「その頃、事務所を一緒に借りてたナベさんというデザイナーさんが設計した、横浜のディスコを撮影してその写真を8×10にプリントして30枚くらい編集部へ仲佐さんが持って行ったんです。そしたら見終わったらバサッとゴミ箱に捨てられて、仲佐さんは唖然として“エエエー!”ってなってるんですが、“また撮ってみる?”って言われたらしいんです。それで闘志が燃えてまた撮りなおして持ってったら、今度は雑誌に掲載してくれてそこから商店建築の撮影がレギュラーで始まるんです。それが我々の建築写真やインテリア写真をスタートする最初のきっかけなんです。あとは同時期にステンレスのブツ撮り撮影から納入事例を通じて大きな設計会社と知り合いになり、バブル期に向かってそこの仕事が増えていった事も大きいですね」
■誰が撮っても同じじゃしょうがないでしょ?
「仕事が爆発的に増えていく決定的な要素はファッション・ブランドのショップの内装の写真でした。ファッション業界がデザイナーズ・ブランドを中心に次々と面白いことをしていく時代で、例えばコム・デ・ギャルソンさんとかは何も無い白い空間にハンガー1本だけあるストイックな見せ方、イッセイ・ミヤケさんではタイルの中にガラスを入れたテラゾーという人造大理石で床や壁を作ったりとか、デザイナー・ブランドさんたちがどんどん凝ったショップを作るようになっていくんです」
「僕達はインテリアのデザイナーから依頼されるんですが、そこに飾ってある洋服を外していき特徴がある代表的な洋服だけ残して、さらに一番効果的なライティングを創り上げて撮影するというスタイル。極端ないい方をすると洋服屋さんの撮影なのに洋服をなるべく外して撮るというやり方によって、かえって洋服も空間もより良く美しく見えるという結果がインパクトがあったみたいで喜ばれましたね」
「フィルム時代ですからいろんな蛍光灯とハロゲンが混ざってたり照明の色味や明るさの調整が複雑だったんですが、ゼラチンフィルターのオレンジとマゼンタを光源に巻けば光量は落ちるけど色味は補正されますよね、面倒でもそれをやっていったんです。例えば演色性のよいAAAという美術館などで使われている高価な蛍光管を使えば、グリーンの色カブリがないので、それを買い揃えて現場で全部入れ替えて撮影するなんて事もやりました」
「他のカメラマンだったらいやがるような面倒な作業を僕たちは誰もが手を抜かないで徹底的に丁寧にやってきたんですが、その頃には我々の事務所にはスタッフが5〜6人に増えていて、だからこそ可能だったことでもありますね。当たり前の事ですが、デザイナーさん(発注者、クライアント)の意図をちゃんと汲み取った上で、真摯に仕事と向き合うということはデジタルになっても変わらない大切なことです」
青山の裏道にオープンする(現在はオープンしています)カフェ・バーのJANAT。デザインはグローバルダイニングでゼストなどを手がけてこられたKNOTの佐藤茂さん。旅する船のデッキのイメージでシンプルなお店 |
たくさんの社員(部下)を抱えている今でも、撮影前の現場で自ら率先して掃除をしている中道さん。掃除をしながらどう撮るかのアングルを考えてるという。中道さんが掃除をする姿を見ていて他のスタッフが動かないわけにもいかない。しかも自然体に見えるから不思議だ、ある意味掃除のプロでもある(笑)。それも嬉しそうにしないと下の人がついてこないので、いかに楽しそうにやるかが大事だと教わった。技術なんて50歩100歩だから、こういったところで違いを出していくことが大切だとも。
「僕らの仕事って大きな会社じゃないから、入社してから仕事のやりかたの研修みたいなのって無いじゃないですか。若い人は実際の現場で体験しながら覚えていくしかない。僕が若い頃に仲佐さんの一番のお得意企業の社長さんとはじめて2人っきりで会う機会があったんですが、会社へ訪ねていき挨拶しようと思った時、朝なら“おはようございます”だけど、時間帯が違うし、“こんにちは”だと敬語じゃないし、そう挨拶していいのかわからないで困っていたんです。そしたら社長さんの方から“中道さん、お世話になります”って仰ってくれたんです。あぁ、これだ!! って助かったんですね(笑)」
(c) Atsushi Nakamichi | (c) Atsushi Nakamichi |
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「僕が仲佐事務所へ入社した最初の年には、まだそんなに撮影の仕事も入って無かったんですよ。そんな時に、池袋にできたばかりのサンシャイン60っていう超高層ビルのゲートとか案内板サインをデザインしたGK設計から仕事を発注されてたんですが、仲佐さんが“中道、お前行って撮って来い”っていうんです。“えっ僕、45とかあんまり使ったことないんですよ”ていうと仲佐さんは“簡単だよ。前板と後板をこうやって動かして、シャッター速度をこうしたら……”って銀行からもらったメモ帳にシュッシューとロットリングを使って図解を描きながらシフトやアオリの使い方を説明してくれるんです。“担当者はこの人で、メガネかけてて、ここに髭が生えててこんな髪型の人ね”って描いてくれたメモ用紙を持たされて、機材抱えて原宿から都バスに乗って池袋へ行くわけです」
サンシャインへ行って、挨拶したら、出てきた担当者の人がメモ帳の絵とそっくりで、あっこの人やって(笑)。それでいわれた通りの手順で撮影し、事務所へ帰ってネガ現像したのを見ながら、“おお、いいじゃん。よくできたね”って仲佐さんにいってもらえて。それをプリントして図面に貼り付けて納品してたんです。それが入社してすぐの5月くらいでしたね(笑)」
