白籏史朗写真展「圏谷のシンフォニー~北アルプス 穂高・涸沢~」

――写真展リアルタイムレポート

屏風岩から奥穂高岳の朝焼け (c)白籏史朗

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 白籏さんが山を撮り始めてから、50年を超す。今年、喜寿を迎えたが、もちろん今も現役で、今回の写真展は、ここ5年ほどの間に撮影したものだという。

 涸沢は穂高登山の中心地であり、多くの岳人、山岳写真家が集まる場所だが、「涸沢そのものを撮った人はいないことに気づいた。ならば僕が撮ろうと思い立ったんだ」と白籏さんは言う。

 「人のやらないことをやる」。それは白籏さんの行動の根幹を成す考え方であり、ひいてはそれが白籏作品の魅力の秘密でもある。氷河による侵食で作り上げられた谷、涸沢。数十年、この地に足を踏み入れてきた作者が、改めて発見した涸沢の魅力が提示されている。

 会期は2010年11月19日~12月2日。開館時間は10時~19時(最終日は16時まで)。入場無料。会場の富士フイルムフォトサロン東京の所在地は東京都港区赤坂9-7-3 フジフイルムスクェア。

 また2010年12月10日~16日には、富士フイルムフォトサロン大阪で巡回展示される。

白籏さんは今も山に登り続けている展示の様子

発見する眼が大事

 涸沢は上高地から徒歩で6~7時間ほどの場所にあり、穂高連峰の稜線が連なる格好の撮影ポイントでもある。夏は登山客のテントが数多く立ち並ぶこともあり、涸沢そのものを被写体として考えた人はいない。

「ここに来ると、どうしても山を見ることが主体になってしまうけど、涸沢にもいろいろなモチーフがあるんだ」

 同じ場所でも、季節、光などによって、まったく違う表情を見せる。長年、通い続けた場所でも、その一瞬を見つけ出すことが重要なのだ。

「本当の美しさには力がある。それを撮るんだ」と白籏さんは言い、「それは自然でも人でも同じ。僕は、今でも女の子を撮らせたらうまいもんだよ」と笑う。

 ただ人とはコミュニケーションがとれるが、自然相手だとそうはいかないし、光源は太陽しかない。

「だから自分が動くしかない。骨惜しみしたらダメなんだ。天候が崩れたり、自然に裏切られることもあるけど、それを切り抜けることで自信が付いてくるし、人間に裏切られるより、ずっといい」

幼少期から山に親しみ

 白籏さんは山梨県大月市で生まれた。7歳ごろから、父親に「心身鍛錬」と称するハイキングに連れて行かれていたという。その経験が白籏さんの中に、山への抜き差しがたい思いを育んだようだ。

 街外れにあった高月橋が大好きな遊び場の一つで、ある時、この場所を写した写真を見た。それが写真家を志す最初のきっかけになった。18歳から約5年間、写真家の岡田紅陽氏の内弟子となったが、「自分のカメラをようやく買えたのは26歳ごろ。岡田先生のところでは、もっぱら、頭の中で撮影していたよ」と笑う。

屏風ノ耳から穂高山群 (c)白籏史朗

 弟子入りして5カ月目。初めて師匠の山行に同行でき、2枚だけ撮らせてもらえた。6×6判のマミヤフレックスジュニアだ。

「会員さんもたくさんいたけど、後日、僕が撮った写真が先生に選ばれた。『このアングルで撮ったのはお前一人しかいない』ってね。人と違う撮り方を、より意識的にするようになった」

 後年、白籏さんが開くパーティに岡田氏が出席すると、挨拶で必ず同じ一言を話したという。

「先生は『私は白籏に写真は教えなかった。強いて言えば根性だけです』ってね。だけど根性はもともと持っていたんだよ」と白籏さんは言い、豪快に笑う。

登山技術は独力で学んだ

 内弟子時代に山岳写真への思いを募らせ、独立した。当初は記念写真やバレエの舞台写真、新劇の撮影などで稼ぎ、お金が少し貯まると、山へ行く。

 日程と経済面から、この頃は東京に近い山域が選ばれ、甲府の20万分の1の地図を見ながら、ここに載っているすべての山を踏破しようとも思ったそうだ。

「徹夜で仕事をして山に入ったり、無茶をしていたよね。これまで山に入っていた延べ日数は7,000日以上。1年では262日入っていた年があったよ」

 白籏さんが心から愛する山は南アルプスで、ここで山の凄さを知った。

「北アルプスは遠いし、山小屋に泊まるのに金がかかるというのもあった(笑)。芋、米、ニンジン、玉ねぎなど用意していった食材がなくなると、無人の小屋に行く。小屋の人や登山者が余った食料を置いていったりするからね。ゴミ捨て場なんかでも、食べられる食材を見つけていた。さすがに肉はなかったけど、缶詰があると嬉しかったなあ。そういった貧乏は苦にならないんだよ」

