インタビュー

EF35mm F1.4L II USM

色収差を劇的に低減する「BRレンズ」とは?

キヤノンが9月に発売した「EF35mm F1.4L II USM」は、人気の高い焦点距離35mmの大口径単焦点レンズの最新モデル。同社では“大口径単焦点レンズのフラッグシップ”と位置づけており、17年ぶりというリニューアルも話題になっている。

本レンズの大きなトピックである「BRレンズ」の仕組みを始め、17年の進化をキヤノンのレンズ開発者に伺った。(聞き手:杉本利彦、本文中敬称略)

左からキヤノン イメージコミュニケーション事業本部 ICP第一開発センターの佐藤達也氏(EFレンズ全般のメカ設計を担当)、同事業本部 光学技術統括開発センターの石橋友彦氏(BR素子の開発を担当)、同事業本部 ICP第一開発センターの西村威志氏(EFレンズ全般の光学設計を担当)、同事業本部 ICP第一事業企画部の山口聖吾氏(商品企画を担当)

徹底して画質にこだわった35mm F1.4

――35mmレンズというのは、適度な広角と比較的安くて明るいレンズが多かったこともあって、スナップ派の写真家に人気です。私も含め、単焦点レンズを1本だけ選ぶなら35mmを選ぶという人は結構多いと思います。

中でも35mm F1.4は、古くからボケを活かせる広角レンズとして、ライカのズミルックスをはじめコンタックスのディスタゴンなどがあり、高価だったので憧れの存在であり、持っているだけで結構ステイタスな存在でした。

キヤノンの場合は、EF 35mm F1.4L USMが1998年にようやく発売されるのですが、今風のマーケティング的には35mm F1.4がもっと早くあってもよかった気がしますが、当時はそういう空気はなかったのでしょうか?

山口:1987年に最初のEFレンズが世に出たわけですが、その後全体の商品構成のバランスを見ながらラインナップを拡充させました。1987年から90年の3年間くらいの間に広角単焦点レンズとしては28mm F2.8、24mm F2.8、35mm F2、広角ズームではプロを意識したLレンズの20-35mm F2.8などを初期の段階で発売しました。

明るい広角の単焦点レンズは、1995年の28mm F1.8を皮切りに、1997年の24mm F1.4、そして1998年の35mm F1.4と順次発売しました。

もちろんコンタックスやライカの35mm F1.4レンズが古くからあるのは承知していますが、AF用レンズとしましてはEFレンズが比較的早かったと思います。

(参考)1998年に発売されたEF 35mm F1.4L USM

西村:設計の立場から言わせて頂ければ、F1.4の大口径レンズに限らず高度な設計・製造技術が必要なレンズの開発には、何かブレイクスルーとなる技術を織り込んで、技術レベルを1段押し上げたうえでリリースしたいとする思いもありますので、レンズの企画だけではなく、そういった技術レベルの熟成も発売時期に関わってくることもあります。

――実に17年ぶりのモデルチェンジということですが、モデルチェンジにこれほど時間がかかった理由を教えてください。

山口:1つは、Lレンズはそれほど頻繁にモデルチェンジするクラスのレンズではないこと、またモデルチェンジをする場合は圧倒的な性能の向上を目指すということにこだわったからです。

今回の場合は、新開発のBR光学素子の技術が利用できるようになり、光学設計技術の向上もあって圧倒的によいものをご提供できるようになりました。カメラの画素数が上がるなど技術が向上しても長きにわたってお使い頂ける、高性能なものを開発するためにそれだけのお時間を頂きました。

――このレンズの開発にあったって、目指した性能、コンセプトはどのようなものでしたか?

