Photographer's File

 #18:茂手木秀行

取材・撮影・文  HARUKI



茂手木秀行(もてぎひでゆき)

プロフィール:プロフィール:1962年、東京都大田区生まれ。1986年、日本大学芸術学部写真学科を卒業後、マガジンハウス入社。以来24年間フォトグラファーとして雑誌「クロワッサン」、「ターザン」、「ポパイ」、「ブルータス」を経て2010年フリーランスとなる。1990年頃よりデジタル加工を始め、1997年頃からは撮影もデジタル化し、編集・デザイン・印刷現場との折衝・調整業務を経験。ポストプロダクションから「撮影」を見るという視点も持つ。2004/2008年雑誌写真記者会優秀賞。個展多数開催。著書に「Photoshop Camera Rawレタッチワークフロー」(ワークスコーポレーション刊)。



7歳にして銀座の女性モデルを撮る

 いまでこそ朝の連ドラ“梅ちゃん先生”の舞台になっているが、戦後昭和の高度経済成長真っ盛りでまさに復興日本が世界に向けてイケイケドンドンのさなかに誕生した茂手木秀行。

「昭和30年代後半の蒲田は、いくつかの大きな企業の工場とたくさんの町工場がビッシリあって、工場の煙突からは煙もくもく吐き出す京浜工業地帯だった。家から5分で多摩川だったから、子供の時の主な遊び場は多摩川だったね。当時は未舗装の道路も多くて、走ってる自動車もマツダのオート三輪とかばっかりで、工場で働く工員さんの住むアパートがたくさんあって小学校の同級生なんかたくさん住んでたけど、風呂ナシ共同トイレの4畳半アパートに家族4~5人で住んでるっていう子も結構いたね。うちの実家はお袋が美容院やってて、いわゆるパーマ屋さんね。狭い家だったけどお店で働く女の人たちが何人も住み込みでいたよ。未ださ、家に風呂が無い時代だから朝シャンはあり得ないし、町工場の女将さんたちが仕事に出掛ける前に髪の毛をセットしに来るわけ、夕方以降になると今度は夜の世界のお姉さんたちが来るわけよ、だから朝早くから夜まで結構忙しかったみたい。小学校に上がる頃に親父が脱サラして茨城県で土建屋を始めてから今に至るまでずっと別居生活。離れて暮らしてるけど離婚はしてなく、80歳になる今でも離婚したいとか言ってるよ(笑)。2人兄妹で3つ下の妹は童話作家をやってます」


5月半ばのある日、羽田空港界隈をニコンD800のムービー機能を使って映像を撮影するというので同行させてもらった。撮影エリアは茂手木くんが生まれ育った昔の蒲田にも似て、学生時代とかに実際によく出入りしていたという近辺。少年の頃に見た記憶を辿るというのがテーマにもなっている。バイクにカメラと液晶モニターを取り付けて、同じ道を何度も何度も繰り返し走行しながら、いいタイミングを取ってゆく作業。ボクも後ろに乗っけてもらって、ちょっとだけ走ったけど微妙な揺れが良い映像効果として現れる走行スピードと、ブレを感じないちょうど良いスピードがあるという。聞いたけど内緒です(笑)。その後、花とおじさんは事務所へ帰ってから編集用モニターでチェック。この日はD800に50mm F1.4、35mm F1.4がメインだった。愛車はハーレー・ダビッドソンの883Rというバイク。


5月末、さっきのムービー撮影の続きを取材にお邪魔したのは城南島海浜公園。今日はアシスタントにハルカ女史も同行。真夏日のような中を冷たい水を補給して、さあスタートっていうところで、茂手木くんはiPhoneを落っことして保護ガラスを割ってしまうわ、ハルカはカメラとモニターを繋ぐケーブルを忘れて駐車場まで走って取りに戻るわ、ボクは充電していない方のバッテリーをカメラに入れてきたわで、全員早めの夏ボケ(笑)。前回は道路や道ばたの花なかり撮っていたが、今回は東京湾を行き交う大型タンカーや頭上スレスレを飛ぶ飛行機たちが被写体。カメラは同じくニコンD800だが、メインレンズには70-200mmの望遠ズームを多用。

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――はじめに写真そのものとかカメラとかに興味持ってスタートするきっかけは、いつ頃、どんな事だったんでしょうか?