 幼い頃から山に親しんできた経験を基に、独力で登山技術を身につけていった。岩登り、氷壁のクライミングも一人で習得したという。

「平地を歩く時、誰も転ばない。バランスが重要で、どこでも平地を歩くように、垂直に重心をかければ安定する」

 といっても相手が山だから、危険な目にも遭ったし、何人もの知人、友人を山で亡くしている。昭和33年12月、友人と2人で燕頭山に登った時は、下山を焦って、降雪の中、出発し、雪崩に巻き込まれた。

「無理をしないことが一番大事なこと。ポーターが崖に落ちた時は、崖に飛び込んで捉まえたけど、薬指を痛めて、5年ぐらい、思うように動かなかった。その日も吹雪の中、ビバークしたよ」

秋たけなわの涸沢 (c)白籏史朗

今も最初に買ったローライを使う

 1962年、29歳の時、活動を山岳写真一本に絞った。とはいえ、当時、山岳写真を売る術はなかった。山岳雑誌(「山と渓谷」や「岳人」)に掲載される写真は、お金のあるアマチュア写真家からの投稿で、雑誌社から掲載料は支払われなかった。

「タダでやっているところに、金を払ってくれというんだから、最初は受け入れられなかった。当時の山と渓谷社の社長だけは応援してくれたけどね」

 その行動を支えていたのが「良い写真さえ撮れば、売れるようになる」という信念だ。目指す写真は、登山家も、一般の人も満足させられる1枚。

「山は抽象ではいけない。何が写っているかが分かって、なおかつ見たことのない美しさや感動を表現していく。それまでは無心に山に浸りきっていたのが、客観的に山を見つめなくてはならなくなった。山の凄さ、魅力を分析して、写真で切り取る。最初は、撮ることを忘れて、風景を眺めてしまうことも多かったけどね」

 山へ携行するカメラはローライフレックス、4×5判、35mm判、6×9判と交換レンズ。かなりの大荷物だ。これに「使っても軽くならない」フィルムが加わり、長い撮影だと4×5判で1,000~1,500カットに上るという。

「ローライも最初に買ったカメラをずっと使っている。整備をして、ちゃんとした使い方をすれば故障は起きないよ」

 整備は冬の前と、春になってからの2度。冬の山中は体感温度で零下数十度に下がるので、カメラ内部の油も凍ってしまう。

「深海ザメの肝油は零下50~60度でも凍らないので、これにドイツのコンバーシャッターに使うグリスを混ぜて入れてもらう。その肝油オイルは温かくなると蒸発してしまうので、春になったら普通のに入れ替えるんだ」

光の帯、紅葉と新雪を際立たせる涸沢 (c)白籏史朗

人と同じことはしたくない

 撮影は国内だけでなく、海外も多く出かけている。1966年には登山隊に加わり、アフガニスタン各地を撮影したほか、69年にはパンジャブ・ヒマラヤのスキー遠征隊に参加した。

「実際はヒマラヤを先に撮ることになったんだけど、当時はみんながヒマラヤって言っていたから、僕はヨーロッパに行きたかったんだ」

 海外の山でも撮影スタイルは変わらず、実際に山を歩き、撮影ポイントを見つけていく。ヒマラヤやカラコラムではパキスタン、インド、中国の国境にまで行ったという。

「何度か越境したけど、冬は人がいないからいいけど、夏はつかまるんだ」と笑う。

 これまで出版した写真集は105冊、エッセイ、技術書は30冊強。すべてが商業出版で、自費出版は一冊もない。この写真展に合わせて写真集「圏谷のシンフォニー」も山と渓谷社から出版されている。白籏さんの写真集が売れる理由を本人に問うと「オレにも分からない」との答え。きっと、その写真には自分流で生きてきた白籏史朗という人間が写っているから、多くの人を惹きつけるのだろう。

パノラマコース上部からお花畑と奥穂高岳 (c)白籏史朗

※白籏史朗氏の「籏」は、本来は異なる漢字で表記しますが、閲覧環境により表示できないため、籏を代用文字としています。

【2010年11月25日】本文中、「うまくロープで支えられた」との表記を「崖に飛び込んで捉まえた」に、「グリス」の表記を「肝油オイル」にそれぞれ訂正しました。また、撮影地にヒマラヤを追加し、出版写真集に関する記述に「自費出版は一冊もない」の一文を加えました。



(いちいやすのぶ)1963年東京生まれ。4月某日、4回目になるギャラリーツアーを開催。老若男女の写真ファンと写真展を巡り、作品を鑑賞しつつ作家さんやキュレーターさんのお話を聞く会です。始めた頃、見慣れぬアート系の作品に戸惑っていた参加者も、今は自分の鑑賞眼をもって空間を楽しむようになりました。その進歩の程は驚嘆すべきものがあります。写真展めぐりの前には東京フォト散歩をご覧ください。開催情報もお気軽にどうぞ。

2010/11/25 00:00