山口:まず、目指したところは,現在ご提供しうる最高の光学性能です。先ほどもありましたが35mmは広角でも人気の焦点距離であり、とりわけF1.4は大口径レンズでもありますから、これを単焦点EFレンズの“フラッグシップ”と位置付けて開発を行いました。

大口径レンズの長年の課題でもあります色収差問題の解決のため、新開発のBR光学素子をまず最初にこのレンズで投入したのも、圧倒的な高画質を得るためであり、プロはじめハイアマチュアの方など細部の描写にこだわりをお持ちのお客様に対してもご満足頂ける画質を提供できるように商品化を進めました。

――どういったユーザーに使って欲しいですか?

山口:このレンズは圧倒的な高画質を目指したLレンズということで、プロはじめハイアマチュアの方が中心にお使い頂くことになると思いますが、35mmという焦点距離を考えると、フォトジャーナリズムや風景、ポートレートなどでご活用頂く機会が多いと思います。

また、F1.4という大口径ですので薄暗い室内での撮影や背景をぼかした撮影などを重視するユーザーの方にもお使い頂けたらと思います。

それと、今回のレンズはサジタルハロ(画面周辺部で点光源が同心円方向に広がって写る像のニジミ)が非常に少なく、天体撮影や夜景撮影にもお使い頂きたいと考えています。点光源が点に写る優れた描写性をぜひ体験して頂きたいですね。

――税込で30万円弱の実売価格は、前モデルの約1.5倍、最近非常に優秀なサードパーティ製レンズの約3倍とだいぶ高価になっていますね。一般ユーザーにはなかなか手が出せない価格だと思います。

山口:このレンズは、研削非球面レンズ、UDレンズ、そして新開発のBRレンズなど、最新技術を投入した結果高性能を実現しています。さらに、旧モデルにはなかった防塵防滴機能も今回は採用しており、また耐久性なども向上させていますので、これらの積み重ねの結果こういった価格とさせて頂きました。

――円安の影響でこういう価格になったということはありますか?

山口:為替の変動も価格を決める上での要素の1つではございますが、やはり最新の技術の投入が主な要因です。

――セールス的には、このクラスの単焦点レンズは売れ筋なのでしょうか?

山口:単焦点レンズの中では35mmは人気ですので売れ筋ではありますが、数量の面ではズームレンズにはかないません。ただ、EFレンズのシステムを構成するうえでは非常に重要なレンズであると考えています。

――交換レンズ全体では、EF24-70mm F2.8L II USMのような標準ズームが売れるのですか?

山口:そうですね。やはり標準ズームは最も売れているレンズですね。

――このクラスに手ブレ補正機能(IS)は不要と思いますが、ユーザーの要望はありそうですね。もし要望があれば搭載は可能ですか?

西村:光学技術的にはIS機能を乗せられないレンズはないと考えています。しかし、IS機能を搭載した結果大きく重くなり、価格も上がったレンズに対して商品性があるかどうかを判断しています。

山口:今回のレンズでIS機能を見送った理由は、F1.4の明るいレンズなので必要性が少ないということもありますが、IS機能を搭載するとさらに大きく重くなってしまいますので、全体のバランスを考慮して採用を見送りました。

等倍観察も想定して設計

――試写しましたが、絞り開放からシャープな描写で驚きました。おそらく現時点で世にある35mm F1.4レンズの中で最高性能のレンズだと思います。

また最近キヤノンから発売されたレンズはいずれも高画質であり、特に広角系のレンズの高画質化が著しいと思います。これはやはり先日発売されたEOS 5Ds/5Ds Rへの対応など、目標とする画質の設計基準が大幅に上がっているからなのでしょうか?

西村:お褒め頂きましてありがとうございます。全ての設計基準を上げています。特にLレンズの場合は、長く使って頂きたいとの思いがありますので、現在あるカメラと言うよりさらに将来のカメラも見据えた性能を目指しました。

――先日キヤノンでは、APS-Hフォーマットで1億2千万画素のカメラの試作機や、2億5千万画素センサーの開発発表をしましたが、その辺りを考慮するとこういった単焦点レンズでは相当性能を上げて行かなければいけない?

