田村彰英(たむら あきひで)
プロフィール:1947年、東京生まれ。1968年、東京綜合写真専門学校研究科卒業。在学中よりデビュー、以来フリーランス写真家として活躍。1984年、日本写真家協会新人賞。1974年「NEW・JAPANESE・PHOTOGRAPHY」ニューヨーク近代美術館「家」出展、「15人の写真家」東京国立近代美術館「午後」「BASE」出展、1977年「NEUE・FOTOGARFIE・AUS・JAPAN」オストリー・グラーツ市立美術館「午後」「BASE」出展、1989年「11人の1965〜1975」山口県立美術館「家」「道」出展、1991年「日本の写真1970年代」東京都写真美術館「家」出展、1994年「田村彰英展」川崎市市民ミュージアム個展「家」「道」「BASE」「午後」「湾岸」出展、2004年「街が生まれる・仙川」東京アート・ミュージアム個展、2006年1月13日〜3月5日 東京国立近代美術館3F写真展示室にて作品「午後」展示、2007年6月19日〜8月12日 東京国立近代美術館2F近代日本の美術にて作品「家」展示、8月25日〜10月14日 東京都写真美術館にて作品「家」展示、9月4日〜10月27日 ギャラリーバウハウスにて個展「BASE」開催、6月30日〜2008年9月28日まで東京アートミュージアム「仙川・街が生まれる」安藤忠雄監修作品展示、2009年10月14日〜12月13日 東京国立近代美術館2F近代日本の美術にて作品「BASE」展示、2010年1月9日〜4月18日 東京アートミュージアム「銀塩」展にて作品「黄昏の光」展示ギャラリーハウスにて AFTER NOON「午後」個展、その他、個展、美術館展示など多数開催。2012年7月21日〜9月23日まで東京都写真美術館にて「田村彰英写真展・夢の光」開催中。写真集に『Tamura Photographs』1983年、『Akira Kurosawa』1991年、『Base』1992年、『Afternoon』2009年、『Light of Dreams』2012年。
田村彰英という名前と作品をハッキリと目にしたのはボクが大学生の頃だったろうか。写真雑誌だったのは間違いないのだが、カメラ毎日だったかアサヒカメラだったか日本カメラだったのかまでは覚えていない。いや、もしかしたらファッション雑誌だったのかも知れない。
ただ確実に云えるのは、思いっきり大胆な構図と、強いコントラストが創り出す陰影からなる、強烈な個性を発揮している写真だったということだけだ。妙な例えになってしまうが、学生時代の恩師でもあった植田正治先生のモダニズム度数をさらにパワフルにしたような写真がボクの瞼に飛び込んできたのは覚えている。
■写真との出会いは米軍基地がきっかけ
「我々はいわゆる団塊と言われてる世代の第1号くらいです。当時では珍しく僕は一人っ子です。この世代のほとんどはお父さんが戦争に行き、お母さんが待っていたという環境で、なんせ終戦後すぐですからドッと生まれちゃって(笑)。ちょっと下はもっとたくさん生まれてきたんで、小学校は教室が足んなくって二部制で授業をやってました」
「うちは世田谷の砧でNHKの社宅だったんですよ。NHKの放送技術研究所が近くにあって親父がそこに勤めていたもんだからね。戦争がなかったら本来は戦前にオリンピックの予定があって、現在の砧公園が近所にあったけどあすこが競技場になる予定だったらしいから。全世界へテレビ中継するための技術研究みたいのをやってたんで、戦前、テレビの前で記念写真撮ってるのが残ってたね」
「一般家庭ではまだまだ珍しい時代の小学校1年の時に、うちには親父の手作りテレビがあったもんだから近所の子供たちみんなが見にくるようになって、8畳一間の家ん中はもう大変でした(笑)。近くに映画会社もあったし、子供の頃から映像みたいなことに関わる環境がまわりにいっぱいあったんです」
