写真展レポート
「瞬間を撃て」に込めた想い――水谷章人氏が切り拓いたスポーツ写真の世界
2025年8月27日 07:00
キヤノンギャラリー S で、スポーツ写真のパイオニアである水谷章人氏のスポーツ報道写真展「瞬間を撃て ー60年の軌跡ー」が開催中だ。プリント・スライド共に100点を超える構成で、日本スポーツ写真界の巨匠の軌跡を辿る。60年間の膨大なアーカイブから厳選された作品群が展示されている。
「60年前、日本にいわゆる"スポーツ写真"というものはなかった」
会場で水谷氏はそう振り返った。記録写真が主流だった時代に、スポーツにアートを求める道なき道を歩み続けた男の軌跡。それは日本スポーツ写真史そのものと言えるだろう。
山岳からスキー、そして運命の転換点
水谷氏のスポーツ写真家としてのスタートは、意外にも偶然の産物だった。「俺は山岳写真家でありながら、スキーを撮り出してスキーの世界の第一人者って言われるようになっちゃった」と笑う。
長野県出身でありながらスキーができなかった水谷氏。撮影でスキー学校を訪れた際、オリンピック選手だった杉山進氏と出会い、3年間スキー学校で生徒たちを撮影しながらスキーを学んだ。「当時はスキー写真家なんかいなかったし、山岳写真家がスキーを撮ってた」時代。その延長線上で、自然とスポーツ写真の世界に足を踏み入れることになった。
「アップの水谷」誕生——モノクロで築いた独自の世界
水谷氏の作風の代名詞となった「アップの水谷」。その原点は、すべてモノクロ作品にある。「俺の写真の歴史は、雑誌でカラーは仕事、モノクロは作品」と明確に使い分けていた。
2000年頃まで作品はモノクロで撮り続けた水谷氏。「写真を人に真似されたくない。フリーランスなんだから、そういうのを最大限に生かして、水谷タッチの写真を作り上げた」。背景を極限まで整理し、被写体だけを浮かび上がらせる独特の表現は、当時革新的だったと話す。
水谷氏の作品に一貫して現れるのは、「真剣勝負の中に生まれる迫力、力強さと泥臭さ、そして、美しさ」だ。
特に印象的なのは撮影スタイルだ。「計算はしない。その瞬間の『今』っていう直感で撮る」。デザインの勉強は一切してこなかったという水谷氏だが、「なんでこんな造形的な写真が生まれるんですかってよく聞かれるんだけども、計算しているわけでもなんにもない。撮れちゃうんだよ」と語った。
現在も、水谷氏は「撮ったまま」にこだわり続けている。
加工ソフトを使えば、表現の幅は広がるが、水谷氏の写真が持つ独特の空気感や質感は、「いじらない」哲学から生まれている。この撮影時の一発勝負へのこだわりは、技術的な評価にも表れている。「昔から色んな人に言われた。『ピントがいいね』って。新聞社の人に『なんで水谷さんが撮る写真はこんなにピントがいいの』って言われた」という。
運を引き寄せる力——60年が培った直感
60年の経験が生み出す直感の鋭さ。しかし、その独特の造形感覚や瞬間を捉える能力について問われると、水谷氏は謙遜する。「技術だけじゃない、やっぱり運も必要」。
撮影において運は決定的な要素だという。「撮影ポジションが悪かったら撮れない。でも運をこう、引き込む、そういうオーラがあるんじゃないか」。長年の現場経験が、良いポジションを見つける嗅覚や、決定的瞬間を予感する能力を磨いてきた。
「写真1枚だって運が必要。ポジションが悪かったら、1回撮ったって良い写真は撮れない」。しかし、それは単なる偶然ではない。「生きてく中でも、運を呼び込めるってのは、写真だけじゃなくて人生全体にある」。
60年のキャリアが培った「運を呼び込む力」。それは技術や経験と相まって、誰にも真似できない一瞬を切り取る原動力となっている。
選手とは親しくならない——プロとしての距離感