西村:ズームレンズはある程度の時期で更新する場合が多いですが、単焦点レンズはリプレイスまでの期間が長いので、最高の画質で長い間ご満足頂けるようにしたいとの思いがあります。フィルムカメラの時代からすると格段に基準は上がっています。

――ちなみにフィルムカメラ時代の評価基準はプリントにするとはがきサイズくらいですか?

西村:いいえ。画質の評価はA3相当のサイズでした。

――意外に大きいですね。それが現在は?

西村:基準値は別にありますが、目標としてはピクセル等倍観察です。評価されるお客様の環境がそうなって来ていますので、同じ目線で評価しなければ満足して頂けません。そうやって拡大表示するとフィルムカメラ時代には見えなかった色収差やコマ収差が見えて来ますので、それをどういう技術で見えないようにするかというのが課題になります。

――そういうことなら、ユーザーサイドとしてはこのレンズをこれから出るレンズの基準にして頂いて、これ以下のレンズはないようにして頂きたいですね(笑)。

西村:このレンズはフラッグシップとして光学設計としては特別に力を入れたレンズで、前モデルよりは多少大きく重くなっていますが、言い訳のない画質を実現しています。

非球面レンズの製造技術が向上

――レンズ構成を見ますと各レンズの肉厚が増え、構成枚数も増えていて、大きく分けるとレトロフォーカスタイプの前群とガウス型に近い後群の2群構成に見えますが、こういった構成にするメリットは?

西村:一眼レフの場合、ミラーボックスがありどうしてもバックフォーカスをとる必要があります。主点を前に持ってくるために、前群が負(凹レンズ光学系)で、後群が正(凸レンズ光学系)の構成が基本になります。

新型の構成図
紫=BR光学素子、濃緑=UDレンズ、薄緑=非球面レンズ(先端はガラスモールド非球面、後端は研削非球面)
旧型の構成図
薄緑=研削非球面レンズ

――センサーにまっすぐ光が当たるように敢えてこのようにしているのでしょうか?

西村:一眼レフの場合バックフォーカスが長いので、自然とセンサーにまっすぐ入射することが多いですね。焦点距離がもっと短くなると、センサー特性を考慮した設計もあると思いますが、35mmくらいではそこまで意識することはありません。

――レンズ構成として、具体的には旧型のどの部分を改善したのでしょうか?

西村:前モデルは、非球面レンズを1枚しか使用していませんでしたが、今回は前と後の2枚を非球面レンズとしていて、特に後側の非球面レンズは研削非球面レンズを採用しました。

先ほどのレトロフォーカスという構成は負先行型の構成であり、前に強い負の構成があると歪曲収差や像面湾曲が増える傾向があります。そこで、いちばん前の大口径レンズを非球面レンズとすることで歪曲収差や像面湾曲の発生を抑えることができ、その後の収差補正も容易になるのです。

ただこれだけでは、F1.4の大口径レンズならではの収差までは補正しきれないので、いちばん後の研削非球面レンズで最終的な補正を行っているイメージです。

――前モデルの構成では、非球面レンズは中程の後ろ寄りにありますが、なぜ先頭のレンズでは採用しなかったのですか?

西村:当時はまだ、これほどの大口径のガラスモールド非球面レンズを高精度に作ることは困難でした。設計はできてもモノが作れない時代でした。その後、ガラスモールド方式、研削方式共に製造技術を大幅に進化させたことで、弊社ではEF11-24mm F4L USMの前玉のようにかなり大きな非球面レンズを高精度に作れるようになってきています。

先ほど、最近の広角レンズは画質が飛躍的に向上したというお話を頂きましたが、広角レンズの高画質化に対して非球面レンズの果たした役割はかなり大きいですね。

MTFグラフ(新型=左、旧型=右)
実線=サジタル、破線=メリジオナル、太線=10本/mm、細線=30本/mm、黒線=絞り開放、青線=F8

色収差発生のメカニズムとBRレンズの効果

――技術的なポイントとしては新開発のBR(Blue Spectrum Refractive=青の波長が屈折する)レンズが挙げられますが、「BR光学素子」とはどんな光学素子ですか?

