写真を巡る、今日の読書
第15回:その時代を著す“写真論”の話
2022年9月7日 07:00
写真家 大和田良が、写真にまつわる書籍を紹介する本連載。写真集、小説、エッセイ、写真論から、一見写真と関係が無さそうな雑学系まで、隔週で3冊ずつピックアップします。
その時代ごとの文脈に沿って解説してくれる“写真論”
前回まで落語や小説など、写真の周縁の様々な芸術に関する本を紹介しましたので、今回は少し写真に立ち返ってみたいと思います。
写真を専門にする教育機関では、写真史と共に様々な写真論が紹介されます。例えばロラン・バルトの『明るい部屋』や、スーザン・ソンタグの『写真論』などはその代表格とも言えるものです。
写真論というのは、写真という映像や行為と、芸術や文化、社会、思想、時代といったものがどのように関係するのかについて論じたものです。そう考えると難しい内容に思えますが、色々な作品や作家の見方や解釈の仕方を、その時代ごとの文脈に沿って解説してくれていると考えると、少し読みやすくなるかもしれません。
また、今回は文章表現としても美しく、かつ親しみやすく示唆に富んだ写真論を選んでみましたので、秋の夜長にゆっくりと眺めてみてはいかがでしょうか。新しい写真表現が閃くきっかけにもなるかもしれません。
『留まれ、アテネ』ジャック・デリダ 著(みすず書房・2009年)
一冊目は、『留まれ、アテネ』。20世紀のポスト構造主義を代表する哲学者の一人である、ジャック・デリダによる写真論です。ジャン=フランソワ・ボノムが撮影した、アテネのスナップ写真を携えて、旅をしながら紡がれた写真論になります。
「私たちは自らを、死に負っている」という一文から始まる本書は、後期デリダの死を巡る思想が多分に含まれたもののように思います。ロラン・バルトは、『明るい部屋』の中で「それは=かつて=あった」という表現を、写真の本質のひとつとして用いましたが、デリダは「撮る」行為に「遅延」という言葉を重ね、撮影とは時間経過の永久的延期であるということをこの本で語っています。
バルトが写真を主に見る側から考えたのに対して、デリダのそれは撮影者側の観点を多く含んだものになっているようです。写真論でありながら、詩的でもあり、エッセイ的でもある本書は、言葉を通してデリダの思索に触れるには、比較的読みやすい一冊になると思います。
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『写真幻想』ピエール マッコルラン 著(平凡社・2015年)
次は、『写真幻想』。20世紀前半のパリを舞台に、詩人、小説家、評論家など多彩な顔を持つ作家として活躍したピエール・マッコルランによる写真論です。巻頭には、マッコルラン自身によって撮影された写真群も掲載されています。
マン・レイやアンドレ・ケルテス、ウジェーヌ・アジェなどの同時代の作家たちの仕事を元に、この時代の写真芸術について豊かに語られます。写真史と照らし合わせると、ちょうどドイツで新即物主義が隆盛し、各地でニューヴィジョンと呼ばれる新たな写真運動が活発になった、最も表現の枝葉が豊かに広がっていく時代と重なる時期が描かれた一冊になっています。
読んでいると、その時代を鮮明に想像することができるようです。その点で、個人的にはウディ・アレンのタイムスリップ映画で、1920年台を舞台にした「ミッドナイト・イン・パリ」を思い出しました。
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『写真の映像』ベルント・シュティーグラー 著(月曜社・2018年)
今回最後は、ベルント・シュティーグラーの『写真の映像』です。副題となっている「写真をめぐる隠喩のアルバム」とあるように、写真が表す様々な表象と隠喩を収集した一冊になっています。
全体を通すと、「写真を言語として捉える隠喩」の輪郭が描かれる写真論でもあると言えるでしょう。アルファベット順に並んだ様々なキーワードを元に、数ページの短い写真論が連なる体裁になっており、気になるワードから引いて読み進められるのも面白い点。その日の気分でパッと開いて気軽に読むようなスタイルにも合うと思います。
「眼(Auge)」「化石(Fossilie)」「幻影(Phantom)」「痕跡(Spur)」など、他の写真論や評論などでも頻出するワードがあり、本書に限らず別の論考を読む際の読み解きのヒントにするのにも良い本だと思います。新しいテーマを見つけるための、良い言葉が見つかりそうな写真論になっています。