田村彰英写真展「AFTERNOON 午後」

――写真展リアルタイムレポート

(c)Akihide Tamura
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 田村彰英さんは東京綜合写真専門学校在学中から、早くも頭角を現していた。入学は1965年。同校創設者の一人であり、写真批評家の重森弘淹氏がその感性を高く評価していた。そう水を向けると、田村さんは「そういうことになっていますけどね」と照れくさげに笑う。

「先生には渡辺勉さん、玉田顕一郎さんもいたし、石元泰博さんにも習った。写真作家、評論家、編集者などが集まっていて、当時、写真界の梁山泊だったね」

 そこで本科2年、研究科2年の4年間を学び、卒業後は雑誌、広告、ファッションの仕事に携わっていく。その傍ら、卒業後の1969年から1989年まで撮り続けてきたのがこのシリーズだ。大きく変わりつつある都市の光景の中で、作者はとどめておきたい一瞬を見出していった。

 会期は2010年9月3日~10月30日。開館時間は11時~19時。日曜、月曜、祝日休廊。入場無料。会場のgallery bauhausは東京都千代田区外神田2-19-14-101。

 9月17日19時から作者と、写真集「AFTERNOON」のブックデザインを手がけた町口覚さん、町口景さんの鼎談を行なう。参加費は2,000円。要予約。なおこの日、ギャラリーは18時閉廊となる。

田村彰英さんは現在、池袋で撮影と暗室技法を教えるワークショップを開講中だ

奇妙だけど美しい光景

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 このシリーズで、とりわけ象徴的な1枚が上の作品だ。この巨大なタンカー2艘は造船所に係留されていた船だが、台風で流されて、この岸に着いた。

 この1枚からは非日常があらわになった喧騒と、不思議な静けさが同居している。タンカーの質感とフォルム、そして背景に広がる空と雲が美しい。

「ニュースを聞いて、その2日後に撮りに行った。人間がかっちりと写らないように、夕方まで待って、1秒ぐらいの露光時間で撮った。奇妙な空間を探しながらも、最終的には美しくないと嫌なんだ」

 このシリーズの始まりは、単純に気になる場所、撮っておきたい場所を記録しておこうという思いからだった。

「途中で、自分が社会とか、街が変化していくのを撮っているんだと気づき、それから撮影はもっとスムーズになっていった」

 撮影地は着工し始めの多摩ニュータウンや、横浜横須賀道路、高速道路、そして千葉から横浜へかけての湾岸地域だ。

「湾岸エリアは開放されている感じが良くて、いろいろ行った。ファッションの仕事でロケハンに行った時、撮ったことも多い。実際、自分の作品として撮った場所に、後日、モデルを立たせてファッション写真を撮ったこともあるよ」

空気感がうまく撮れるか

 カメラは学生時代に買ったミノルタの二眼レフ「オートコード」をメインに使っている。すでに2台を壊し、今は3代目だ。このカメラの標準レンズであるロッコール75mm F3.5は、レンズがシャープで、トライXとの相性がいい。

「ローライでも撮ってみたけど、しっくりいかなかった。ローライは80mmだったから、75mmの写角が僕にあっているんだよね。その人の個性にあうレンズとか、フィルムがあると思う」

 しっくりくる判断基準は、その場の空気感がうまく撮れたと感じるかどうかだ。2艘のタンカーの写真は、8×10に100年前に制作された大判用レンズ、スターリング160mmで撮影した。

「このレンズはピンはあまりよくないけど、奥行きがある。妙な立体感が生まれるんだよね」
構図を決めていく時は、ファインダーをのぞいて、画面を作っていく感じだという。嫌なものを外していって、限界ぎりぎりまでそぎ落とす。

「ただそこには核になる思想がないと、ラッキョウの皮むきみたいに気づいたら何もなくなって、撮れなくなってしまうんだ」

写真には思想がないとダメ

 田村さんはもともとオタク級の飛行機好き。そこから写真の道に入った。中学生の頃から「航空ファン」や「航空情報」を読み、横田基地などに通っていたという。基地をモチーフに、学生時代から撮り始め、注目を集めた「BASE」は、その興味が根本にあったのだ。

 綜合写専に入学し、「写真には思想がなければダメだ」と徹底的に教えられた。60年安保の名残りもあり、政治的な議論が活発に行なわれていた。

「最初に見せられた映画がメーデー事件のものだったからね。ノンポリの高校生にとっては、相当刺激が強かった」

 それでも政治や思想などを学び、自分なりの社会の捉え方を見つけていった。そこで田村さんの中に残ったのは、世の中にある「矛盾する存在」への認識だ。

 飛行機は殺戮兵器でありながら美しい。兵士と軍備を擁する基地には、青い芝生が広がり、白い家が並ぶ。日本の中にアメリカの街が存在する。

「反戦などで政党が使う写真はあまりにもダサかった。まずは美しく撮ってみようと思い、そこから基地の存在を考え直してみれば、世の中の矛盾が見えてくるんじゃないかと考えた」

