後藤哲朗氏本人に訊く:ニコンが設立した「後藤研究室」とは


 多くのニコン製一眼レフカメラのフラッグシップモデルの開発を担い、近年はニコン本社の執行役員として経営の一翼を担っていた後藤哲朗氏が執行役員の任を解かれ、顧問兼ニコンフェローに就任。同時に映像カンパニーに後藤研究室を設立した。

 ニコン製デジタル一眼レフカメラの礎を技術者として築いてきた後藤氏だけに、映像カンパニー内という商品開発に近い場所で、どのような研究開発に取り組むのか非常に興味深い。ということで、さっそく研究室の正式設立を前にした後藤氏に話を聞いてみた(インタビュアー:本田雅一)。

開発への側方支援を担当

ニコンFとD3Xを前にした後藤哲朗氏

 後藤氏は生粋のエンジニアだ。加えて(ほかのニコン映像カンパニーのメンバーと同様に)無類の写真好き、カメラ好きでもある。その後藤氏が経営サイドに行ったことに、実は個人的に大きな違和感を感じていた。しかし、今回、ニコンフェローとなり、独自に研究室を立ち上げるという。やはり、後藤氏自身も、開発の現場に近い場所で仕事がしたいと考えていたのだろうか。

 後藤研究室の動機と活動の目的について、まずは尋ねてみた。

−−研究室設立の動機や目的は?

「ほかの会社と同じように、我々の会社にも技術動向を見ながら、将来の一眼レフカメラの性能や仕様と商品戦略について考える部署があります。将来の技術ロードマップから製品開発のロードマップが敷かれ、日々の仕事に追われながら開発を続けている。しかし、そうした開発環境では、得てして足下や目前の本質が見えなくなることがあります。今、市場でユーザーがどんなことを考えて、どんな使い方をしているのか。そこが見えなくなると、判断を見誤ってしまう。その側方支援を行なう組織が後藤研究室です」

−−ユーザーがカメラに求めていることを正しく見極め、製品開発の現場に対して開発方向の微調整をかけるといったイメージでしょうか?

「そうですね。たとえばコンパクトデジタルカメラ市場で、ニコンは一眼レフほどの存在感を出せていません。それはなぜなのか? あるいは、今は好調なニコンの一眼レフラインナップですが、ごく当たり前のヒエラルキーでモデルが並べられていますが、このラインナップのまま、後継機を出していくだけで本当にいいのだろうか? 電機メーカーの機動力を活かしたラインナップ作りに学びながらもニコンの独自性を発揮するところはないか? といった話です」

−−伝統的で堅実という印象のニコンのカメラを、その時代に合わせて時に思い切った変化を提案するとうことですか?

「いえ、そうではありません。ニコンは伝統的に技術を守り続けてきた会社ですが、新しい技術や手法に対して、写真が良くなる技術であれば、真っ先に取り入れようと考える会社です。しかし、新しい要素ばかり集めてきて、さらに他社の後を追うような機能ばかりを盛り込んでと、年中、製品を売ることばかり考えて作っていると、自分たち自身を見失って“売るためだけの飛び道具”を満載した製品を作ってしまう。そういうことがないよう、製品開発の組織とは別の少し離れた位置から俯瞰しながら、アドバイスを送るという役割です」

−−近い将来の製品コンセプト作りなども提案するのでしょうか。

「ええ、製品コンセプトに対するアドバイスも後藤研究室の仕事になります。具体的な仕様や性能そのものについても提言しますが、カメラとして必要な機能を実現するための機能試作を行なったり、要素技術の開発なども行なっていき、その中から製品にプラスになる技術や使い方の提案を行なっていきます」

「メーカーの開発者の立場で物事を考えると、どうしても作り手側の都合や論理で物事を進めがちになるものですが、カメラユーザーの視点を持って、お客さんが“カメラでこんなことができれば〜〜”と思う気持ちを達成させるためのことならば、なんでもやっていきます」

−−後藤さん自身を含むカメラ好きの夢やカメラに対する思いを達成するための提言を行なう組織とも受け取れます。

「大きくは外れていません。自分自身、これまで新技術の開拓だけでなく、様々な撮影現場、写真展、古くからのカメラ店、中古カメラ店、写真家など、業界内のさまざまな関係者のところに足を運び、実際にニコンのカメラを使っているユーザーからの声を吸い上げるようにしていました。今後もそこから感じる事が、後藤研究室における各種研究テーマに繋がっていくことになります」

「ミラーのある一眼」は今後も続く

後藤研究室が所在する大井ウエストビル(東京都品川区)

−−その後藤さんが、最近のデジタルカメラ市場に感じていることは何でしょう?