「今じゃ高級住宅地だけど、あの頃はまだのんびりした郊外の田舎だったから、学校の帰り道にはトマトを取って食べたり、その辺の畑でイモを掘っては焚き火して焼き芋を食べたりしてては見つかって怒られたり、昭和20年代ってのはそんなのが当たり前の時代だったからねえ」
「昭和31年に親の転勤で大阪へ引っ越すことになって、好きな子とも離ればなれでイヤだなあ〜って(笑)。しかも住んだのは大阪じゃなく、兵庫県の尼崎だったんだけど、当時はガラが悪くってね。海岸沿いは阪神工業地帯だから、近所に爆弾の不発弾とかいっぱい埋まってて危険だったよなあ」
「1年経ったら奈良へ引っ越して、そこは近鉄が開発した帝塚山学園ってとこで、東急の田園調布を真似して作ったようなピッカピカの住宅都市でそこの小綺麗な家へ小学校6年で引っ越して中学3年まで楽しく過ごしてました」
「そしたらまた転勤になっちゃってコッチへ戻ったんだけど、中学3年の10月なんで入試が近いんだけど田舎と東京じゃ学力が全然違うんだもの、どうしようもなくってさあ。京浜工業地帯の武蔵小杉でまたガラが悪い所で、番長みたいなのがいっぱいいて、60人のクラスで学年に15クラスあるんですよ。高校へ進学する子もいたけど、近くの工場とか働き口がいっぱいあるんでそこへ就職する人も多かったねえ。近所で集団就職みたいな(笑)。そんで夜間クラスへ行かせてもらったりとか。高度経済成長のまっただ中で、働く若者は ”金の卵” なんて言われてた時代だねー。」
「不動前にある“攻玉社高校”っていうとこへ入ったんだけど学校へ行くのがイヤで趣味に走ってましたね。“航空ファン”や“航空情報”という雑誌を本屋で立ち読みしたり、たまに買って帰ったりして、キレイだなあーって眺めて過ごしてました」
「特に“航空情報”って本はアメリカから送られてくるカラー写真が豊富に掲載されてて、4×5で撮られててすごくきれいだったねえ。“4×5、エクタクローム”なんて写真の下にデータ情報が書いてあったね。本の後ろの方に記事が出てて、5月に基地公開があるっていうんで横田基地へ学生服着て行ったのさ(笑)」
飛行機好きの少年がきれいな写真に開眼した。
そして、基地に一歩入って思った。なんだココは〜! スゲーって。
「はじめて入った米軍基地。フェンスの中はまさに日本じゃないから、今まで見たことがない世界がそこにはあって、そりゃあもう感動しちゃってねえ(笑)。1年目に行った時には親父の持ってる“バロン”とかってブローニーの蛇腹カメラを持って行ったんだけど、2回目に行く時には親父にねだって自分用のカメラを買って貰ったんだ。それがペンタックスのSV」
「カメラを買う前に、アサヒカメラを読んでどのカメラにしようかってページをめくってると東松照明さんや奈良原一高さんの作品が載ってて、それを見て写真って面白いじゃん! って、写真そのものに開眼しちゃったわけですよ。東松さんは占領を撮ってるし、奈良原さんはモード写真の周辺とかってかっこいい作品を発表してて、それまで見てたカメラ雑誌にある富士山とかSLとは違って、写真表現って面白いなって。そんで3年生になって写真学校へ行きたいって親にいったんですが、反対されちゃって。武蔵小杉に住んでたんで日吉の学校が近くにあるから、自転車に乗って願書を取りに行って入っちゃった(笑)」
「学校入学したら、新卒は少なくて大学中退や脱サラが多くてみんな年上ばっかで煙草とかガンガン吸ってるのね。来るところを間違えちゃったかなあ? なんて最初は思って(笑)」
「学校は2年制で、頑張ればその後研究科でもう2年。俺が撮った写真を重森弘淹さんが褒めてくれたんだよ。自分の作ったものに対して、人前で褒められるなんて生まれて初めてだったからうれしくってさあ。それからはもう一生懸命に写真を撮っていたよねえ」
