望月 孝(もちづき たかし)
プロフィール:1967年東京都世田谷区生まれ。1990年多摩美術大学美術学部絵画科卒業、同年株式会社ササキスタジオ入社。1995年より、同社チーフフォトグラファー、1998年退社。アジア6カ国を放浪取材の後、翌1999年、望月孝写真事務所をスタート。2002年、東京一のアジアンタウン新宿区大久保に事務所兼スタジオを移転。2007年より合同会社望月孝写真事務所設立。1996年「キヤノンLレンズカタログ」で全国カタログポスター展印刷出版研究賞、2005年「ホテルオークラ・手のひらの華シリーズ」で日経BP広告賞 優秀広告賞、2009年「Baccarat企業広告」で毎日広告デザイン賞、準部門賞、2011年「Canon Inc.技術広告 野生の王国」で第51回・消費者のためになった広告で銅賞受賞など他、受賞歴も多く、スタジオ在籍時代からコマーシャルフォトなどでのスチルライフ作品や技法解説の発表などの他、ポートレート、ドキュメンタリーなど幅広いジャンルで活躍中の広告写真家。主なクライアントに、キヤノン、富士フイルム、GOOD DESIGN AWARD、BLUE MAN GROUP、全国信用組合中央協会、東京芸術劇場、竹尾(TAKEO PAPER SHOW)、NTT docomo モバイル社会研究所、SUNTORY、KIRIN、KDDI、Baccarat、資生堂、明治乳業、YAMAHA、ホテルオークラ、全薬工業、横浜ゴム、FOX FIREなど。雑誌、HUGE、Tarzan、SPA!、SWITCH、saitaなど。
モッチーこと望月孝氏はボクよりひとまわり若いのだが、70年代や80年代初頭までの上京してくる前までの若き日々、ボクの頭の中で想像していた東京で広告写真を撮るカメラマンの本来あるべき憧れていた姿の一つの典型とも云える印象を全身に漂わせている男。The広告カメラマンとも云える。だけど本人は
「今回の取材を受けるに当たってショックだったのは、“HARUKIさんから、あたなたは広告写真家だから”と云われたことなんですよ。自分の中では、広告とか雑誌とか作品というもののジャンル分けでのバランスがまだ足りないのかなー? って」
と云う。彼は広告写真家として充分に成功していて素晴らしいのに、何故? って思う。だからこそ、いろいろ訊いてみよう。
幼い頃、絵画教室を主宰する母親の横で絵を描いていた少年だった。高校時代は美術部のほか、ブレイクダンス、演劇、マラソン、そしてサッカー部、応援団などと各方面でまさに青春を謳歌していたが、望月少年は高校2年で大学は美大を選んだ。その時から美術部以外の部活は辞めて、予備校も美術系に絞って通い始めた。そして入学したのは多摩美の絵画科。美術系の大学へ行っても潰しがきくようにと、教員資格は取った。
写真との出会いは、美術を学ぶ上で、知り得たマン・レイやブランクーシなどの作品、そして高校の同級生がきっかけだった。友人のお父さんが大手新聞社の写真部にいた関係で、来日したエルスケンがその友人の家に泊まりに来たりしていたのをきいたりして、だんだんと写真にも興味を持っていったらしい。1980年代後半、写真発明以来の150年史とかで世間でも写真そのものが徐々に盛り上がっていた頃だ。実際に写真そのものに触れるのは大学に入ってからで、絵画表現のひとつでしかなかったし、彼の通う絵画科には暗室が無いのでデザイン科にお願いして使わせてもらっていたと。
大学を卒業する頃になり、焦ったのは就職先だった。絵画科、まして油絵なんてやってる人は大学院へ進むか、教師になるくらいしか選択肢のないコースだ。いくつか会社の試験を受けて、合格したのが2社。一つは編集プロダクションだった。もう一つがササキスタジオ。そして望月が選んだのはササキスタジオ。理由は簡単で、編集プロダクションだと文字がメインになるわけだが、ササキスタジオは写真なのでどちらかというと、絵に近いからというだけ(笑)。
ササキスタジオというと40名くらいのカメラマン、そして50〜60名くらいのアシスタントを抱える大所帯、老舗中の老舗の大手広告写真制作会社である。たいていの人は大学の写真学科か写真の専門学校を卒業して入社するわけだが、モッチーはほとんどカメラも扱えないまま入社した。彼の入社時、同期だけで18名もいた。会社へ入り、アシスタントをしながら次第にカメラ扱いや写真の撮り方を覚えていくしかない。2年目くらいから、自分でフィルムを詰めるようになりライティングもしていく。最初は知識0で入社したが、その分、写真に対する吸収も早く、同期の中でも比較的早く頭角を現していった。実力主義なんで、社内の営業職の人とは別に、カメラマンたちでも営業をしていたそうだ。
