レンズマウント物語
第7話 マウント変更の各社各様(後篇)
第7話 マウント変更の各社各様(後篇)
(2012/12/4 00:00)
奔放に(?)レンズマウントを変更したマミヤ光機
レンズマウントの変更は深刻なユーザー離れを起こすということで、どこのメーカーも慎重になる中、なんのためらいもなくマウント変更を繰り返したメーカーもあった。マミヤ光機(現在のマミヤ・オーピー、しかしカメラ部門は他に譲渡してしまっている)がその代表例である。
マミヤといえば6×4.5判や6×7判の中判カメラのメーカーとして知られているが、以前は35mm判一眼レフも造っていたのだ。いや、むしろこの分野ではパイオニアに近い。1949年に東独ツァイス・イコンがペンタプリズムを載せた35mm判一眼レフを発売して以来、日本のメーカーもこぞってペンタプリズムを搭載した一眼レフの開発に着手したのだが、中でもマミヤはいち早く1952年には試作機を発表していた。しかし実際に製品として世に出るには10年近い歳月を要し、ミランダやペンタックスに先を越されてしまったのである。
そのマミヤだが、びっくりするほどめまぐるしくレンズマウントを変えている。それがメーカーとしてのポリシーなのだろうか、周囲の事情が変わったり、あるいは新しい技術が導入されたりすると、躊躇なくマウントを変更しているのだ。その足跡をたどってみよう。
スタートはエキザクタマウント
マミヤブランドで最初に発売されたマミヤプリズマットNP(1961年)は、エキザクタマウントを採用していた。エキザクタマウントについては本稿では説明していなかったが、35mm判一眼レフの元祖ともいうべき、東独イハゲーのキネエキザクタのマウントである。このマウントはトプコン(東京光学)も採用しており、M42には及ばないまでも世界的に普及したマウントであったが、口径が小さいのが難点だった。
このころのエキザクタマウントは完全自動絞りに対応していなかったので、このプリズマットNPもレンズに設けられた開放レバーを手動で操作して開放にセットする、「半自動絞り」を採用していた。
翌1962年には完全自動絞りのマミヤプリズマットWPが出されたが、ここであっけなく専用バヨネットマウントに変更してしまった。そしてそれも一機種のみで終わり、1964年の外光式露出計内蔵機マミヤプリズマットCPからはM42マウントとなる。その後TTL絞り込み測光のマミヤセコールTL、1000DTL/500DTLとM42の時代が続いたが、1972年のマミヤセコールオートXTLではまた専用バヨネットマウントに変更された。この機種はシャッター速度優先の自動露出が組み込まれたので、ボディ側からの絞り制御機能が必要になったことによるもので、当然ながら以前のプリズマットWPのマウントとは違い、互換性はない。
再びM42、そしてまた専用バヨネット
1974年になると、マミヤDSX1000/MSX500が登場し、レンズマウントはM42に戻った。ただこれらは開放測光なので、ロック付きのM42マウントである。以前紹介したオリンパスFTLやフジカST801などとは互換性はない。これらはマミヤセコール1000DTL/500DTLの後継機としての性格が強く、むしろセコールオートXTLは別系列とみたほうがよいだろう。
このようにM42マウントについては比較的長続きしたのだが、それにも限界があったことは以前書いた通りである。各メーカーがこぞってM42マウントからの脱皮を目指す中、マミヤも1978年にシャッター速度優先AE機のNC1000Sを出し、専用バヨネットマウントに変更した。しかし、以前のセコールオートXTLとは異なるマウントだ。
そして1980年のマミヤZEクォーツではまたマウントを変えている。寸法的にはNC1000Sと同じものだが、自動絞りの機構が異なるので互換性はない。
マミヤZE-Xの先進レンズマウント
このZEシリーズはその後3機種が出され、中でもマルチモードAE機のZE-X(1981年)は当時の最先端の露出制御技術を盛り込んだものだったが、レンズマウントの面でも時代を先取りしていた。レンズとボディとの間に電気接点を設け、開放絞り、最小絞り、フォーカシングによる被写体距離情報などを伝達しており、いわゆる電子マウントの先駆けとなっている。そして、なによりも興味深いのは、レンズに設けられた絞りリングだ。
当時の一眼レフの交換レンズには絞りリングが設けられており、マニュアル露出や絞り優先AEのときにはこれで絞り値を設定するようになっていた。シャッター速度優先AEやプログラムAEの場合はこの絞りリングを定位置(多くの場合は最小絞りか、そこを行き過ぎた位置)に設定する。絞りリングはレンズ内で絞り駆動機構と連動しており、自動絞りの絞り込み時に設定絞り値で止めるストッパーの役目をしている。従って、レンズをボディから外しても絞りリングを回すことにより、絞りを操作することができた。
しかし、ZEマウントのレンズに設けられた絞りリングはそのレンズの絞り機構には全く連動しておらず、回しても絞りを操作することはできない。このリングは単にボディ側に設定絞りの情報を伝えるだけのもので、ボディ側からこの情報に従って絞りを制御するようなシステムになっていた。
現在のデジタル一眼レフやミラーレスカメラではボディ側で絞り値を設定するようになっているものがほとんどだが、その先駆けともいうべきシステムをこの時期に実現していたのだ。
このようにマミヤ光機は状況の変化や新技術の導入に際して、互換性やユーザー離れなどに関しては全く配慮せずにレンズマウントを変更しており、その様子はむしろ爽快ですらある。そのお陰で最先端のスペックを何の矛盾もなく手に入れることができるわけで、これも一つの見識と言えるだろうか?