「蒲田で美容院やってたお袋が、銀座でモデル事務所をやりだしたのね。それでファッションショーとかに俺も子役で出たりしてたの。そうすると待ち時間にカメラ持たされて写真を撮らされたりして、当時は子供がランウェイとかをチョロチョロしてても全然OKだったんだ。だから子供ながらにキレイなお姉さんたちを撮っていたね」


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――そっかあ、じゃあ茂手木くんは7歳か8歳にして既にこの世界はファッション写真からスタートしたわけだね(笑)。当時のチビッコ・カメラマンの茂手木先生はどんな機材をお使いだったんでしょうか?(笑)

「当時、先生のお使いになられたカメラは、家にあったミノルタのユニオマットっていうレンズ交換できない距離計タイプのカメラでございました(笑)。小学校の授業が終わると友だちと多摩川で遊ばない日は、ひとりで銀座へ行ってモデルクラブの事務所でお姉さんたちとゴロゴロして遊んでた。あの頃の銀座は景気が良い時代だし子供は珍しいから可愛がられてたな。近所のお店とかに顔を出したら大人たちがご馳走してくれたり、お小遣いくれたりして何処へ行ってもお金がかからなかったんだよ。良い時代だったなあ~」

――なんか字面だけで想像すると日活映画に出てくるゴロツキみたいだけど、未だ子供だったから良いんだよね。まさかこんな大人になるなんて誰も想像しなかっただろうなー(笑)。その後の先生の成長過程などお聞かせください。

「中学で天文気象部に入って買ったのが、ニコマートFT2、レンズはニッコール50㎜ F1.4。F1.4付きは高かったんだけど、50mmのF2は前玉がちっちゃくて格好悪かったんだよね。その点F1.4はでっかくて格好良かったんだ~。なんせ見た目は大事だからね~(笑)」

――天体観測やってる人には常識かもしれないけど、ボクも含めてまったく知識のない読者にもわかるように、やり方の簡単なイントロだけ教えてください。

「まずは赤道儀に乗っけた天体望遠鏡を北極星に向けて設置します。そして目的の星に向けます。地球の自転に合わせて星は動いているので、ギヤが付いてる微動ハンドルで追いかけていくのね。その間、取り付けたカメラのシャッターをバルブでずっと開けて撮ると、星が点に写るわけです。今はそれを機械が自動追尾してくれるからだいぶん楽になったんだけどね。あの頃は来る日も来る日も、夏は蚊に刺されながら、冬は凍えながら、夜空に向けて天体撮影をしてました。えっ? 何が楽しいのかって? 趣味ってそんなもんじゃん」

――ボク自身は天体観測って経験がないけど、まさに“変態観測”なんだね。

「うまいっ!(笑)」


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ちょうど1年前の夏、スタジオで化粧品のブツ撮りをするということで急遽駆けつけて取材させてもらった。ビバリー・グレン・ラボラトリーズという外資系の化粧品会社のウェブサイトと広告用の商品撮影。ずいぶん遅れて現場に入った時にはかなりのカット数の撮影が進んでいた。4×5のホースマンLのボディーにキヤノンEOS 5D Mark IIを取り付けての撮影方式だった。すべて35mmのデジタルカメラで撮影して、後からPhotoshopなどで修正する方法もあるのだが、ここではMacBook Proに直結した画面で確認しながら歪みやパースなどをシフト&ティルトを動かして修正するダイレクトなやりかたを選んでいる。レンズは24-70mm F2.8標準ズームがメイン。露光量をおさえるためにレンズ前枠にはNDフィルターを装着。皆さんが真剣に働いてる横でパックを試したりして遊んでしまった事をお詫びいたします(笑)。茂手木氏は出版社時代からブツ撮りも多く、実際の広告撮影なども実は多く手がけている。


画家と文筆業の中間を取って写真の道に

――ファッションカメラマンの先生から中学では天体観測者になったわけですが、高校生になるとどうだったんでしょうか?

「通ってたのは芝学園っていう中高一貫の私立の進学校だったんです。これはかなりの自慢なんだけど、実はその中でも学年で後ろから1番2番を争っていたのね(笑)」

――あ、それはいわゆる世間で言うところの“逆トップ争い”というダークサイド・ウオーの事ですね?