長年の取材で数え切れないアスリートと出会ってきた水谷氏だが、「俺は選手とは親しくならない。これだけやって、こんな世界にいて、親しい人っていないんだよ」と話す。
その理由は、スポーツ界の現実にある。「こういう人たちは競技生活に限りがある。現役時代は輝いているが、引退後は別の道を歩む。俺みたいな立場の人は、輝いている時に近づくことが多い。でも去った後も付き合うか? そうはいかない。その後の変化を見るのが辛いんで、あくまでも被写体として俺は見てる」。
「数え切れないほどのアスリートたちと向き合い、その感情の機微までも写す」水谷氏の一瞬への執着は、この距離感があってこそ生まれるものだ。「だから選手が嫌がるようなシーンも、俺は堂々と撮る」と話す。
しかし、80歳を超えた写真家には1つの後悔があると話す。「60年やってきて、1つだけ後悔してることがある。人間の喜怒哀楽──喜び、悲しみ、愛といったものがなかなか撮れなかった」。その理由を「オリンピックや世界選手権などの決勝戦に行かないと撮れる機会が極端に少ない。そうした感動的な場面は」と分析する。技術や構図にこだわり続けてきた水谷氏だからこその、率直な反省だ。
60周年5つの展示——集大成から未来へ
今回の写真展をはじめ、全部で5つの異なる展示が予定されている。
第2弾は「ヒーロー」と題し、世界のスーパースター88人を展示。第3弾は写真集の写真展。第4弾は故郷の飯田市美術館で「水谷ワールド」として、スポーツ、スキー、自然、山の3つの世界を1ヶ月間にわたって展示。そして最後には都内で「未来に向けての写真」を展示する。
「内容は全部違う。最後の展示は、俺がプロデュースして、未来に向けての写真を展示しようと思う。思考写真の可能性みたいなもの。それで60周年の記念事業は終わりにしようと思う」。
写真展が映す歴史
80歳を超えた今も、水谷氏は撮影を続けている。「死ぬまで撮ってるよ」と言いながらも、現実的な視点も持つ。「俺が写真を撮る場合は、気力、体力、集中力、この3つのうち1つがかけても満足いく作品は生まれない。今、体力がちょっと落ちてるから、完全なものは撮れない」。
それでも好きなボクシング、フィギュアスケートの撮影は続ける。会場では他の写真家から「何しに来たの」と言われることもあるが、「俺も好きだから来てんだよ」と飄々としているという。
現在の写真展について、水谷氏は来場者にこう期待する。「60年間撮った写真家の歴史を、写真を通しての歴史を感じていただければいい。多分これだけのものを撮れる人、今後出てこない。フリーランスで、これだけの種類、ジャンルを撮り続けることももうない」。
そして若い写真家へのメッセージ。「自分の感性を大事にして、自分のタッチ、自分みたいなものを生み出してほしい。水谷に近くなる、それで水谷を超えてくる」。
写真家人生60年の軌跡。それは単にスポーツの歴史を物語るものではなく、スポーツが魅せる一瞬にこだわり、新たな表現に挑み続けてきた証だ。60年前、誰も歩いていなかった道を切り拓いた男の軌跡。それは単なる個人史を超えて、日本スポーツ写真史の生きた証言となっている。「最初で最後」の写真展が映し出すのは、1人の写真家の人生と、日本のスポーツ写真が歩んできた歴史そのものなのだ。
開催概要
日程
2025年8月18日(月)〜9月29日(月)
日時
10時00分〜17時30分
休館日
日曜日・祝日
会場
キヤノンギャラリー S
トークイベント
- 日時:2025年8月30日(土)14時00分〜15時30分
- 会場:キヤノンホール S
- 登壇者:水谷章人氏/水谷たかひと氏/築田純氏/小橋城氏/田中伸弥氏
- 参加費:無料
- 定員:200名(先着申込順)