技術革新のときがマウント変更のチャンス
マミヤ光機のようなケースは別として、普通はユーザー離れを防ぐために、レンズマウント変更のタイミングは石橋をたたくような慎重さで検討しなくてはならない。
その際、比較的有効なのが大きな技術革新と引き換えにマウントを変更するというテクニックである。最新技術を導入して飛躍的にカメラの機能が上がるならば、互換性の面で少々不便でもユーザーが許容してくれる可能性が高くなる。その意味で絶好のチャンスが一眼レフのAF化だった。このAF化の機会を利用してレンズマウントの変更に成功したのが、ミノルタとキヤノンである。
ミノルタは1958年の最初の一眼レフSR-2でバヨネットマウントを採用して以来、TTL開放測光に対応したMCマウント(1966年)、ボディ側からの絞り制御に対応したMDマウント(1977年)と、そのつど小改造を施して対応してきた。この間マウントの機械的寸法は変わっていない。
そのミノルタが1985年にα7000を発売し、レンズマウントを変更した。このα7000は一眼レフカメラのオートフォーカスを実用できるレベルにした最初のカメラである。それまで一眼レフのAF化はいくつか試みられ、商品としても出ていたのだが、いずれも交換レンズ内にAF駆動用のモーターを内蔵したものであった。
当時はまだ現在ほど小型で性能のよいモーターが得られなかったので、モーターを内蔵したAFレンズはカエルを飲み込んだヘビのように不格好で大型なものになったのだが、ミノルタはAF駆動用のモーターをボディに内蔵し、レンズマウント面に設けられたカップリングによりレンズに駆動力を伝える形式にすることによって、この問題を解決した。
当然それまでのミノルタの交換レンズは使えなくなるのだが、その代わりちゃんと実用になるオートフォーカスが手に入ることになり、ユーザーとしても納得できるわけだ。なおこのα7000のレンズマウントは、現在でもソニーのAマウントとして生きている。
同様にキヤノンもオートフォーカス化に際してレンズマウントを変更し、成功したくちだ。以前にも述べたように、キヤノンはスピゴットマウントから脱却したくて機会をうかがっていたわけで、正に千載一遇のチャンスだったわけだ。
キヤノンの場合はミノルタと違い、AFの駆動用モーターはレンズ内に収納した。ただそれまでのDCモーターではなく、全く新しい超音波モーターを開発して内蔵したのだ。それによってレンズの極端な大型化を防ぎ、なおかつAF性能の向上に成功している。また、絞りの駆動も電動にして全く機械的な連動のない、電子マウントを実現した。
これだけの新技術を盛り込んだものならば、レンズマウントの変更も説得力あるものになる。
デジタル一眼レフのマウント
技術革新という意味では、銀塩一眼レフからデジタル一眼レフへの移行はオートフォーカスよりもさらに大型の技術革新と言える。従ってこれもレンズマウント変更の大きなチャンスであった。ところが、このチャンスを利用してレンズマウントを変更した例は少ない。
オートフォーカスと違い、デジタル一眼レフの普及は緩やかに進行した。メーカーとしてはいつどの程度普及するのか、市場の様子をみながら開発を進めて行く必要があったのだ。それにはレンズマウントの変更というような冒険はできない。それまでのシステムを最大限利用しながらデジタル一眼レフに移行していくのが得策で、そのためほとんどのメーカーが銀塩の一眼レフのレンズマウントを流用し、それまでの交換レンズ資産をそのまま使えるようにした。
そんな中で例外となったのが、オリンパスである。フォーサーズという新しいデジタルカメラ向けのフォーマットを提唱し、レンズマウントもデジタルならではのテレセントリック性に配慮した全く新しいマウントにした。その背景にはオリンパスがAF一眼レフの波に乗り遅れた形になっていたという事情があるようだ。