山岸伸の「写真のキモチ」

第21回:グラビアアイドル写真集の確立

僕の写真が「商業写真」へと大きく展開していった頃

400冊以上の写真集を撮り続けてきている山岸さんですが、イエローキャブ・野田社長とタッグを組んで世に出した写真集は47冊もあります。堀江しのぶさんが最初に撮影したタレントさん。そしてグラビア写真集というカテゴリーを確立してくれたと印象に強く残っているのが、かとうれいこさんとのこと。今回はこのお二人の写真集の話をしていただきます。(聞き手・文:rinco)

「イエローキャブ」という会社と初めて仕事をしたのが、堀江しのぶさん

イエローキャブの野田社長から電話をいただいたんです。堀江しのぶさんの写真集を撮ってほしいとの依頼でした。野田社長はいつも色々な雑誌をよく見ていて、そういうところから出てきたカメラマンに直接声をかけて、自分のところのタレントさんの撮影依頼をすることも多かったようです。僕とは面識があったわけではないのですが、たぶん安田成美さんを撮ったグラビアがあちこちに出るようになって、それを見て声をかけてくれたのだと思います。なので、イエローキャブという会社と初めて仕事をしたのが、堀江しのぶさんでした。

堀江しのぶさんは内に秘めたものがあったと思うんですが……すごく物静かな人、多くは喋らない人。そんなに僕とはまだお付き合いが長いわけでもないですし、撮影に行ったハワイへの行きも帰りも一緒に行動はしていなかったと思います。撮影に行ったのは確かお正月で、しのぶちゃんは家族とハワイに来ていたと思うんですよね。記憶が定かではないのですが……。タレントさんはお正月はハワイに行くことが多いです。特に野田さんはそのタレントさんの家族を招待するようなカタチで、海外旅行をしながら仕事を1本入れる、そういうことが多かった様に覚えてます。

最初の依頼がこの写真集だったんです。1987年に発行された写真集で、僕が37歳の時の撮影。まだ30代でした。

写真集「Reborn」(音楽専科社)より

これを機にロケが急激に増えた

ハワイで2泊くらいの日程で撮影しました。だから遠くには行ってません。全てワイキキ界隈で撮ってました。今でもあると思いますが、ダイヤモンドヘッドの下辺りにあるそのハウスは、本当にいいところでした。僕も若かったしお喋りでしたから、そこそこ社交的なところもありましたが、しのぶちゃんとははしゃいだ感じはなかったですね。

それと僕が最初の写真集を撮影していた頃には、しのぶちゃんはもう他の人が撮った写真集を出していたと思う。そんな、気がします。この後、堀江しのぶさんの写真を気に入ってもらい、野田社長から一気に仕事をもらうようになったんです。そして、これを機にロケも急激に多くなりました。

写真集「しのぶあい」(近代映画社)より

グラビア写真を撮るのに、売れる人の撮影はロケ地をハワイに選ぶことが多いんですよね。僕もハワイはよく行きました。ハワイといえばしっかりとしたコーディネーターが何名かいて、その人に頼んでおけば、あとはハウスコーディネーターから何件かの家を見せてもらってね。ここで撮ろう! とロケハン時に決めてしまえば、そこにいる限り安心安全ということです。

決して乱暴に公園や思いつきな場所では撮らなかったです。全てに許可を取ってくれているので、どんなところでも撮影できたけど無理はしなかったです。コマーシャルも随分ハワイでは撮影しました。それも地元の警官やパトカーが出るくらい、警備も怠らないくらいの環境で撮影してました。

写真集「穏やかな時」(スコラ)より

シンガポールロケの思い出

2冊目はシンガポールで撮影しました。当時、なぜシンガポールへ行ったかというと、その前に安田成美さんのカレンダーを撮影しに行って、シンガポールはとても写真が撮りやすいところだと感じていたからです。とても異国情緒があり、おおらかな街です。

写真集「Reborn」(音楽専科社)より

ただ、ビーチがあるわけではありません。セントーサ島に行けばあるのですが、そこも全て人工ですし綺麗な砂浜も限られてます。その時の安田成美さんの撮影はラッフルズホテルで撮影しました。自分もそのホテルに泊まったりして。当時はきちんと予算もあってそういう撮影ができたんですよね。シンガポールそのものが全て緑地化されていて全部が公園みたいなところです。今はどうなっているのか分かりませんが……。