石橋:キヤノンが新規に開発した有機光学材料になります。名前にもあります通り、可視波長域のうち短波長側(青の領域)を大きく屈折させる異常分散特性を有していることが特徴の材料です。

弊社では従来から、蛍石をはじめUDレンズ、スーパーUDレンズなど、色収差を補正するいろいろな材料を使用し、優れた光学性能を実現して来ました。しかし、今回のような大口径の広角単焦点レンズでは、色収差だけではなく他の収差補正などとの兼ね合いで、従来の光学材料だけでは対応しづらい面があました。

そこで今回は、従来にない高い描写性能を実現する手段として、光学設計上どのような波長分散特性を持った光学材料が必要かを一から検討し、今回の材料を独自開発するに至りました。

BR光学素子を含む「BRレンズ」。一見、1枚のレンズに見える
BRレンズは、2枚のレンズの間にBR光学素子を入れて貼り合わせたもの
BRレンズの断面

――BRレンズとは、前後の凸レンズと凹レンズを含めた光学系を言うそうですが、BR光学素子単体ではレンズにはできないのでしょうか?

石橋:形として単体のレンズにすることは可能です。しかし、BR光学素子はとても高い異常分散特性を持ちますので、非常に薄い形状でも色収差を補正する効果は十分得られます。そのため、薄い形状で高精度に機能させる構造を追求した結果、今回のようにレンズとレンズの間に貼り合わせる構成になりました。

――あまり薄いと保持するのが難しいので挟んだ構造にしているということでしょうか?

石橋:そうですね。

――レンズ構成を見ますと、凸レンズと凹レンズを組み合わせたいわゆる色消しレンズの間にBR光学素子がありますが、凸レンズと凹レンズで赤と緑の2色の補正ができ、BR光学素子で青も補正して、アポクロマートになっているのでしょうか?

石橋:イメージ的にはそれに近いのですが、レンズ構成の中のBRレンズ単体を取り出してアポクロマートになっているかといえば必ずしもそうではありません。レンズ構成の中程にありますので、前後のレンズと組み合わせてトータルでアポクロマートになっているということになります。

西村:望遠ズームの前群やフォーカス群などでは部分部分で色収差をおさえておかないと、収差変動が大きくなるということがありますが、このレンズの場合BRレンズの部分だけで色収差をおさえているのではなく、もっと広い範囲で色収差が完結するように設計しています。

BRレンズによる色収差補正の原理
【通常ガラス】凹凸レンズを組み合わせるだけでは青色の波長(短い波長域)を補正しきれず、集光位置がずれる。そのため青色が滲みとなって現れる
【BRレンズ】青色の光を大きく屈折させるBR光学素子を凹凸レンズに挟むことで、可視光の波長全域を1点に集光できる

――F1.4クラスの大口径レンズは、近接撮影をすると焦点位置の前後のボケ部分にマゼンタやグリーンの色ニジミが生じるレンズが多いです。先ほどのディスタゴンや前モデルのEF35mm F1.4L USMもそのような傾向がありましたが、色ニジミが出てしまう原因は?

石橋:色ニジミは各波長によって結像位置がずれてしまう軸上色収差によって起ります。前モデルのように色収差の補正後でも、わずかに軸上色収差が残っている場合は、ピント位置に対して緑の波長域はやや前ピン気味に、赤と青の波長域はやや後ピン気味になります。そのため、前ボケ部分には赤と青を合わせたマゼンタ色の輪郭が、後ボケ部分には緑色の輪郭が出る傾向があります。

――なるほど、軸上色収差の説明でよく焦点部分で青色光が前ピン、赤色光が後ピンになる図がありますが、実際の軸上色収差は補正されているので、緑が前ピン気味、赤と青が後ピン気味になるのですね。これに対して、今回のEF35mm F1.4L II USMでは、この色ニジミが全くと言ってよいほど感じられませんでした。こうできた理由は?