入社5年目の1995年にはチーフカメラマンになった。人よりも遅いスタートだったし、一生懸命がんばって知識や技術を身に付けていき、認められていく過程には、絵画を勉強してきた影響や強みがあっただろうと思われる。そこから退社するまでの3年間はカメラマンとしてひたすら技術を磨きながら、自分自身の表現を目指していった。
(c) Takashi Mochizuki | (c) Takashi Mochizuki |
(c) Takashi Mochizuki | (c) Takashi Mochizuki |
1998年は望月孝にとって目まぐるしい年だった。2月に退社し、5月に結婚して、8月から年末ギリギリまで放浪の独り旅に出た。翌1999年から正式に独立というカタチで仕事を始めるが、赤羽の自宅は現像所がデリバリーに来てくれないエリアなので新宿区へ引っ越し、合同会社としてスタート。幸いにも仕事は最初から恵まれていた。CDや女性誌などの仕事とともに、会社時代から撮影の仕事を担当していたビッグクライアント、2社の仕事がある。
1つはキヤノンのカタログなどの仕事が、独立してからも再度任されたことが大きかった。これは今に至るまで様々な撮影をしてきている、ある意味、望月孝の代表作シリーズともいえる。
それともう1つが富士フイルム。雑誌コマーシャルフォトの表1&表4のタイアップ連携広告など含み、媒体の売りである商品そのものはポジフィルムや大型カメラのレンズなのだが、表現される世界観はとても自由度に富み、スチルライフに於ける最大限の“美における遊び”が許された仕事であり作品だったのではないだろうか? 当時ボクはモッチーのことを直接の知り合いではなかったのだが「なんて楽しそうな仕事だろう」って思いながら定期購読していたので毎月のようにコマフォトを羨ましく眺めていたシリーズだった。
他にも母校である多摩美術大学の大学案内パンフレットも、スタート時から最近まで長きにやってきた仕事。元々、学生として在籍していたので、各課の特徴などが理解出来るので発注側にも受注側にとっても良い仕事だったろう。その他にもいくつかのクライアントがあり、とても恵まれたスタートだったといえる。
取材に訪れたのは2011年の冬。大手広告代理店、電通の地下スタジオではキヤノンの正月掲載の企業新聞広告用の商品撮影が進められていた。前日からクライアントのキヤノンの方たち、代理店、制作会社、スタジオ、30数人以上が前日から機材の搬入や、セッティングにと忙しく動き回っている中をお邪魔させて頂いた。
画像チェック&撮影用のデジタルシステムはMac Proのユニット。EIZOのモニターに繋がれている。カメラは三脚ではなく、スタジオ専用の大型FOBAに取り付けられていた。商品がカメラボディとレンズで何十という数の塊なので、商品同士の間隔も含めて、わずか1mmでも動いたら全部がやり直しになってしまうくらいシビアだ。 |
望月氏が口元に持っているのは、ホンモノのレンズじゃなくEF70-300のレプリカ・マグカップ。こんな小さな芸は、緊張が続く撮影現場では大事な気遣いである。本人が遊んでるだけの場合もあるんだけど(笑)。レンズを安全に並べられるように敷かれたセーム皮の化け物みたいな場所に置かれてる、カメラボディやレンズの前後キャップの山がすごい数だ。 |
テーブル上の商品のほこりを取り除きながら、ほんのわずかな傾きなどをグルーガンなどでジャストの位置に修正固定していく。同時に別のスタジオスタッフはライティングに手を加えて、商品がもっとも美しくかつ、見る人に伝わりやすいように調整していく。そのどの作業にも望月氏の的確な指示が入る。 |
パソコン上でチェックして、どうしても形状が不自然な部分は、別カットで撮影して貼り合わせていくと自然に見えてくる。人間の目は一発でいくつもの商品を同時認識するが、写真では写っているままなので、角度がちょっと違うだけで違って見えてくるので、1つ1つの場所によって修正が必要になる場合もある。 |
各ブロックごとに撮影が終わったら、1つづつ丁寧に、元のキャップをして、入っていた箱やケースへと収納していく。当たり前だが、商品の受け渡しは必ず両手で、声掛け確認しながらが鉄則。 |