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「BASE」は賛否両論巻き起こり

 ただし「BASE」は賛辞ばかりでなく、逆に「思想がない」といった非難、否定意見も多く返ってきた。

「某カメラ誌に出したら、コテンパンに否定されたので、作品制作はやめて、写真は仕事として割り切ってやっていこうって決めました」

 知人の紹介で、新たに創刊されたレース雑誌の仕事で、レースカメラマンを5年ほどこなしたほか、PR誌の撮影などを手がけて。レース写真は知り合いのレーサーを事故で何人も亡くすと「これも嫌になって辞めた(笑)」。

 その頃、ニューヨーク近代美術館で「NEW JAPANESE PHOTOGRAPHY」展が企画され、15名の日本人写真家が紹介された。その一人に田村さんが選ばれた。同世代では十文字美信さんがいたが、あとは石元泰博さん、川田喜久治さん、東松照明さんといった大御所ばかりだ。

「意気揚々と帰国したら、また生意気だってやられちゃった(笑)。また嫌になっていた時、サントリーの新聞広告の依頼がきたんだ」

 サントリーウイスキーのリザーブを有名人が飲むシーンを、ドキュメントタッチで撮影する仕事で、1~2年続いた。この最後に登場したのが映画監督の黒澤明氏で、この出会いから黒澤映画の応援スチールカメラマンとして参加することになる。その仕事は1979年にクランクインした「影武者」から「乱」「夢」「八月のラプソディー」まで約12年間、行なっている。

「黒澤さんの目障りにならないように気をつけながら、ロケ現場を自由に動いて撮影した。ハッセルブラッド500CMに150mmのレンズをつけて、手持ちで撮っていた」

スナップ撮影が息抜きに

 その頃、アートディレクターの植田充さん(植田正治氏の子息)と知り合い、ファッション撮影の仕事も入ってきた。

「学生時代、ファッション写真にも興味があって、バザーとかヴォーグを見て、勉強はしていたんだ」

 これが1987年から1991年ぐらい。自ら、笑いながら「絶頂期だったね。アートなんかどうでもいいと思っていた」と話しながらも、今回の「AFTERNOON」をはじめ、都市のスナップは撮り続けていた。

「仕事と時間に追われる日々で、息が抜けなかった。だからこそ、こうした写真をやめなかったんだろうね。小さなプリントはすべて、今年6月にプリントし直したんだけど、当時のきつかった日々の記憶がよみがえってきて、結構つらかった」

 印画紙は当時、「月光」を使っていたが、製品がすでにないため、今回は「ベルゲール」を選んだ。そのベルゲールですら、当時と製造工場が変わり、かつての調子とは異なる。

「写真はプリントする人の精神状態と、印画紙、薬品で変わってしまうので、同じものはできない。それを改めて感じた」

非日常に惹かれる思い

 その後も、一時、住んでいた東京・谷中など下町にあった木造住宅を8×10で撮った「たそがれの光」などを制作してきた。その時、撮影した家のおよそ8割はすでにないという。

 今は事故や事件などの現場に惹かれ、足を運んでいる。

「そこが非日常的な空間になるから、興味を持ってしまうんだ」

 上九一色村にあったオウム真理教のサティアンも4×5で撮り、2008年、横須賀に入港した原子力空母ジョージワ・シントンが一般公開された時にも参加して、乗り込んだ。

「乗組員は将校クラスで40代と若い。現場は有色人種が大半で、パイロットだけは白人ばかり。それを実際、目の当たりにすると衝撃的だよね」

 この1月には群馬県吾妻郡の八ッ場ダムに行った。

「駅にはタクシーもいなかったので、建設中の橋脚まで歩いた。結構、距離があって、途中、雪まで降ってきたから寒くて泣きそうになったよ」

 世界は不思議な均衡の上に成り立っている。田村さんの写真は、そんな一瞬を捉えて提示する。そこに美しさを感じるのは、撮影者の視点の底に希望が潜んでいるからだと思う。

(c)Akihide Tamura


(いちいやすのぶ)1963年東京生まれ。4月某日、4回目になるギャラリーツアーを開催。老若男女の写真ファンと写真展を巡り、作品を鑑賞しつつ作家さんやキュレーターさんのお話を聞く会です。始めた頃、見慣れぬアート系の作品に戸惑っていた参加者も、今は自分の鑑賞眼をもって空間を楽しむようになりました。その進歩の程は驚嘆すべきものがあります。写真展めぐりの前には東京フォト散歩をご覧ください。開催情報もお気軽にどうぞ。

2010/9/16 00:00