「高2くらいで写真部や山岳部にも出入りするようになり、ニコンF2と28㎜ F3.5を買って、天体以外にもスナップや山の写真も撮るようになってた。そう、さっきの逆トップを争っていたんだけど、国語と美術の成績だけはマジで良かったのね。成績が悪い生徒でもいちおう進学校だから先生の指導は素晴らしくって」

「美術の先生が高名な日本画家、奥村土牛の息子さんだったのね。当時はまだ奥村土牛先生がご存命だったので、“お前に進学は無理だからうちに来い”と美術の先生から言われ。つまり土牛先生の弟子になれと。国語の先生は“何か文章を書くような職業に就けないだろうか”と仰り。それを取りまとめる柔道の先生曰わく“中間を取って写真というのはどうだ!?”って(笑)“日大の写真学科という所があるぞ、そこでどうだ?”といういきさつで、一浪した後に行ったのが日芸でした」

――それが意味するところは、“これから写真のプロになって生活をしていく”という覚悟を決めていたわけなのかなあ?

「あの時代は今みたいに誰でも写真をやるようなヌルい感じじゃないからね、HARUちゃんもそうだったと思うけど、“写真という技術でメシを食べて行くんだ!!”っていう覚悟がないと大学まで行かなかったじゃない。うんうん、そうねー、確かに先生になる人や研究する人も行くけど、俺の場合は完全に撮影技術を身に付けてプロカメラマンとして飯を食えるようになる! というのが目的だった。で、さらにその中の具体的なジャンルでいうと広告写真。技術論としての広告写真。ちゃんと学んで技術を磨いていけばいつか先輩のようになれるっていう道があったじゃないですか?」

 基本的に人の写真には興味がないという茂手木くんだが、学生時代には奈良原一高さんは好きだったという。
その頃、どんな写真を撮っていたのかを訊いてみた。

「テーマを決めてやっていたのは長時間露光なんだ、ずっと。天体写真からの流れなんだけど、低照度相反則不軌といって長時間露光になると感度が低くなるでしょ? それをテーマにずっと撮って、今も変わらずやっております。4年間でかなり真剣にやるじゃん。その当時に培ったことは今でも役に立っているよ。例えば、銀塩フィルムのセンシトメトリー的な話しをする時にも、デジタルに置き換えると標準反射グレー濃度(18%)が118の時にsRGBに相当して、sRGBが118になると適正露光であるとかね。今、本にも書いてるようにカラーマネージメントの事も早くからやってきてるじゃないですか? アレを理解するためにはセンシトメトリーが必要なんだよねえ。写真っていうものは技術論があってその上に表現が乗っかってるから、その部分では技術論がとても大事だと俺は思うんです」

 まるで研究者っぽい言い方だけど、今の茂手木くんがやってる講演などではこのようなテーマが多いのも頷ける。

――じゃあ学生時代は毎日長時間露光で相反則不軌と闘っていたわけなの?

「いえいえ日々アルバイトに明け暮れていました。全部、写真関係ですが。フリーカメラマンのアシスタント、広告代理店カメラマンのアシスタント、タウン情報誌の取材撮影etc。一番多い時には8カ所登録していて、週5日、1日3件掛け持ちでやってたねー(笑)。情報誌のカット撮影なんてって感じだけど、当時は露出とピントが合って、ポジに写るというだけでも大変だったからねー、今はカメラが良いからハードルが下がって簡単だけどサ……」

「大変だったのは、毎年夏にやっていた図鑑用の高山植物の撮影かなあ。夏の初め6月くらいからマミヤRB67とフィルム200本くらいを三脚やストロボ、着替えなどの私物も入れて担いで持って行くわけですよ。梅雨だからたいてい雨が降っているんですが、高山植物の群落とか見つけると取りあえずそこにザックの中の機材や荷物を全部降ろして撮影して、終わったらまた移動を始めるんですがちょっと歩いたら、さっきよりもっと大きくて絵になる群落が出てくるんですよ。そんで撮影して歩き始めたら、もっともっと大きな群落が現れるので、その繰り返し……(笑)。大変っていうよりかは、まあ半分楽しみながらだったんだけど」

――頭が悪い! いや、楽しみ方が巧いのか(笑)。

「確かに(笑)。その通り、頭が悪いんだけど確かに。写真は理論だけじゃなく、被写体の特性とかも知らなきゃダメだってことも身をもって学ぶわけですねえ(笑)」


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20年使ったのは富士フイルムのGX680。ニコンD2Xの出現でGXの時代が終わる

 雑誌に勢いがあって最も面白かった80年代の出版王国、マガジンハウスへ入社。

「当時は写真部制っていうのをやめていて雑誌編集部制だったんですね。そんで最初に配属されたのがクロワッサン編集部。配属されてすぐ4月の2日から撮影でした。そこからクロワッサンで約10年近く、毎日お料理の撮影でした。料理以外だとコメントで登場してもらう、いわゆる文化人といわれる人たちのポートレートやファッションを撮ったりもしていました。こっちもまだ若い男の子だったから、宇野千代先生とか白洲正子先生などの有名な方たちにも可愛がってもらってましたねえ。だけど、大部分が料理でした」