石橋:これはやはり、新開発のBRレンズによって軸上色収差を高度に補正したことで色ニジミをなくすことができました。

――BRレンズはどちらかと言えば広角レンズに向いている素材なのですか?

西村:蛍石、DOレンズ、そしてBRレンズとありますが、設計の際はレンズのスペックに適した特性は何かを見ながら選択しますので、特にBRレンズに適したスペックがあるわけではありません。あくまで、選べる選択肢の中の1つと考えています。レンズのスペックによっては望遠レンズに使われることもあると思います。

――そういえば、先日ニューヨークで開催されたCANON EXPO 2015で、EF600mm F4L IS DO BR USMというレンズが展示されていたというニュースを思い出しました。ところで、BR光学素子が樹脂レンズだとすると、温度変化に対する収縮性や、経時変化による変色や変形、劣化なども気になります。

石橋:新規に開発した有機光学材料ですので重点的に検討を重ねました。そして製品規格を十分達成していますので、全く問題ありません。

BR光学素子の原料となる有機光学材料

西村:もともと樹脂は、複合非球面レンズやプラスチック非球面レンズ、回折光学素子などで従来から使用していますのでノウハウがあり、今回も十分検討を行っております。

――BR光学素子は、自社開発、自社生産なのでしょうか?

石橋:素材に関しましては、ゼロから自社で開発したもので購入品などではありません。レンズの製造も社内で行っています。

高価でも研削非球面レンズを使う理由

――先ほどもありましたが、非球面レンズが前玉と後玉の2枚配置されていて、後側の1枚は研削非球面レンズだそうですね。見たところ、それほど大きな口径でもなく、曲率も普通ですが、敢えてコストのかかる研削方式で作る理由は?

西村:研削非球面レンズの特徴は、面精度を高いレベルでコントロールできるところにあります。それ以外の部分もガラスモールド非球面レンズに比べるとはるかに高精度に作ることができます。ガラスモールド非球面レンズでは、どうしても「倒れ」とか「平行偏心」など、レンズの表面と裏面の基準軸が倒れるようにズレたり、平行方向にズレてしまう問題があります。

――ガラスモールド非球面レンズで、1枚のレンズの表面と裏面の軸がズレることがあるのですか?

西村:はい。ガラスモールド方式の場合、製造装置に可動部分があって、ガラスに圧力をかけて成形する時に表面と裏面の軸がズレることがあります。また、可動部分に隙間がないとレンズを取り出せません。隙間があるということは、その部分でわずかなズレが生じるということなのです。

ミクロンオーダーの話しなので、一般のレンズではそれほど問題になることはないのですが、今回のレンズのように高画質のレンズでは、そのわずかなズレが画質に影響してきます。

それと、研削非球面レンズの場合、研削痕が出ないかということもよく聞かれるのですが、現在では研削技術の向上で跡が目立たないようになっています。また、コスト面もいろいろと工夫をしていまして、高価ではございますが以前ほどコストはかからなくなっています。

――2枚の非球面レンズの働きを教えてください。

西村:これは先ほどもありましたが、前側の非球面レンズは広角レンズ特有の歪曲収差、像面湾曲をおさえる目的が大きく、後側の非球面レンズは大口径レンズで発生しがちな球面収差も補正していますが、前後のバランスをとってトータルでの描写性を向上させる目的で使用しています。

構成の中程に非球面レンズを使うと球面収差を補正しやすいといった面もありますが、球面収差はある程度枚数のあるレンズでは他のレンズでも補正しやすいですし、ズームレンズなど構成が移動する場合も部分群ごとに収差を抑えておく必要があるので非球面レンズを使うと効果がありますが、今回のような単焦点レンズの場合はいちばん前と後に非球面レンズを置くのが効果的です。

――絞り開放で夜景を撮影しますと周辺部でも点光源が若干太った感じに見えるくらいで、十分点に見えていました。大口径レンズによく見られがちな点光源が翼を広げた鳥やコマのように写るいわゆるサジタルハロが非常に少ないのには感心しました。こういった画質を実現できた光学的なポイントは?