「写真をあまり撮らず、作品をあまり観ないでカメラを作る人が増えてきた、という感じは受けています。もちろん、きちんと写真を知っている技術者もたくさんいるのですが、カメラやサービスからどんな作品が生み出されているのか。そこを見ていない。そうした意味では(コンパクトデジタルカメラでファンから強い支持を得ている)某社の某カメラには、ニコンの製品がおおいに参考にすべきところもあり尊敬しています」

「“写真を撮らない人が作ったカメラ”というのは、あまりにもとび過ぎた方向、あるいは超クラシックな方向に行きがちです。もちろん、写真の歴史は長くて、加えて趣味・嗜好品の世界もあります。実用性だけではなく、過去の歴史も大切です。単にクラシックというのではなく、過去の歴史を大切にしながら、写真を撮影し、作品を生み出すことを知っている現代的なカメラとサービスが求められているのではないでしょうか」

−−昨今、ミラーレス一眼が話題ですが、この件についてはどのようにお考えでしょう?

「お陰さまでニコンマウントはちょうど50周年を迎えました。幸い、大きな変更を加えつつも、同じレンズを装着できていますが、古いことは確かです。実はマウントを変えた方がいいのではないかということは、以前から社内でも折に触れて議論してきました。マウントを変えれば、新しい何かができる。マウントを変えるとなれば、それこそミラーが必要か? それとも不要か? といった話も可能となってきます。でも重要なことは、今後写真生活をどうしたいのか? をしっかり考えることですね。マウントはその手段に過ぎません」

−−ミラーレス一眼は、デジタル一眼レフとコンパクトデジタルカメラの間をつなぐ“ブリッジカメラ”と言われることもありますが、実際にはミラーレスの良さを活かそうと思えば、一眼レフ用レンズとの互換性は断たなければ成り立ちません。この点にジレンマはありませんか?

「ミラーレス一眼はブリッジではない独自製品だと思っています。ミラーのある一眼は、その動作音や振動も含めて撮影する人をその気にさせる精密な機械です。ファインダーの見え味も自然で、長時間カメラを使っても絶対に疲れない。“ミラーのある一眼”は、今後も続いていくカテゴリです」

「しかし、いかんせんサイズや形状、機能までもが固定されます。ミラーレスのソリッドステートならば、きっと大幅な自由度をもたせた超現代的なレンズ交換式カメラを作ることができますから、その点ではよい手法ですね。しかし、ファインダーを備えるならば、人間の目に優しく被写体を捉えやすいものであるべきでしょう。もしニコンがミラーレス一眼をやるのであれば、現在すでに市場に出ているものとは味の異なるものにしなくてはなりませんし、マウントの変更もしなければなりません」

−−現在のミラーレス一眼は後藤さんの考えるカメラ進化の方向とは違うということでしょうか?

「いえいえ、誰かに叱られるかもしれませんが、もし某社の某ミラーレス一眼に“Nikon”のロゴが付いていれば、自分でも買ってますよ。愛用のD700に比べればはるかに手軽に持って歩けるサイズですし、機能も十分ですから。しかし、もしミラーレスを実際にニコンがやるとしたらちょっと違うんじゃないかな」

−−一眼“レフ”に関してはどうでしょう。レンズ交換式カメラに興味を持っているけれども、実際には購入を見送っている人たちがたくさんいます。

「たとえばD40を例に取れば、まだまだできること、やらなければならないことはたくさんあります。サイズと重量のために買わない方が大勢いる事実は良く知っていますし、上位モデルに採用した機能、性能がまだまだ反映されていませんから。実はニコンの一眼レフで、もっとも完成された自動機能が搭載され、簡単に思い通りの写真が撮れるのはD3シリーズなどの上位機種だと思います。D3で写真を撮影することに比べると、D40は難しいとも言えます」