「会社では助手経験なく1年目からいきなりカメラマンだから、バイトのアシスタントを付けて貰って料理研究家の方のお家やキッチンスタジオへ行く毎日。年に数回、読者からのレシピを料理研究家さんが1日で70品とか80品とか実際に作って撮影する仕事の現場では、ライターや編集者が食べるんだけどさすがにもう無理ってなるので、俺たちも食べるの手伝って感想とか言わなきゃなんないの。お腹いっぱいでもとにかく喰う。それが辛くってさー(笑)。料理がキライとじゃないんだよ。中高のクラブ活動の時からキャンプとかしてたんで料理作るのは平気だったんだけどね。だってさ世の中バブルだから経費も使えるし、給料だって結構良いからここで食べなくてもいくらでも美味しいモノ食ってた時代だからねえ。1990年位に会社でMacやPhotoshopが導入されたのね、だけど誰も使わなかったから俺が使い出したのね。フィルムをスキャンしてMacに取り込んで加工したものの、プリンターのような出力方法がないからブラウン管を撮影したりしてたね(笑)。当時としては特殊効果の一環みたいな使い方だった」

 そんな9年半が過ぎて、クロワッサンから移動した先がターザン編集部。その後がブルータス時代、そしてポパイ。

「ターザンへ行ってからは被写体がガラッと変わり、外国人モデルとエクササイズになるわけです。料理がたまーにで“身体にいい料理”とかでね。マガジンハウスには芝浦にクルマも撮れる大きなスタジオがあり社員は使い放題だったんでね、そこではやたらと立て込みをやって楽しい撮影ばかりの5年間でしたね」

「次にブルータス編集部という部署へ異動になったんだけど、ここはさらにお金が使える雑誌だったのね。これは接待とか私利私欲とかそういう事じゃなく、もちろん制作費の話しですよ(笑)。だから自分のページだけ紙と印刷方法を変えたりとかの実験もできたね。普通の雑誌と違って号毎の特集だから3カ月くらい前からスタッフと打ち合わせて仕事を進めていくので、さまざまな実験的な事もやれていたから楽しかった。いろんな紙を用意してプロファイルを作って、印刷結果を試したりしてた。1999年頃、最初に使い出したデジタルカメラはニコンのフラッグシップ機D1とオリンパスのC-2500Lという250万画素のコンデジだったけど、コレで作品も仕事の撮影も始めてました」

「その当時はみんなも移行の途中の段階でやってみたいから、印刷会社や現像所なんかも自分たちもデータが欲しいから協力してくれるのよ。コレは実際にはものすごくお金がかかる実験だから個人じゃ絶対に無理なことで、マガジンハウスの社員だったからこそできたメリットだと思うよね。そこでやった事により世界中の誰よりも早く入稿の方法論を築いたとも思うし、自分の中での礎になってる。JMPA雑誌広告基準カラーというのができて、サンプルに使われたのが俺のやり方だったわけです」

 実際には会社では未だデジタル禁止だった中でやっていたので、社内ではかなり嫌われていたらしいが、やりたい事をやってたんだから仕方がないという(笑)。

「2005年くらいからポパイ編集部へ異動になって、その後は会社の体制が変わり、写真部になったんだけどポパイ担当だったから、会社時代は最後までポパイだったのです。2010年3月いっぱいで退職しました」

――20数年間のマガジンハウス時代にはどんな機材を使っていたの?

「ニコンは最初F3で始まりF4、F5、D1、D1X、D2Xまでは会社が買ってくれたカメラ。その後は俺が個人的に買ったコダックのプロバック、マミヤZD、リーフ、D3、最後がD3Sかな。その他には4×5はトヨフィールド、トヨビュー。コンタックスT2、ライカM3、フジTX1、ハッセルなんかも自分で買ったね。会社で買ってくれたカメラで20年使ったのがフジの蛇腹付きブローニーカメラのGX680。2000年ぐらいからほぼ100%デジタルに移行してたんだけどコレは良いカメラだったねー。D2Xが登場するまではずっと使ってたけど、1,200万画素のD2Xが出た時点で完全にデジタルが凌いじゃって、僕の中ではGXの時代が終わったね」

――銀塩フィルムからプロでやってきた我々の誰しもが経験する“デジタル化”だけど、茂手木くんにとってはデジタル移行の決め手は何でしたか?