今回の撮影機材はクライアント、そして製品がキヤノンだからというわけじゃなく、キヤノンだ(笑)。デジタルになって、仕事での撮影はキヤノンデジタル1Dsシリーズ。この日はEOS-1Ds Mark III。レンズはほとんどがシフトのTS-E 90mm F2.8。他に時々、TS-E 45mm F2.8だった。全てのカットを撮影終了したのは、日付が変わる頃。みなさんオツカレサンでした〜!! |
■教訓その1。助手時代、会社の先輩カメラマンから教わったこと
大学までやってきた絵画を専攻した後に、写真の仕事を始めたばかりのアシスタント時代の望月にとっては、目指していたアートの世界と、広告写真界という社会の中の世界の違いはあった。
「その頃はアート思考であり、自分もアーティストでありたいとも思っていた部分があったんです。若さゆえの傲慢さも含めてですね(笑)。会社の先輩に実家が写真館をやってらっしゃるカメラマンの人がいまして、その人から教わったことに“仕事は常にお客さんがいることを意識して”ということがあったんです。相手が望むもの、さらには望む以上のものを提供するのが当たり前だと。カメラマンとしてのプロというのはどういうものかを教わったと思うんです」
そして会社をやめて独立してからもその事は常に意識してやってきていると。
10代で美術系の事だけしか興味が無く、会社へ入るまでその好きな世界しか見ていなかった望月少年が望月青年へと変わった瞬間なのかもしれない。興味ないことには一切遮断してきたはずの彼もスポーツ新聞を読むようになった(笑)。それは、世間を知り、世間に混ざり関わるということでもある。スポーツ紙というのは例えばの例だが、この国の通俗的な内容をもっとも包括しているモノの一つという点ではわかりやすい。広告写真家はアーティストではない。アート写真を作るのが目的ではない。結果としてアートになり得る場合はあるが、アートを生み出すための写真ではない。あくまでも世間(社会)や企業というクライアントのニーズがあってこそ成り立つ職業である。そこの部分を勘違いしていてはいけない。
この日の撮影はこれまで某大学で音楽を教えていた杉木峯夫先生のトランペットコンサートのポスター撮影に同行させてもらった。同じくこの大学出身である松下計さんがアートディレクター。何も無い広い空間に運び込まれた撮影機材が着々と組み立てられていき、30分ほどでだいたいのスタジオセットになった。 |
大まかな準備が出来た頃、トランペット抱えて登場された杉木先生。松下さんの事務所で作られたカンプを元に望月氏と撮影の段取りを説明。 |
通りの説明と準備が終わったら、早速スタジオセットのペーパーホリゾントに立ってもらい、テスト撮影からスタート。カンプに忠実なカットから撮影していき、少しづつ変化を付けていく。背景のグリーンの色味を調整するのには、ストロボヘッドへグリーンフィルターを掛けてPCで確認していく。 |
撮影の合間に、トランペットの基礎講座。なんだかマウスピースの話しで盛り上がってるようです(笑) |
ライティングの微調整が完璧になり、途中いくつかポーズを変えて撮っていき、1時間ほどで撮影は無事終了。望月事務所御用達フォルクスワーゲンのバンは、同じシリーズで3代目になるというT3バナゴン・カラット1991年式。ロングタイプのサベージやセットペーパーも余裕で積める。 |
■教訓その2。旅から戻って変化したこと
「旅先のいろんな場面で撮影していると、限界まで撮影していくことの楽しさみたいなものを感じるようになりましたね。それまでは事前に頭で考えていたんですが、いつでもカメラを持ち歩くことによって、目の前に現れた現象を咄嗟の場面でも切り取っていくというか……。スタジオワークだとライティングなども含めて8割は頭の中にでき上がっていて、残りを完成させていくわけですが、旅先では出会い頭に“とりあえずシャッターを切る”みたいなことも身についてきましたね」
「そういうスタイルができるようになったことで、数カ月とか数年という時間をかけてドキュメントなどで長いスパンで取り組む仕事をこなせるようになってきたこと。コレは自分にとって大きな変化だと思います。2002年に出版された『YOKOHAMA JAPAN cross culture』という写真集の仕事があったんですが、これは横浜市のドキュメントをずっと撮影したものですし、2005年にマガジンハウスから出た『100m 末續慎吾』という本の制作もいい経験になりました。
■“速い男を撮ってみたくない?”