「ある日、仲佐さんに“ちょっと質問していいですか。僕はアシスタントじゃなく、なんで撮影に行かせてもらってるんですか?”って訊くと、“もし1日に2本仕事が来たらどうする? 断るのかい。2人いたら2本の仕事ができて、その方が儲かるだろう?”って。なるほど〜アシスタントしてるよりそっちの方が合理的でなんてステキだ!って納得しました」
「当時事務所にクルマが無くて撮影の度にレンタカーを借りてたんですね。仲佐さんは免許がないから仕事が終わったらタクシー使って帰るんで、僕がレンタカーを運転して送ってたんですけど、給料が少ないからタクシー代をまわして欲しかったんですが、“1カット多く撮ったらその分ギャラが多くもらえるんだぜ”って教わり、1回の仕事でいかに撮影カット数を増やすかを工夫するようになりましたね。あくまでも例えばの話ですが10カットで10万円だとして20カット撮れば20万円じゃない。だから商品のよい部分を見つけてはクライアントに、ここのディティールもステキだから撮りましょうよ! ってどんどんカット数が増えるようにプレゼンしていくわけです(笑)。それをさすが関西人の才能だって面白がってくれてましたね。こっちも5万円の給料を10万円、15万円にって増やしてもらえるようにしなくちゃいけませんから必死ですよねえ(笑)」
「働くようになって引っ越した先は便利でした。当時住んでいたのは原宿駅から近い場所にあった6畳二間とトイレお風呂が付いた家賃5万5,000円の古いアパートを同郷の大学生と2万7,500円を折半して、残りでご飯が食べれたら何とかなる生活でした」
「いまは最高執行役員という肩書きになってるんですけど、会社ではナンバー2で社長は仲佐さんなんです。笑い話で仲佐さんがよくいうんですよ、どこかへ一緒に行った時に“他所の人たちは俺のことを社長だと思っていない、中道を社長だと思っているよね?”って自慢のように喜んでいうんですよ。ああ、この人はそこを喜んでくれるのかって気付いたら、もっと喜んでもらおうって思うんです。写真って人を喜ばすものでしょ? だったら身近な人から喜んでもらいたいなって。家族はもちろん大事なんですが、もしかしたら家族よりも長い時間を一緒に過ごして来てるし、ましてや家族を養うための給料をくれる人じゃないですか(笑)。仕事をしてお金を稼ぐっていうことだけじゃなくってですね。僕は長男ですから上に兄弟がいないんですね。だから兄貴みたいに思ってる部分もあります。確かにある意味そういう存在ですね。褒められたいですもん、今でも(笑)」
「他所の会社とか師弟関係みたいなのとは違うと思うんですね。仲佐さんは僕の事を人前では“ウチの中道は”っていってくれてますね。僕が吉本のお笑いで育ってきた関西人で、ボスはやくざ映画が大好きな江戸っ子で宵越しの金はもたねえぜっていう粋な人で、まったく真逆なんですね。そこが僕にとってはとても魅力的に感じるんです。
「ボスにしても僕が最初のアシスタントなんで、どうしたらいいかお互いわからなかったんです。ボスが僕に“どうするのがよい?”って訊いてくれたんですね。元から叱られたり相手から壁を作られたりすると、萎縮してしまうという性格なんで、“じゃあもし良かったら僕のこと褒めてもらえませんか? 褒められると調子に乗るほうですから僕はなんでもできると思うんです!”っていったんです。それから何も変わっていないですね、34年間ずっと」
中道さんと知り合ってからそんなに多くの時間を過ごしたわけではないが、近くに一緒にいさせてもらってる間には、毎回実に様々なことを自然と学ばせてもらっている気がする。
その中の一つに、こちらから電話を掛けた時に中道さんは“○○さん、おはようございます”とか、開口一番、○○さんと受話器の向こう側の人の名前を必ず呼んでから挨拶をされる。ボクはせめてこれだけでも見習ってぜひ真似しようと現在練習中なのだが、なかなかできない。傍で見ているだけで本当に多くのことを学べる、学校の先輩みたいな存在だ。
建築やインテリアだけでなく、すてきな人物写真も撮られてる中道さんはコミュニケーションのプロでもある。できればポートレートのジャンルはご遠慮いただけると有難いのですが(笑)。今後もいろんなことをたくさん学ばせていただきたいと思います、兄貴☆
取材協力
- 株式会社ナカサ・アンド・パートナーズ
- すみだ水族館
- 大成建設株式会社
- KIRIN 一番搾りFROZEN GARDEN
- 橋本夕紀夫デザインスタジオ
- KNOT 佐藤茂
- AXISギャラリー
- サンディスク株式会社
- 株式会社タムロン
今回の撮影使用機材
- ペンタックス:645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax FA 645 75mm F2.8
- キヤノン:EOS 5D Mark III、EOS 7D、EF 24mm F1.4 L II USM、EF 16-35mm F2.8 L II USM、EF 70-200mm F2.8 L II USM
- タムロン:SP 24-70mm F2.8 Di VC USD
- シグマ:12-24mm F4.5-5.6 EX DG HSM
- ニコン:D7000、AF-S ED 18-200mm F3.5-5.6 G VR
- オリンパス:OM-D E-M5、E-P3、M.ZUIKO DIGITAL ED12-50mm F3.5-6.3 EZ、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8、M.ZUIKO DIGITAL ED 75mm F1.8
- パナソニック:LUMIX G VARIO 7-14mm F4 ASPH
- サンディスク:Extreme Pro CF & Extreme Pro SDHC
2012/8/22 00:00