写真を巡る、今日の読書
第121回:なぜ私たちはその写真を撮るのか――「写真について語る」ことを問い直す3冊
2026年10月14日 07:00
写真家 大和田良が、写真にまつわる書籍を紹介する本連載。写真集、小説、エッセイ、写真論から、一見写真と関係が無さそうな雑学系まで、隔週で3冊ずつピックアップします。
言葉からこぼれ落ちるもの
写真について語るとき、私たちはつい、写真の外側にある物語へ急ぎがちです。写っている人物の来歴、場所の歴史、撮影者の意図。どれも写真を読むための大切な手がかりですが、それらの事実や言葉だけで写真の意味することをすべて理解することは難しいでしょう。
写真は、ときに言葉を求めながら、その言葉からこぼれ落ちるもの、言葉では表現できないものを残す表現でもあるからです。今回は、写真家自身の実感、写真を前にした批評、そして写真が生まれる以前へと視線を遡らせる思考を通じて、「写真について語る」ことを問い直す3冊を取り上げます。
『写真関係』石内都 著(筑摩書房/2016年)
1冊目は、石内都『写真関係』です。エッセイを中心に編まれた本書には、仕事として写真を撮ること、モノクロームからカラーへ移った経験、そして「ひろしま」をはじめとする仕事に向き合う際の感覚が、淡々と、しかし切実に綴られています。
ここには、石内作品を1つの明快な理念に回収するような語りはありません。むしろ、被写体との距離、手に触れる物の感触、撮ることの躊躇や偶然が、作家本人の戸惑いと共に語られているように思います。
タイトルにある「関係」は、写真家と被写体の関係、あるいは仕事との関係、写真という芸術との関係など、写真という大きな概念を取り巻く複雑な「関係」を象徴するように思います。
写真家が対象を選ぶだけでなく、対象の側から写真家の視線が変えられていく。その往復のなかで1枚の写真が現れるのだとすれば、写真とは世界を所有するための手段ではなく、むしろ世界が写真を撮る側に触れ返す経験なのかもしれません。
写真と文章が交互に置かれた本書を読むと、石内都の写真とその写真家としての人生だけでなく、写真という概念そのものを考える契機にもなるでしょう。また、石内が語る増山たづ子や島隆などの写真家の解説や作品への思いもまた大変興味深いテキストでした。
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『写真批評』金村修 著(PCT/2026年)
2冊目は、金村修『写真批評』です。雑誌『家電批評』での連載をもとにしたこの写文集では、写真、音楽、カメラ、時評などを横断しながら、写真を見ることと撮ることにまつわる言葉が、遠慮なく投げ込まれます。
私自身は、この連載を読むためだけに雑誌を手に取ることもあり、ある種ファンとして楽しんでいたテキスト群でもあります。金村の文章には、ときに読み手の安易な理解を拒むような難解さや回りくどさ、あるいは露悪的表現がありますが、それは、写真を「表現」や「創造」という聞こえのよい言葉で包み込み、写っているものを見なくなる態度への抵抗でもあるでしょう。ただ、本書に収められた連載の語り口は比較的ストレートで体系的に語られている項が多い印象です。
写真を前にして、私たちはしばしば自由に物語を補いたくなります。しかし金村は、まず画面をよく見ること、その退屈ささえ含めて写真の事実にとどまることを要求します。
犬が写っている、ビルが写っている、と言うしかないような写真の表層。その先にこそ、写真固有の不穏さや可笑しさがあるのだという指摘は、写真に携わる多くのものにとって何度も立ち返ることのできる本質に触れられていると思います。
写真を豊かな意味で飾る前に、何が、どのように写っているのかを見届ける。その一貫した態度が、本書全体を貫いています。
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『原写真論』今福龍太 著(赤々舎/2021年)
3冊目は、今福龍太『原写真論』です。文化人類学や文学、映画、音楽などを横断してきた今福は、写真そのものの前に、背後に、あるいは彼方にある「世界」と「眼」の結びつきに目を向けます。
あとがきでは、本書でいう〈原写真〉は、写真術の発明以前にあった古い写真という意味ではありません。世界がイメージを生み出そうとする力と、それを受け取ろうとする眼とのあいだで働く、定義しがたい衝動のようなものだと定義しています。
私の解釈では、写真というイメージを生み出すことに必然的に至る、それ以前の想像力や欲求そのもの、あるいはそれに至るメカニズムという理解でいます。
大原治雄、東松照明、ペドロ・メイヤー、レヴィ=ストロースなど、多様な写真家や思想家をめぐる文章は、1枚の写真を作品として鑑賞する場から、歴史、暴力、移動、記憶といったその「写真」に至る必然、あるいは道程を示唆します。
そこで写真は、目の前の現実を複製する装置ではなく、世界が自らの姿を露わにし、私たちの眼がそれに応答する出来事として捉え直されます。多くの写真をある種無意識に生み出し続けている私たちが、なぜその写真を生み出すに至ったのか、もう1度深く考えさせられるように思います。
3者の語り口は大きく異なりますが、写真をすぐに説明し終えない、という1点で共通しているように思います。1枚の写真の前で立ち止まり、そこに何が写っているのか、なぜそれが私たちの視線を離さないのかを考え続けること。写真について語ることは、結局のところ、写真をもう1度、より注意深く見るための準備なのだと思います。