ターニングポイントなった、前述の「100m 末續慎吾」という仕事について、語ってもらった。
「昔からの友人にテレビ関係者の女性がいまして、その彼女が陸上と深く関わっていて、ある日、市ヶ谷の喫茶店に呼び出されて紹介されたのが日本陸上競技連盟の髙野進さんだったんです。それが、当時注目され始めていた陸上アスリートの末續慎吾の話しだったんです。最初からスポンサーがいての話しではなかったんですが、喫茶店でいろんな話しをするうちに髙野さんに気に入られ、『よし、やろう』って、早速撮影するというカタチになっていったんです(笑)。練習風景だけじゃなく、大会での実際の競技も撮影しました。本格的なスポーツ撮影というのはそれまで門外漢だから、大会の主催者に撮影申請をしたり、慣れないこともたくさんありました(笑) 約2年間、国内だけじゃなく、イギリスやクロアチア、そしてギリシャのアテネといろんな場面を追っかけていきました。最終的にはマガジンハウスのTarzan別冊ということで、まとめることが出来ましたのでいろんな意味で良い経験になりました」
「末續さんの撮影の頃は、ちょうど私のフィルムからデジタルへの移行期でカメラも35mmはデジタルEOS-1Dsですが、中判、4×5や8×10を持ち出して、しかもフィルムで撮ったりとか、他のスポーツカメラマンがやりそうもないだろうという、いろんな撮り方を模索してました。 時には速写性に有利な、1D系を借りて連写したり。レンズはデジタルでは、ほとんど300mm 4 L IS か、70-200mm F2.8 L ISで撮ってました。理由は監督の高野さんと親しい関係だったので、スタジアムの中で被写体までの距離が近く、意外と動ける範囲が多く、大きな試合以外では300mm以上が必要ない場合が多かったからです。大きな大会での取材や、海外へ行く時は、300mm F2.8、400mm F2.8、600mm F4などをレンタルして持って行ってました。特に最後のメインイベントだったアテネオリンピックでは600mm F4 L ISを持って行き、案の定スタジアムの中からの取材ができなかったので客席から600mmを手持ちで撮影しました」
Gマークで知られる、日本国内外の優れたデザインに贈られる「グッドデザイン賞」の受賞作品の撮影現場にお邪魔した。実はボクは高校生までグラフィックデザイン学科だったので、亀倉雄策さんが大好きで、こういう世界に憧れてた時期がありました。ちょっとドキドキです(笑)
財団法人日本産業デザイン振興会の主催で、毎年、その年の受賞作品とデザイナーなど受賞者を含むポートレートを撮影したものを印刷して、1冊の分厚いアニュアルにまとめる。受賞作品のブツ撮りはもちろんだが、ポートレートのカットも入るので、ブツとは別にポートレート撮影のチームも数人でかかっている。 |
全体の撮影および、フォトディレクションを望月氏は任されており、望月本人の他にもササキスタジオ時代の先輩や仲間とチームを組んで、撮影を進行させていく。このブックデザイン全体のアートディレクションは前述の松下計さんのデザイン事務所であるが、松下さん御自身もグッドデザイン賞の審査員のひとりでもあるので、内容には余計シビアだろうと思う。松下氏と望月氏はいろいろな仕事で協力している。 |
ササキスタジオ時代からの先輩、本田勝さんとは長い付き合い。本田さんはニコンD700に超シャープなマクロレンズのPC-E MICROニッコール85mm F2.8 Dを多用。こちらは望月チームとはまたひと味違うアプローチで、淡々と進んでいた。 |
3フロアあるスタジオを全館借り切っての連日の商品撮影。取材させてもらったこの日、ボクは夜8時から別件の取材があったので、途中でおいとましたが、スタジオでは撮影は遅くまで続いていたらしいし、膨大な全カット数を撮影する作業は、この後も数日間続いていったらしい。次年度版が楽しみだ。 |
■カメラ機材について。一番多く使用してる機材などを教えてください
「今のカメラはEOS-1Ds Mark IIIです。仕事では、ほとんどの撮影はこのボディーです。レンズはEF 70-200mm F2.8 L IS II、EF 24-70mm F2.8 L、EF 50mm F1.4開放近くで使うのが好き。商品撮影の場合は、どうしてもアオリが必要になってくるのでTS-Eの45mm、90mmを多用するかな?」