西村:色収差とサジタルハロは、今回重点的に直そうとした項目でもあります。単に画質全体を向上させるだけでなく、点が点に写るいわゆる理想のレンズを目指したときに、同心円状に広がるサジタルハロは目立つ収差なので、できるだけ抑えました。

鳥の翼のようになるのはサジタルハロだけでなく他の収差でそう見える場合もありますが、コマ収差全体をおさえる目的で、先ほどの前後の非球面レンズを採用したという面もあります。

それとレンズの構成図を見て頂くとわかるのですが、今回のレンズでは前モデルに比べ前群の構成枚数を大幅に増やしています。これは軸外光束が光軸から離れる前群部分に力をかけ、周辺画質の性能を向上させるためこういった構成にしています。

――また、夜のイルミネーションを絞り開放でボカして撮影すると、広角レンズとは思えない非常にきれいな玉ボケが得られていました。境界ははっきりしているが、ボケの中はほぼ均一で理想のレンズに近いようなボケ方かと感じました。設計上はどのように設定されたのでしょうか?

西村:ピントの合ったところは描写性能を良くするということでいいのですが、アウトフォーカス部分の描写は結像性能だけでは決まらない部分がありますので、昔からあるボケに関するノウハウを活かすと同時に、最近では画像シミュレーション技術によってボケの様子を評価しながら設計を進めています。

――キヤノンが考えるきれいなボケとは?

西村:一般的には均一で、真ん中に芯が残って周辺に行くに従って薄くなるふわっとしたボケということになると思いますが、“ボケ味”となるとあいまいなので難しいです。

どちらかというと、ボケの周囲の色ニジミであったり、ボケに濃淡があると2線ボケになったりする場合に、はっきりと悪いとわかるボケの原因になる収差を取り除くようにしていて、そういったボケに関する欠点がないレンズが理想ですね。

――イルミネーションの玉ボケをよく見ると、画面周辺部でボケの形がレモン型になる口径食はそれほど気になりませんでしたが、ミラーボックスによる画面上下(横位置の場合)のケラレ(玉ボケがかまぼこ型になる)はちょっと気になる場合もありました。ミラーボックスによるケラレを目立たなくする撮影法はありますか?

西村:超望遠レンズの場合もそうですが、絞り開放では目立たなくすることはできません。ただ、絞り込むとボケは小さくなりますがケラレの部分が写らなくなりますので目立たなくなります。

――近接時と無限遠付近でボケの形は変わりますか?

西村:多少は変わります。撮影距離によって画面の中心部は球面収差、周辺部は像面湾曲など多少の収差変動があり、性能が微妙に変わります。しかし、このレンズの場合は、他のレンズに比べると収差を非常に少なくしてありますので多少の収差変動があったとしても、ボケが汚い方向に行くことはありません。

撮影倍率アップの謎

――最短撮影距離は前モデルは0.3m、今回は0.28mと2cmしか変わらないのに撮影倍率が0.18倍から0.21倍へと距離感以上に大きくなっているはどうしてですか?

西村:最短撮影距離は結像面からの距離ですが、このレンズは前モデルより大きくなっていますのでワーキングディスタンスは2cmよりさらに短くなり、より大きく写る傾向があります。

――35mmは準マクロレンズ的な使い方ができるレンズも多く、もう少し寄れると理想的なのですが。

西村:前モデルもこのモデルも共にリアフォーカスを採用していて、後群が無限遠時は後端にあって、近接撮影になるほど前方に繰り出すのですが、倍率が上がると急激に繰り出し量を増やさなくてはなりません。繰り出しのためのスペースを確保するためには、レンズがさらに大きくなり、重くなって価格も上がってしまうのです。

実はこのレンズの場合性能が良いので、もっと寄れる設計にできるのですが、大きさ重さと価格などのバランスを考えて現在のスペックに落ち着きました。

――SWC(Subwavelength Structure Coating)はどの面で採用していますか?