「その横須賀や基地周辺の写真を銀座のフジフォトサロンでやった卒展に8×10のプリントでマルチっぽく並べて展示したら、それを見た有名なアートディレクターの堀内誠一さんがカメラ毎日に “良い写真だ”って、褒めて書いてくれたのを読んでその気になっちゃって(笑)」
「3年生(研究科)になって始めたのが、シリーズ“BASE”と“家”。この両方は時期的には同時進行だったんです。自分でもなんだかよく知らないけど、いろんなことが上手く行っちゃって天狗状態になってた学生時代だったんです(笑)。子供の頃から転勤、引っ越しが多かったから、世間では落ちこぼれ状態で中高と過ごしてきたんだけど、やっと乗り越えて認められてパぁっと花開いちゃって嬉しかったんですねえ」
「それから山岸章二さんのやってる“カメ毎”(カメラ毎日)とかに売り込みに行ったんです。当時はカメラ雑誌と展覧会で成功すれば名前は出るという時代だったんですよ。だから山岸さんに会いに行ったんだけど、おっかなくってさあ(笑)」
山岸さん=コワイ説、ってのは田村さんより一回り年下のボクたち世代でも写真家の先輩方からよく耳にしてたんです。写真がダメだと罵倒されるとか、一節には本人の目の前でプリントを破っちゃうなんて話しも聞いたことがありますが、残念ながらボクは一度も面識無いままに山岸さんがお亡くなりになったんで知らないんですが、具体的にはどう怖かったんですか?
「そりゃあ、もう。だって山岸さんは見た目からして、とにかく怖いんだよ(笑)。眼光鋭くって、見抜かれちゃうというか、写真に対する向き方が半端じゃないから、こっちもそれなりの覚悟をしていかないとね」
サントリー・リザーブ新聞広告 (c) Tamura Akihide | サントリー・リザーブ新聞広告 (c) Tamura Akihide |
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映画「影武者」ポスター (c) Tamura Akihide | 映画「影武者」ポスター (c) Tamura Akihide |
NHK大河ドラマ「風林火山」ポスター (c) Tamura Akihide | NHK大河ドラマ「風林火山」ポスター (c) Tamura Akihide |
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ソニーNEXカタログ (c) Tamura Akihide |
ソニーNEXカタログ (c) Tamura Akihide |
■ファッション雑誌を一生懸命見て研究
1960年代。
「当時、立木義浩さんの“舌出し天使”や 沢渡朔さんの少女シリーズや、コマーシャル系では篠山紀信さんたちが活躍していて、一方では、高梨豊さん、細江英光さん、東松照明さん、奈良原一高さんたちが活躍中、その後、森山大道さん、荒木経惟さんたちが出てきた。みんな個性的で本当に面白い時代だったわけですが、その中心的人物で、日本の写真界の牽引役がカメ毎の山岸章二編集長だったんです」
「あの頃は奈良原一高さんが好きで、親戚のひとが学校に居たんですぐに奈良原さんにも会えたし同窓生が助手になったり、いろんな有名写真家の助手が卒業生や知り合いだったり、写真の業界も未だ未だ狭い世界でしたよ(笑)」
「スタジオマンになりたかった。学校卒業したって仕事もないだろうから、まず技術を身に付けようと思って。原宿にあったナンヤスタジオってのが赤坂スタジオや六本木スタジオと並んでメッカで、有名カメラマンが使っていたんです」