今回、いくつかの撮影現場を見せていただいて思ったんだけど、露出計を使う姿を一度も目にしなかったんですが、もしかしてボクと同じく、デジタル化以降、メーターは「もう使わない派」ですか?(笑)
「HARUKIさんもそうでしょうけど デジタル化で露出計を使わないというより、スタジオでも外でも経験上、何となくのレベルで、露出やストロボの出力が想像できるようになってるからです。ただしカラーメーターは使いますけどね。本当はアシスタントを育てるためには 一灯一灯ちゃんと計って光のバランスを体験させた方がいいんですけどね(笑)」
キヤノンEOS-1Ds Mark III。そしてLレンズラインナップ。エクステンダーやクリップオンストロボ類。そしてワイヤレストランスミッターなど。 | スタジオ用のストロボシステムは、すべてCOMET製品の同じシリーズで統一。ヘッド(発光部)はもちろん、ケーブル、ジャック、リフレクターなども全て共用できる。そしてモノブロックもCOMETのツインクルシリーズ |
今は使わなくなった中型カメラ、大型カメラ。8×10、4×5のシステム。ジナー、リンホフ、エボニーなど往年の名機たち。レンズ類はフジノンのシリーズ。 | マミヤRZ67シリーズと、レンズシステム。マミヤ7と7II。そしてローライフレックス2.8GX。 |
望月事務所で見つけた、“ほとんどの人にとっては無用の長物だが、望月孝のようなタイプのカメラマンにはあると超便利なグッズを、売ってないので自分で作ってみましたセット”。その名も「ドーリー・ファンク・ジュニア」(笑)。
箱の蓋を開けると、そこには組み立て式のドーリー(動画撮影などでカメラを固定して、スムースな動きをしながら撮影するための装置)が、専用工具とともに入っていたのだった。すべて設計図から部品一つ一つに至るまで、探してきて手を加えて創り上げたオリジナルらしい。
順を追って、親切丁寧にいろいろ説明してくれたのだが、さっぱりわからないので望月くん本人がプロモーション用に撮影した写真をお借りしてきた。この2枚で理解していただきたい。すべてはネーミングの「ドーリー・ファンク・ジュニア」と、大学で油絵を専攻していただけあって、この箱の絵の勝利といえよう(笑)。(c) Takashi Mochizuki |
■「被写体のジャンル、越えたい」
“人物、ブツ、風景、etcといろいろある中で、モッチーが一番好きな被写体のジャンルって何?” という稚拙な質問をわざとしたら、モッチーは、「んーん」と2秒考えて、云った。
「この被写体が好き、というのは正直無いんだよね。写真は写真、だから、ノンジャンルにしたいんです」
「被写体に寄り添うと、写真を狭めてしまうので、自分で絞らないで、むしろ何でも撮れるようになりたい」
この言葉、予想していた通りでうれしい。写真を始めたばかりの学生が云ってるんじゃない。美術というものをちゃんと勉強し、老舗写真制作会社で修業し、独立してから10年以上、日本の広告写真業界の中核を担う仕事をやり続けてきた男が云ってる。うれしい言葉だ。みんな写真が好きで好きで大好きでやっているハズなのに、長年やってると慣れてしまい、つい格好つけたり、あるいは照れたり、とにかく本音を云わない人間が多い。日本人の悪いクセだ。
望月孝は間違いなく、商品写真、モデル撮影、風景、そしてドキュメントと完全にノンジャンルフォトグラファーへと近づいている。
■恒例なので、好きな写真家を教えてください
「ずばり、アーヴィング・ペンさんです(笑)」
ま、そうですよね、誰もが好きですよね(笑)。で、そのペンさんとの出会い。具体的にどういう所かを教えてください。
「“PASSAGE”という写真集。出会いはササキスタジオ時代ですね、ペンさんに会ったことはないんですが(笑)。会社に図書館というか書庫がありまして、そこに歴代の様々な写真集とかがあったんですよ」
後ろで縛っていた髪の毛を解いてモジャモジャさせながら熱く語ってくれ、とても長いので短く要約すると、