西村:これはカタログでも公表していますが、前玉の裏側です。SWCはゴーストの低減に効果的なところとして、広角レンズの前玉の深い曲率のところに採用することが多いですね。構成枚数が多くなるとゴーストやフレアは出やすくなるのですが、それを抑える方法としてはSWCは非常に効果的です。

コーティングについてもシミュレーション技術の向上で、どの面にどのコーティングを行うと最適であるとか、ゴーストが出ないような曲率を採用するなど、事前に確認できるようになっています。

フォーカスレンズ質量増でもAF速度・停止精度・耐久性は落とさない

――AF機構で改善はありますか?

佐藤:本製品はフォーカスレンズ質量として一部の全体繰り出し製品を除いて過去最大の質量になっており、フォーカス駆動機構として成り立たせることに苦労しました。特に、高画素から必要とされるフォーカスレンズの停止精度を他のLレンズ同様向上させることが機構設計のポイントでした。

――AFスピードは?

佐藤:従来のLレンズのスピードとほぼ同様です。フォーカスユニットはかなり重いのですが、従来と同じスピードで駆動し、しかもより正確に停止させるように工夫しています。

西村:写真を見る条件が従来より拡大して観察する機会が多くなっていますので、AF精度もより向上させる必要があります。

――耐久性が向上しているとのことですが、具体的には何に対する耐久性が向上しているのですか?

佐藤:フォーカス駆動機構の耐久性を他のLレンズ同様に向上させています。フォーカスユニットレンズが重いということは、それを駆動させるモーターから停止させるブレーキ制御などあらゆる駆動系・駆動機構全体の耐久性を他のLレンズ以上に向上させる必要があり、そう言った意味でも耐久性を向上させています。

――耐久性の向上のために改善した部分は?

佐藤:駆動機構部分にベアリングを入れて負荷を低減させ、数μm単位の摩耗が仮に生じても付勢(バネなどによって押し付ける)構造を取り入れてガタツキをおさえる工夫をしています。また、部品同士が摺動する部分には特殊な表面処理を施して硬度を上げるなど、細かな所ですが、いろいろと耐久性を向上させる工夫をしています。

――レンズの作動耐久の基準値のようなものははあるのでしょうか? 前モデル比でどれくらい耐久性が上がっていますか?

佐藤:社内的な基準はありますが公表はしていません。ただ、前モデルがフィルムカメラ時代の基準で作られたものであるのに対して、今回のモデルはデジタルカメラを基準にした規格で作られていますので、前モデルよりも耐久性は向上しています。

――レンズは日本製ですか?

山口:はい。宇都宮工場で作っています。

――先日キヤノンでは、デジタルカメラや交換レンズの製造を完全自動化すると報道がありました。交換レンズの場合、2012年に宇都宮工場でレンズ組み立てを自動化するとの報道もありました。このレンズの場合は、組み立てが自動化されている部分はありますか?

山口:このレンズに関しましては、一部自動化している部分もあります。

――スマートフォンなども組み立てが全自動化されていると聞きますが、自動化の流れはどんどん進むのでしょうか?