「友だちがスタジオマンやってるのを見てて、俺もスタジオマンになりたくって働かせてくれって行ったのね。そしたら、当時は実家の鎌倉の奥の方に住んでたんだけど、遠くてスタジオまで通えないからダメだって断られちゃった(笑)」
「スタジオの友だちに頼んで、当時売れっ子だった大倉舜二さんの撮影を見に行かせてもらったけど、大倉さんはファッションを4×5で撮ってたもんね」
「あの頃スタジオではタングステンで撮ってたのが、やっとストロボになる頃で、バルカーが入ってきたばっかりで出力が全然無いんですよ。色も悪いし、下手な操作すると危険だし……(笑)。いま思うと60年代っていうのは、本当の意味で日本写真界の創世記ですよ」
「東京の中心の銀座だってまだ田舎臭かった時代に、横須賀のドブ板通りや、横田基地のある16号線沿い周辺の一部だけがアメリカの町みたいでカッコよく思えたんだよね。お店の看板なんかはもちろん英語で書かれてるし歩いてる人たちも外国人ばっかだしね。当時は1ドルが360円の時代で高価だったし、ビザだって認可が下りにくく、日本人はそう簡単に外国へ行けるような環境じゃなかったんだよ。だから憧れが強かったんですよね」
「研究科になると週に2回くらいしか授業がなくて、休みが多いからプラプラしてたら、ある日地鎮祭やってるから撮って、そしたら棟上げ式があって、次々撮ってると面白くなって、土地が変わり家の形が変わり、季節が巡ってと、ミノルタオートコードでずっと撮ってしまいました」
「撮ってる途中くらいから働かなきゃってことで、友だちの親戚が戸塚で写真館をやっていて、暗室マンのアルバイトをやってたんです。当時はカラーがなかったからプリントは全部モノクロで1日500枚くらい焼いてたんです」
「営業写真館用に号数バリアブルの印画紙があったんだけど、硬い・軟らかい・普通・みたいな簡単でいい加減でしたね(笑)。結婚式写真から記念写真、普通の写真だけじゃなく、近くに大きなメーカーがあったんで工業用のマイクロフィルムからCHペーパーっていう特殊な紙にプリントしたり、顕微鏡写真とかももやってたねえ。デジタルなんか無い時代だから映像関係はすべて写真館の仕事だったんで写真館は人手が足りないくらい繁盛して儲かってた時代でした」
上野公園にて4×5カメラを使っての撮影会。 |
東京の下町散策をしながらのスナップ撮影実習。この日はオープンして間もないスカイツリーがある押上界隈を歩いた。 |
セブン&アイ・ホールディングスの主催する池袋コミュニティカレッジで、田村さんは東京銀塩写真クラブという名前のコースを持っている。銀塩フィルムによる撮影から現像、プリントを楽しもうというコースで、大人の皆さんの集まりだ。撮影実習会、現像風景など、何日にもわたって取材させていただいてるうちに、ボクも久しぶりに暗室作業の懐かしさが沸いてきた。流石、大人の趣味世界は深い(笑) |
--田村さんが学生だった時に教わった先生って、どんな方がいらっしゃったんですか?
「早崎治さん、長野重一さん、土門拳さんの元弟子だった藤田直道さん、梶原高男さん、目島計一さん、桑原史成さん、大辻清司さん、桑原甲子雄先生、それから石元泰博さんなんかも売れる前には教えに来てたね。まあ写真界の梁山泊と呼ばれてた頃ですなあ(笑)。伝統的オーソドックスでアカデミックな日芸に対抗して、ヒヨシの学校(東京綜合写真専門学校)は写真界の反乱軍だったから(笑)」
「だからデビューはすごかったよ、写真評論家はみんな来てたから。重森さんをはじめ渡辺勉さん、伊藤逸平さんとかいっぱいいたからカメラ雑誌とかに持ち込んで取り上げてもらいやすかった。今の若い人たちはかわいそうだよね、そういう場がなくって。その代わり昔はちゃんとピントや露出が合ってる写真を撮るのだけでも大変だったんだけどね」
--結局、スタジオでは働けなかったわけですが、田村さんはどうやって写真の勉強をやられてたんですか?