「たくさんの写真集を見た中で、PENNのスチルライフには“スッゲー!”って圧倒された」
以来、初期の望月作品はPENNに似てる部分で、どうしても揶揄されることも多くあった。PENNの写真に触発された彼が撮影する時、どうしてもPENNの方法論を読み込もうとすると例えば白の表現は? 透明の表現は? って突き詰めれば、突き詰めるほど、どんどんと似ていってしまう。
だけどアウトプットしたものは自分自身の写真だ。おそらく誰もやったことのない表現方法や写真スタイルというのは、ほぼ無いんじゃないかな。誰だって誰かの作品を見て、影響を受けてたり、あるいは同じような表現方法を用いる事の方がほとんどだろう。だからボクはそれらは完全に望月作品であるのだと思う。何の疑いさえもない。
「あとは、少し前に土門拳賞を受賞された鈴木龍一郎さん、それから現代美術で写真をされてる山本糾(ただす)さんという方。大学時代に知り合いになったんですが、このお2人は今でも心の師匠ですね。もしかしたらPENNよりも大きな影響を受けてるかもしれないです」
■LEICAの謎が解けた
モッチーはいつも持ち歩いてるライカのデジタルカメラで何気ない街の風景を切り取っては、作品にしてしまう。酔っぱらっている時でもカメラを持ち歩いてる。数年前、夜10時くらいから、朝、サラリーマンたちの通勤時間が始まるまで恵比寿の駅前のBALで2人で写真論を語りながら飲んだことがある。ボクは元々カメラを持ち歩く派だけど、モッチーもずっと首からLEICAをぶら下げて、時折シャッターを切って、そしてまた飲んでは語るというロングハードドリンカーだったのが印象的だった。
ボクが好きになる写真家のほとんどはカメラ小僧だ。ココで云うカメラ小僧ってカメラが好きって意味じゃなく、写真が好きだからカメラを持ち歩いている人のこと。仕事じゃなくても、たいていはカメラを持ち歩き、何か気になったらすぐにシャッターを切る。そんな人こそ写真家として信用できるというのが、ボクの時論のひとつなのだが望月くんもど真ん中な人物。モッチーはLEICAにはレンズは28mmしか使わない。仕事ではEOSを使っている。超望遠以外、ほとんどのレンズが揃っている。撮影内容に合わせてはレンズ交換をするのが当たり前だ。どんなものでも撮れる。アプローチすれば撮れないものはないだろう。だけどそれ以外の絵(写真)を撮りたいから、LEICAを持ち歩いてる。単焦点レンズ1本だから、被写体によっては前へ出たり、退いたりしなければいけない。画角も距離感もすべてわかってるからこそ、あるいは諦めなければいけない場合だってある。だからこそ、その不自由さが大切で面白い。
「目の前にある、見慣れているものを違う価値観に置き換えることが出来る能力が重要であって、それを支えるものが技術」だと彼は云う。LEICAが好きな人は多いけど、所有するのが好きだったり、持ち歩いてることで満足してる人ばかり。写真とってる人は数少ない気がする。ボクたち写真家にとってカメラは、その能力や技術を発揮するために、いつも一緒にいなきゃいけない魔法の機械なんだと思う。そして撮らなきゃ始まらない。
これからもノンジャンルにて、オリジナルのモッチーワールドを世間のフニャフニャした奴らの瞼の奥へと叩き込んでやってください。ボクは望月孝がカメラという表現装置を使って描き出す、美しい毒の花が好きです。
(文中、敬称略)
取材協力:今回の取材撮影使用機材:- ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL
- キヤノンEOS 7D、EF 50mm F1.4、EF 85mm F1.8 USM、EF 16-35mm F2.8 L II、EF-S 10-22mm F3.5-4.5 USM
- ニコンD7000、AF-S NIKKOR 50mm F1.4 G 、AF-S NIKKOR 16-35mm F4 G ED VR、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR、シグマ8-16mm F4.5-5.6 DC HSM
- サンディスクExtreme Pro SDHC、Extreme Ⅳ CF
2012/2/6 00:00