−−D3/D300は露出判別やオートフォーカス、ストロボ調光など、実に的確な判断をしてくれて、ほかのカメラと使い比べると露出補正が必要になる場面が少なくて驚きます。しかし、同様のアプローチで露出制御しているD90には(測光センサーの違いもあって)、あそこまでの素晴らしさはない。D40になると普通の一眼レフカメラになってくる。レリーズレスポンスやファインダー消失時間といった要素も含めると、確かにD3/D300というのは実にイージーなカメラですね。

「そこです。露出制御に関して言えば、ニコンのアプローチは、机上理論だけに走らないで、とにかくたくさんのシーンを撮影し、露出のおかしな部分を発見する度に理由を分析し、それをアルゴリズムとして組み込むというプロセスを何万シーンにも渡って行なっています。しかし、ローエンド機種では価格制約という障壁があるため、上位機種ほどのデバイスがコスト的に盛り込めません」

「しかし、だからこそ改良する余地があると言えます。ローエンド、エントリークラスの一眼レフカメラは、いろいろな視点でもっと良くすることができるでしょう」

−−少し切り口を変えてみましょう。ニコンが得意としているのは光学技術と長いカメラ開発の経験から来る“写真”に対する深い造詣ですよね。ほとんどはアナログ、あるいはアナログ的な要素です。しかし、ミラーレス一眼の場合、付加価値を得るための要素技術が大きくシフトしますよね。極論すると、ミラーボックスがいらないならば、日本の光学メーカーでなくともよいと言われかねません。

「ミラーレス一眼というのは、交換レンズ部分を除けば、メカニカルな構造も、付加価値の付け方も、コンパクトデジタルカメラと同じです。放っておけばセンサー、システムLSI、液晶パネルといった部分に価値が集中し、製品の機能や特徴が平均化していくでしょう。一方忘れてはいけないことに写真やカメラ機材は趣味嗜好品のひとつでもありますので、人間の使う道具としてニコンの存在価値をつけることを工夫しなくてはなりません。デバイスを寄せ集めた単なる電気製品では我々にとっても、カメラ好きのお客さんにとってもよい方向には行かないと思います。ニコンの出番はそこにあるのではないでしょうか」

−−“近い将来”に限った時、レンズ交換式カメラの主流はミラーレスに移っていくでしょうか? それとも一眼レフのままでしょうか?

「ニコンに関して言えば、長い期間一眼レフの世界で魅力的な製品を生み出していくだけのロードマップが引けます。ですから仮にミラーレス一眼をニコンが発売したと仮定しても、主力製品になることは、当面の間はないんじゃないでしょうか。ミラーがあっても動画は撮影できますし、それ以外にもデジタル技術を用いてさまざまな事ができますから。しかし、それと並行してミラーレス化に関しても、技術開発と商品戦略は練っておく必要はありますね」

−−しばらくは一眼レフで明確なロードマップが描けるとのことですが、ニコン製一眼レフが進むべき方向はどこにあるとお考えでしょう?

「D3シリーズはとても高性能で簡単に撮影できるカメラですが、あまりに大きくて重い。大きくて重いと、人はそれを持ち歩こうと思わなくなります。中級から普及クラスでもそう思っておられるお客様が多いですから、従ってまずはもっとコンパクトなカメラを作る必要があると思います」

「後継機症候群」の弊害

−−そういえば以前、後藤さんとD2X発表直後のインタビューで話した時、F6のようなスタイルのD2が欲しいという話をしたことがありました。昔のプロ用カメラは、オプションを付けない素の状態ならば、充分にコンパクトで持ち歩きやすいサイズでしたね。しかしデジタルになってからは、トップモデルを持とうと思うと、同時に大きさと重さを許容しなければならない。

「私もユーザーの求めるカメラの姿形と、実際の高性能なデジタル一眼レフの姿形の間には大きなギャップがあると感じています。自分でもD700を使っていて、確かに良い写真は撮れますが、あんなに総花的な機能はいらない。自分本位でいえばもっと小さいカメラが必要だと思っています。カメラとして高性能、高画質であることは必要ですが、持ち歩かないならば、そもそも撮影することもないのですから」