「ファッション雑誌を一生懸命見てましたねー。輸入なんて大変な時代ですから、神田の古本屋へ行って買ってくるんです。在日米軍の家庭なんかから出てくるんでしょうね。それが貴重な情報源だったんで、隅から隅まで見てました。あの頃、一番の教科書は外国のファッション雑誌だったんですよ。“バザー”、“ヴォーグ”、それから“マッコール”なんてのもありましたね」
--学生時代にカメラ毎日の誌面でデビューされてるのですが、ビジネスとして依頼されて最初にお金をもらった仕事は何だったのでしょうか?
「最初はなんだろう? 美術手帳とかでも発表させてもらいましたね。それから松岡正剛さんのやられてる雑誌“遊”とか。で、そこから紹介されたのが今でもある富士ゼロックスの“グラフィケーション”というPR誌。これがまともにお金をもらった初めての仕事でした。内容はあるテーマがあって、それに合った写真を撮ってきて載っけるということで、午後シリーズのようなイメージ写真を撮っていました」
「本格的に大きな広告キャンペーンでは、70年代の半ばくらいにやったサントリーのリザーブのシリーズですね。新聞広告用に、著名人がお酒を飲んでいるシーンを撮るというシリーズでした。これの最後に登場したのが映画監督の黒澤明さん。黒澤さんの御殿場の別荘で撮影したんだけど、人間国宝の黒田辰秋さんの作品である大きな木の椅子に座ってるシーンでしたね」
「それから数年が経ってから、黒澤明監督が今度新しい映画を撮るっていうので、カメラマンとかも若い人を募集してて。そんで知人に紹介してもらってOKが出たので黒澤さんの写真を撮ることになったんです。撮影現場にも入れたし、現場で撮った写真を広告にも使うという名目もありで。その映画が“影武者”だったんです」
「映画会社のスチールカメラマンは別に2人いて、俺は遊軍だから別行動なんですね。シーンの写真はなんかはモータードライブ付きのニコンFを使ってた。だけど黒澤さんがモータードライブの音を嫌うので、手巻きでパシャって使ってた(笑)。レンズはニコンから明るい長玉を数本借りてきてたから、遠くからでも馬の疾走するシーンなんかもバッチリ捉えられてたんだ」
「黒澤さんのポートレートはハッセルに150mmを付けて撮る。ハッセルの音は柔らかくてお好きだったみたいだよ。黒澤さんのカットはすべて150mmで、あんまし近づかないように、目線も合わさないように、遠くにいても視界に入らないように気を遣ってましたね。たまーに目の前に行って撮ったりして、怒られたりとか(笑)」
「自分が撮られるんだったら絶対にイヤだもんね。映画の現場って、特に黒澤さんの現場って何百人っていう大勢のスタッフやキャストがいるじゃない。監督って仕事はみんなが見てる前で小さな針穴に糸を通すような作業を真剣にやってる時だから、ピリピリしてるのはよく解りますよ。そこでカメラを向けられてバシャッってやられたら、“この野郎〜!”ってなっちゃうよね当然(笑)」
「新聞社とか雑誌社とかからカメラマンがいっぱい来てるんだけど、俺の目の前で何人のカメラマンが消えていったか。監督やスタッフを怒らせてしまったら、即、退場〜って(笑)。黒澤監督は写真を見る目もすごかったよ。ベタ焼きとかものすごい量のシート全部に目を通して、丸付けていくんだ。それも全部見抜くすごい才能の人だよ」
写真展初日の内覧会では学芸員の方と田村さんが直接作品についての説明をしていき、参加者からの質問に答えるという場面も。 |
その後、写真美術館の福原館長、笠原さんほかのスピーチからはじまった式典、正式なオープニング・パーティーを開催。 |
シリーズ「赤陽」より (c) Tamura Akihide | シリーズ「赤陽」より (c) Tamura Akihide |
シリーズ「赤陽」より (c) Tamura Akihide | シリーズ「赤陽」より (c) Tamura Akihide |
シリーズ「赤陽」より (c) Tamura Akihide | シリーズ「赤陽」より (c) Tamura Akihide |
BASE 2005-2012 (c) Tamura Akihide | BASE 2005-2012 (c) Tamura Akihide |