山口:自動化を目指している状況ですので、そういった流れにはあります。

デザインを検討したモックアップの1つ

――最後に各ご担当部分で、言い足りないこととか、この部分に注目して欲しいということがございましたらお1人ずつお願いします。

山口:このレンズは、企画段階から「圧倒的な性能を目指す」というコンセプトのもと、光学設計、メカ設計、BRレンズ開発チームをはじめ、関係各所の協力のもと、Lレンズとして自信を持ってお勧めできるものに仕上げることができたと思っています。ですので、ぜひご使用頂いて、サジタルハロの少なさなど体感して頂けたらと考えています。

西村:私はもう画質につきると思います。企画段階から圧倒的な画質を目指して設計し、他社には負けない、フラッグシップにふさわしい性能を実現できました。特にF1.4開放でこれほど高い画質が得られるものは,自社はもとより他社を含めても広角レンズでは今までにない、最高のものができたと考えております。自信を持っておすすめできる1本です。

石橋:レンズに要求される光学性能は年々高度になってゆくと思いますが、弊社では既存の技術の改善に取り組みつつ、BRレンズのような全く新しい技術も取り入れながら、ユーザーの皆様に満足頂ける製品を今後も提供していこうと考えています。ぜひ、今回のEF 35mm F1.4L II USMをお使い頂き、その高画質を体験して頂けたらと思っています。

佐藤:私も長年EFレンズの設計に携わって来ましたが、色収差も含めてここまでいい性能の広角レンズは正直見たことがないです。それくらいいいレンズなので、ぜひこだわりのある方に使って頂きたいと思います。

 ◇           ◇

―インタビューを終えて― いつかは使ってみたい、キヤノンの理念を体現した1本

インタビューに先立って、僅かな時間であったが、EF35mm F1.4L II USMを試写する機会を得た。開放F1.4クラスのレンズといえば、絞り開放ではやや描写が甘く、2〜3段絞ると急激に画質が向上するのがお約束でもあるため、さほど期待もせずに撮影を始めたが、その思い込みが間違いであることに気がつくまでに時間はかからなかった。

F1.4の絞り開放なのにコントラストが高く空気感が澄み切っている。拡大すると驚くほど先鋭感があり、周辺部まで乱れがない。「こんなレンズは見たことない」というのがこのレンズに対する第一印象であった。その後の撮影で、ピントの合った部分の前後の色ニジミが皆無であることや素直で美しいボケを確認すると、第一印象は筆者の中で確信へと変化していった。

これを受けて、インタビューでは高画質化の核心部分についていろいろと聞いてみた。中でもEF24-70mm F2.8L II USM以降、EFレンズの評価基準が上がっていることは周知であるが、あらためて評価基準について聞いた下りで、設計者自ら将来のさらなる多画素化を見越して設計し、ユーザー目線の評価基準として、ピクセル等倍での評価を目標にして開発したことを明かして頂いたのは驚きであった。それなら最近のEFレンズの高画質化、とりわけEF 35mm F1.4L II USMの超絶画質も納得がゆく。

また、今回はブレイクスルーとなる光学技術として、「蛍石」「UD/スーパーUDレンズ」「DOレンズ」と並ぶ第4の特殊光学素子「BRレンズ」を投入し、大口径レンズの色収差問題を解消して見せたのもいかにもキヤノンらしい課題の解決策でなかったかと思う。研削非球面レンズの投入もしかり。

かつて、キヤノン 光学技術研究所の金田直也所長にインタビューした際、キヤノンの開発陣には“進取の気性”(習慣にとらわれず、意欲的に新しいことへ挑戦する精神)の企業風土があると伺った。今回のレンズはまさにそんなキヤノンの開発陣の理念が込められ、体現された1本であるということは、開発陣のみなぎる自信からも十分感じ取れたと思う。

“いつかは○○○○”という宣伝文句があるが、普段はちょっと手が届かない高みにあるけどいつかは使ってみたい。このレンズは、そんなあこがれの思いと期待を決して裏切らない“フラグシップ”な1本なのだった。

杉本利彦

千葉大学工学部画像工学科卒業。初期は写真作家としてモノクロファインプリントに傾倒。現在は写真家としての活動のほか、カメラ雑誌・書籍等でカメラ関連の記事を執筆している。カメラグランプリ2013選考委員。