「今(インタビュー時点の6月初旬)、ニコンのWebサイトには8機種の一眼レフカメラが階層化された形でラインナップされているのを確認できます。キレイに階層化されて、上下の関係が整然とでき上がっている。至極簡単なことで、上位機種が下位機種に(発売時点で)負けることはできませんから。時折指摘されることですが、いわゆる“後継機症候群”かも知れません。あまり疑問もなく階層化された製品のアップデートを行なうのでは、どこかでユーザーのニーズを見誤りますし、ライバルメーカーと違う特徴も出しがたい」

「とにかくラインアップを揃えることで一生懸命になってしまいましたが、昨年のD3Xで一応ラインが完成した今、そこには異端児もないと面白くありませんよ。仮にですが、小さくて高性能だけれど、“ある部分”に関しては結構オバカな機種はどうでしょう。でも"別のある部分"はきちんと拘って作り込んでいる。今のニコンのラインナップは当たり前すぎますから、その正常進化を狙うだけでなく、意外性のある異端児も投入するためのアイディアを後藤研究室では練っています」

−−確かに今のデジタル一眼レフは、銀塩時代よりも使うことに対する精神的なハードルが高いようにも思います。デイリーユース的な使い方ができる製品が少ないですね。

「例えば自分本位ですが、もっと小さく、毎日カバンに入れて使えるカメラを作りたいんですよ。D40はかなりコンパクト化することができましたが、“オジサン”が持ち歩く製品はコンパクトでも多少のステータス性がないと受け入れてもらえません。軽量コンパクトであるところは突出した機能と性能。質感も頗る高い。でも連写はできませんとか、シャッターチャージは手動ですとか。たとえ話であれば、3万円の低価格一眼レフがあって、もっと手軽にラフに使ってもらうことを意識してもいい。いろいろな意味で発想を変えないとダメですよね」

より良いカメラとレンズの可能性を追求したい

−−後藤研究室の成果は、どのような形で製品に注入されていくのでしょう?

「常日頃から製品企画や開発の現場には話をしていこうと思います。もちろん、研究室で技術試作をしてから持ち込むこともありますが、成果が出てから"これを入れろ"だけではなく、常に製品開発に対して開発の方向を修正するためのアドバイスを送り、同時に成果を挙げながら組織にその技術やアイディアを注入して行きます」

−−後藤研究室での取り組みには、感性に依存する部分も含まれるのでしょうか?

「もちろんです。動作音や触った感触、操作した感触から、カメラの基本的な露出制御などに関すること。ファインダーの見え味など、これらはニコンの存在価値のひとつだと思っていますので、感性的な部分に関しても取り組んでいきます。画質に関して言えば、まだ改良の余地があるホワイトバランスの取り方がひとつ大きなテーマになるでしょう。ViewNXなどアプリケーションソフトに関しても専門メーカーと一線を画すため、ニコンの製品として本当に必要なことは何か、について取り組みます」

「また、もうひとつのミッションとして、プロやアマのお客様とのコミュニケーションを深め、ニコンを知らない写真家にニコンを使ってもらったり、お店からのフィードバックを分析するといったこともやっていきます」

−−“よりよいカメラのためのすべてに関わりたい”という気持ちが伝わってきましたが、後藤さんはデジタルで各種収差を補正する事に対しても積極的でした。今後、さらに補正技術は進んでいくでしょうが、すると光学技術での優位性というのが、将来は付加価値に繋がっていかないというジレンマを抱えませんか?

「放っておくといずれはカメラも、光学技術依存、アナログ技術依存の製品ではなくなるかもしれません。演算能力が上がり、センサーの性能も高まってくれば、きっとレンズフレアだって取り除くことができますよ。補正でかなりの要素は改善できる時代になってきました。そうなれば、レンズ性能に対する要求は下がるかも知れませんね。しかし一方、よりよいレンズを使えば、もっと、さらによい写真が撮れる。先ほどの感性的な領域と光学技術の探求は実はアナログ技術の粋であって、ニコンの伝統であり、今後の存在理由なのです。そういう可能性を追求し、アイディアを出していくのが、後藤研究室の仕事だと思っています」



(本田雅一)

2009/7/8 14:22