それと現地のコーディネーターのブレア・ミチコさんという方と知り合いとても波長が合ったのも理由の一つです。この撮影の後、何十回行ったかわかりません。東日本大震災の時にシンガポールロケの予定があったのですがキャンセルになり、それ以降行っていないですね。当時お世話になったミチコさんもお元気でいらっしゃるだろうかと思い出します。彼女は清く正しい人でした。グラビアの仕事は全く知らない人でしたが、確かホテル向けの雑誌を作っている方でした。彼女が色々なことを交渉してくれて、全て撮影がスムーズに運べて有り難かったです。

写真集「穏やかな時」(スコラ)より

しのぶちゃんはこの時、お腹が痛いと言って食事も来なかったんですよね。この撮影の半年後くらいに亡くなったので……今考えるとあの時期にはもう体調が良くなかったのかなと思います。この時も淡々と撮影してましたね。大人数? 大人数でしたよ。ヘアメイク、スタイリストはもちろん、僕のアシスタントも2人いましたし。僕は自分のギャラが安くなってもアシスタントを海外ロケに連れて行ってました。彼らの勉強になるからね。

最後はオムニバスで作ったこの写真集。堀江しのぶちゃんが亡くなってから、今まで撮った写真のアザーカットでこの写真集ができました。2002年発行です。これがきっかけで僕がグラビアアイドルを撮っていくようになりました。

写真集「Reborn」(音楽専科社)

写真集はプレゼンテーションの場

野田さんのところでは堀江しのぶさんを含め、47冊も写真集を作らせてもらいました。僕の写真集400冊くらいの中の大体1割は野田さんのところのものです。

写真集は、グラビアアイドルからタレントになっていく一つのプレゼンテーションの場。それが出ることによって雑誌にも出てくるし、名前も売れていく。僕だけが撮っているわけではなく、当時は彼女の写真集は何冊も出ていると思いますし、他にたくさんのカメラマンが撮影をしていました。そういう意味では、プロモーションとして写真集を作るのは野田さんの戦略でもあったのかな、とも思います。

野田さんは「明るい表情の写真は山岸さんに撮ってもらって、大人っぽい表情の写真は野村誠一さんに撮ってもらえばいいよ」なんてよく言ってました(笑)。「暗い表情は撮らなくていいよ、他に暗い表情上手い人いるから」と。だから、僕は太陽の下で撮るというか、ね。

そう言った意味で、僕は写真を作品にはしていません。この辺から僕の写真が商業写真へと大きく展開していったと思うんです。

撮影して、そのフィルムを出版社に渡す、カメラマンはそこまでです。その後は、出版社とプロダクションが決めてゆきます。今みたいに、「こんな感じで……」というようなレイアウトやページ割りなどは持ってきてもらえなかったです。その仕事を納品したら、自分が気に入ろうが気に入らなかろうが、もうそれまで。任せるしかなかった。新人のカメラマンはそこまで口を出せなかったですし、相当有名な方や細かく写真にこだわる方は違うんでしょうがね。

僕はとにかく、言われたものを撮って、それを納品して出版されたものをもらう。その後、その子達がどんどん売れてゆくと、また仕事になってゆく。しのぶさんは、そのいい例です。

今こうやって、堀江しのぶさんを語らないとしのぶさん自身も世間から忘れられてしまうと思うんです。でも写真がこうして残っていることで、僕にとってのひとつの仕事の思い出として話すことができるんです。

写真集「しのぶあい」(近代映画社)より

「いい子見つけたからさ、撮ってよ!」

一瞬、落ち込んでいた野田さんの元に、かとうれいこさんが現れたんだ。実は当時六本木のアートセンターで撮影していたときに、野田社長から突然電話がかかってきたんです。

当時は携帯電話がなかったと思うんですよ……。どうやって電話が掛かってきたのかはもう覚えていないんですが、「今からちょっと1人連れていくから撮ってよ」と野田さんが言うんです。「いや、撮影中ですよ、今」って言ったら、野田さんが「終わってからでいいから」って言うの。

そして連れてきたのが、かとうれいこさんでした。そこで初めて彼女を撮ったんです。彼女もこの本にも「いきなり連れてこられた」と書いてますよね。

写真集「風のまにまに」(主婦と生活社)より

写真集のブームが始まる

かとうれいこさんの写真集は4冊撮らせてもらいました。最初の写真集が平成元年発行です。彼女がデビューして初の写真集でした。1990年のクラリオンガールになってデビューして、もう人気がありました。このくらいから写真集のブームが始まったんです。各社が物凄い数の写真集を出すようになった気がします。もちろん、かとうれいこさんも他のカメラマンに写真集をいっぱい撮られていました。

撮影地はバリ島です。水着といえば太陽の下で撮るのが当たり前のことですが、それでも太陽の光が眩しくて目が開かなかったり、色々問題が出てくるので、そんな状況の中で何時間も撮るということはしないようにしてました。水着以外で他には、スタジオ撮影やモノクロで見せているページもあります。

