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ライカ社主のカウフマン氏は、なぜ箱根を訪れたのか?
日本にライカを広めたパウル・シュミット氏の足跡を辿る
2025年11月29日 09:00
10月18日(土)に東京・青山のスパイラルガーデンで開幕した「ライカの100年:世界を目撃し続けた1世紀」は、26日(日)に終了。事前予約制のイベントで、土日のみならず平日も予約満員となる人気ぶりだった。
そんなイベント期間中、来日していたライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏とその家族、そして関係者は東京からバスに乗り、箱根を訪れた。といっても目的は紅葉見物ではない。パウル・シュミット氏の顕彰碑だ。
ライカを日本に広めた「シュミット商店」
パウル・シュミット氏(1872〜1935年)はシュミット商店を1896年に創業。アジア全体におけるエルンスト・ライツ製品の販売権を手に入れ、1905年から日本、1911年には香港にも会社を立ち上げた。本拠地は東京と香港だった。中国にも16のディーラーがあり、1935年にその中国で自動車の衝突事故により亡くなった。シュミット氏はライカなどの海外製カメラの輸入を通じ、日本の写真技術向上に貢献した陰の功労者とも言われている。
シュミット商店が初めて日本でライカを扱ったのは1925年。同年に発売された「ライカI」のNo.337で、東京に輸入したという。ライカIは1924年11月に製造されたNo.126から1台ずつ連番が振られている。
そんなパウル・シュミット氏の顕彰碑があるのは箱根の芦ノ湖畔。箱根海賊船 箱根町港と箱根駅伝ミュージアムが目印だ。顕彰碑は没後すぐの1936年に作られ、後に現在の場所に移設されている。
何を隠そう、カウフマン氏がこの顕彰碑の存在を知ったのは全くの偶然だったそうだ。10年ほど前に初めて箱根を訪れた際に、芦ノ湖畔で船を待ちながら散歩していた。するとドイツ語の文字で、いかにもドイツ人という名前の碑を見つけた。
調べてみるとライカにとても縁の深い人物だと判明。箱根町の観光庁と協力して、その功績を伝えるプレートなどの環境整備を行った。しかしコロナ禍もあり完成状態をなかなか見に来られず、ようやくライカ100周年の今年にタイミングが巡ってきたというわけだ。
箱根を愛し、箱根の人々に愛されたパウル・シュミット氏
ではなぜ、箱根なのか。箱根は、初めて外国人に対して別荘の販売が許された場所なのだそうだ。その1人目となったのが他ならぬパウル・シュミット氏であり、彼の別荘というのが現在の箱根駅伝ミュージアムの場所。1986年からは2005年までは「シュミット・ハウス」というレストランとして営業していた。
パウル・シュミット氏は日本語堪能で、“天皇陛下と同様にリテラシーの高い日本語だった”とも言われているそうだ。日本とドイツの経済関係にも寄与し、ドイツ大使に日本の状況を踏まえたアドバイスを送ったこともあったという。長く暮らした箱根では恵まれない人々に匿名で金品を贈るなど、その優しい人柄が箱根の人々からも大変親しまれたと記録されている。箱根の人々と歓談している写真も多く残っている。
シュミット商店からライカカメラジャパンまで
カウフマン氏が10年ほど前に偶然見つけ、筆者も今回初めて訪れたパウル・シュミットの顕彰碑。しかし2002年に刊行された月刊写真工業の別冊「世界のライカレンズ Part2」では、「ライカ育ての親『パウル・シュミット』の大研究」として17ページにわたり特集されていた。話題もシュミット氏と近隣の人々との交流、シュミット商店の人々との関係、記念碑(今回訪ねた顕彰碑)の建立・移設など多岐に渡る。
今回のツアーには、当時の写真工業編集長であった市川泰憲氏(日本カメラ博物館 運営委員)も同行。カウフマン・ファミリーや箱根町の関係者も集まる中、当時の取材内容に加え、市川氏が運営委員を務める日本カメラ博物館の蔵書から、“降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ”のキャッチコピーで知られる冊子など、シュミット商店のカタログについても紹介した。これらは青山のスパイラルガーデンで開催されたライカ100周年イベントにも展示されていた。
シュミット商店は第二次世界大戦後にGHQの指示で解散させられ、1950年に元社員の井上鍾氏が社長となる別会社「株式会社シュミット」が誕生。ライカの販売権を得る。そして1981年にライカの代理店権利は日本シイベルヘグナーに移管され、2005年からはライカカメラジャパン株式会社が現地法人としてライカ製品を取り扱っている。