BASE 2005-2012 (c) Tamura Akihide | BASE 2005-2012 (c) Tamura Akihide |
■幻の名作を含む写真展「夢の光」が開催中
「若い頃の話だけど、俺は30までに死ぬという覚悟で生きてきたから、アラビアのローレンスみたいに格好良くなりたいなあって思っていたのね。ところが28歳くらいの時にニューヨーク近代美術館の出展から、これで金持ちになれる大成功だって思って帰ってきたら、大バッシングの嵐で精神的に参っちゃって、安いジンとかのお酒をガブ飲みする日々が続き、ついには急性肝炎になって死ぬ一歩手前までいっちゃったんだ」
「自分でもイヤになっちゃうんだけど、以前は机の引き出しの中の鉛筆が定規で測ったようにビシッと揃ってなきゃ許せないような神経質で、女の人ともしゃべれないような性格で、すごい人間嫌いだった。だけど、入院とかしてる間にまわりの老人とか本当に死んでいってしまうじゃない。そういう現実を見てると、“俺、未だ若いのになんで病気なんかなっちゃったんだよ、これじゃイカン”って思えるようになって希望が見えたっていうか、いったん考え直そうって、恵比寿の駅前にある薬局の人が何度も処方し直してくれた漢方薬を10年飲んで頑張って治したんだよ」
「そうやって元気になってから結婚もしたんだ。奥さんがとってもよくできた女で、彼女にはいっぱい面倒かけてるんだけど今までとは違う生き方しようって思い、彼女にも救われたし、作品だけじゃなく広告写真や雑誌の仕事があることにも救われたし。一つのことを短時間に突き詰めていたんだけど、そうじゃなく、突き詰めることではなくてゆっくり時間をかけて作品を撮っていけば良いんじゃないかなあっていう考え方に切り替えたんだ」
「それ以来は時間をかけて徐々に完成させて行く方がいいと思い、そういうのって昔の自分だと許せなかったんだけど、頭を切り換えて実践するようになったら何だか心も身体も楽になって、今ではこうやって立派な酒飲みの老人になっちゃったんだよ(笑)」
ここにある田村彰英という写真家が生み出した数々の写真たち。広告写真、ファション雑誌の写真、カメラ雑誌の写真、純粋なる写真作品、依頼された写真作品、写っている人も風景も家も大地も海も空も、そのすべてが田村さんの65年間だと思う。パーツ、パーツの欠片じゃなく、全部併せて田村彰英という人間を証明している写真なんだと思う。
写真展のタイトルにボクの大好きな漢字二文字を大先輩に使われてしまった以上は、若輩者が生意気なことを申し上げるようだが、田村さんにはこれから先、もっともっとたくさんの眩しい「夢の光」をまき散らして見せて欲しい。
田村さん、また美味しいお酒を一緒に飲ませてください☆
・田村彰英写真展「夢の光/ Light of Dreams」
- 会期:2012年7月21日〜2012年9月23日
- 会場:東京都写真美術館
- 休館日:月曜(月曜が祝日のときは火曜)
- 入場料:一般600円、学生400円、中高生・65歳以上400円。9月17日のみ65歳以上は無料。
- オリンパス:OLYMPUS OM-D E-M5、OLYMPUS PEN E-P3、M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R、M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8、M.ZUIKO DIGITAL ED 75mm F1.8
- キヤノン:EOS 5D mark III、EF 16-35mm F2.8 L II USM、EF 70-200mm F2.8 L II USM
- サンディスク:Extreme Pro SDHC、Extreme Pro CF
- シグマ:85mm F1.4 EX DG HSM
- ペンタックス:645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax FA645 75mm F2.8、SMC Pentax 67 90mm F2.8、SMC Pentax FA645 150mm F2.8 [IF]
- パナソニック:LUMIX G VARIO 7-14mm F4 ASPH、
2012/8/10 18:38