山岸さん撮影のかとうれいこさん写真集

2冊目はシンガポールでした。1冊目、2冊目ともに1990年の発行。この頃は1年に何冊も写真集を出すことができてました。この辺から写真集の走りがあって、その後、確立した感じです。印税(著作権料)も頂けるようになりましたし、これもすごく売れた写真集でした。

3冊目はサイパンがメインなんですが、れいこちゃんが忙しくて、他で撮った写真も入った写真集なんです。まぁ、売れたよね、彼女は。本当にここから写真集がガッ! っと勢いづいたと思います。

そういった意味では、かとうれいこさんはグラビア写真集を押し上げてくれたんです。このときに飯島直子さんやほかにたくさんの人も出てくるようになって、かとうれいこさんを撮っているから皆んな僕に依頼をくれるようになったと思う。ここから、僕も勢いが付いていったと思います。

写真集「風のまにまに」(主婦と生活社)より

最後の4冊目はスタイルブックみたいな、他とはちょっと違う写真集でした。彼女は歌も歌っていたから、ここではライブのシーンもあります。香港で撮影したんだよな。そう、僕との対談シーンがあったりね。

「山岸さんの優しさの中にある厳しさ、尊敬します」。写真集「風のまにまに」(主婦と生活社)の対談より抜粋

「変な言い方かもしれないけど、わたしが体調を崩しているときでも、山岸さんとのお仕事だと、なんとしても頑張らなきゃ、と思うんですよ」、「山岸さんにはファミリー的な感じがしますし、いつまでもわたしを見ていてもらいたいひとりですね」。写真集「風のまにまに」(主婦と生活社)の対談より抜粋

最初は水着での仕事をこなしてもらって、その後ある程度名前が売れてきたら本人がやりたい方向へ仕事を進めるというのが野田さんの戦略だったと思います。なので、かとうれいこさんもだんだんと売れてきて、本人が歌を歌いたいというのでそういう方向へ進んでいったんです。何枚かCDを出してると思います。僕もCDジャケットを撮らせてもらいました。コンサートもたくさん入っていましたね。

結婚式には出席させてもらいましたが、その後も活動は続けられていました。3年くらい前かな、プロフィール写真を撮りに私のスタジオに来てくれた時も元気でね。いいお母さんになって、タレントさんとしても頑張ってますよね。

短大生が野田さんにスカウトされて、いきなりクラリオンガールになって、水着のグラビアやって、何年間ものキャリアを積んで、地位をつくって歌を出したり自分のやりたいことを自分の思う様な方向へ行ったと。グラビアアイドルとして成功した一人です。

山岸さん撮影のシングルCDジャケット

山岸さん撮影のシングルCDジャケット

そう、海外ロケでビーチで撮っていた時に、彼女が体調を悪くして撮影にならなくなってしまい1日空いてもったいないと悩んだんです。ちょうどそのときに飯島直子さんも次に撮影するために現地に来てもらってました。かとうれいこさんの撮影が終わり、その後撮影するスケジュールでした。

ホテルに着いて待機していたので、「今日撮影しよう!」って急にお願いして撮影したことを思い出しますね。なおちゃんはメイクもヘアも自分でなんでもできる人で。例えば衣装として布一つ渡すとその布を上手く体に巻いてポージングできる人なんです。だからあの時、飯島直子さんがいてくれて本当に助かりました。

イエローキャブのタレント写真集(一部)

この後、細川ふみえさんや山田まりやさん、雛形あきこさんなど、すごい人たちが出てきて、イエローキャブのタレントさんだけで47冊もの写真集ができたんです。それだけ売れた時代だった。紙の写真集って今はよほど売れっ子でないとできないことですが、それを当時は3カ月に1回はできていたんです。驚異だよね、今考えると。でも出版社も売れるからそれで良かったんです。ある意味、写真だけで文字のない雑誌、くらいの勢いだったね。あの、堀江しのぶさんの1冊の写真集が、47冊に繋がったんだよね

まだまだ話したいことはたくさんあります。続きは、また。

(やまぎし しん) タレント、アイドル、俳優、女優などのポートレート撮影を中心に活躍。出版された写真集は400冊を超える。ここ10年ほどは、ばんえい競馬、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、球体関節人形などにも撮影対象を広げる。企業人、政治家、スポーツ選手などを捉えた『瞬間の顔』シリーズでは、15年をかけて総撮影人数1,000人を達成。また、近年は台湾の龍山寺や台湾賓館などを継続的に撮影している。公益社団法人日本写真家協会会員、公益社団法人日本広告写真家協会会員。