「デジタルの方が情報が多くて表現の幅が広い、そして印刷に直接持っていきやすいから。フィルムの場合は撮影して現像した時点で情報が減ります(劣化)。ネガだとプリントする時点でまた減り、製版する段階でさらに減り、と何段階も情報が失われていくんだけど、デジタルだと製版の時だけで済むので効率が良いしコントロールし易いから」

「誰かのために写真を撮るというのはしたくない」

「世の中で良い写真だと言われている写真の多くは、被写体に意味があっても写真に意味があるわけではないという事にあるとき気がついてしまったのですね。写真と写真以外のアートの大きな違いは、“現場に居なければいけない”という事がありますよね。居なきゃいけない、そのためには準備や技術力を学んだりが必要なわけで、被写体性をなるべく排除した写真を撮ったほうが面白いんじゃないかって思ったんです。誰かと話しをするための共通認識として、ナニナニという被写体を例えるわけですが、大事なのはそこではなく自分の表現の方法論そのものなんです。だから道とか電線とか空ばっかり撮っているのですが何処にでもあるモノであって、物体の普遍性を求めた時にどれだけ自分の感情を表現できるか? っていうのが今の僕がやっている写真のスタンスなんです」

「僕の写真の学生時代からのテーマは長時間露光。長時間露光というのは何かっていうと、時間の混在です。当時の話しでも触れた、センシトメトリーと平均化ができなければ時間を混在させられない。時間の混在とは、短時間(瞬間の意)の時間を捉える事、あるいは逆に眼には見えない長い時間を積算する事の両方ですが、ここでは長時間露光という手法での表現を目指しています。技術論が無ければ精神の実現もできないというのが持論です」

この日はイメージ写真と作例の撮影で千葉県へ。梅雨に突入したばかりで、生憎の土砂降り。時々晴れたり曇ったりという不安定な天気だったが、何度も行ってる場所でも天候の変わったり時間が違ったりするほうが、かえって変化があって撮影には面白いと茂手木氏は言う。ニコンD800に24-70mm、70-200mm、そしてワイドから標準系の単玉は開放F1.4シリーズ。富士フイルムのX-Pro1。絞りは、開放から1~2段くらいの開け気味でボケ味を出す。

ニコン新宿サービスセンターで、6月に「空のかけら」というタイトルのシリーズ作品をミニギャラリーにて展示。作品のデータ解説付きで、ショールームとニコンサロンの間の壁面がちょうどよい感じで飾られていた。

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「すべて俺自身のアイデンティティーなんです。僕が写真に求めている事は誰かに好かれる事や誰かに受ける事ではなく、私という人間がこういうものを見ている。こういう写真を創っている。その結果が作品である。作品というモノが生き方そのものであり、それを求める人がいるからこそ一部分を切り売りしています。全部であれば作品、一部分であれば作例だったり技術です。これが写真家というものだと思うの」

「この自分というアイデンティティーが散りばめられているので、そして生き方そのもの全部をみていてくれたら“私”になります。それが必要だと感じてくれたらお金を払ってくれたらいいわけで、必要ないと思えば無視していい。人間ってそういう生きものだもん。僕は写真って何かっていうと自分自身の探求だと思うんだ、だからこそ同じ主張を続けて自分自身に囚われ、次に自分自身を破壊しようと思って年代を過ごして行くのです。人がどんなにすごい写真を撮っても、それはその人の人生でしかない。僕自身が被験者だから人には興味がない。自分であれば何処で何を撮っても、それは僕自身の記念写真だもの」

――なんだか難しそうな話しだけど、要は茂手木くんの場合は茂手木が茂手木を研究しているのかな? つまり茂手木は茂手木を作るのではなく、茂手木は茂手木を観察し続けていく茂手木研究家であるという解釈でいいんでしょうかねえ?(笑)

「それは当たっていますなあ(笑)。人間の3大欲求の次に来るのが“探求”という欲です。何故なら自分が普通の人間であると思っているからそれを楽しんでいます。異論はあると思いますが、社会的影響を及ぼさない範囲でそれ以外に有効なサンプルが採れないですな(笑)」


中央区・月島にある銀一のプロショップ、2FにてPhotoshopセミナー。場所柄、参加者の方たちはプロ写真家が多く、このセミナー終了後も真面目な質疑応答が続いていた。

7月に六本木で行われたコマーシャルフォト主催のAdobe Photoshop CS6の大きなイベントセミナーにて。D800を使ったムービーを映写しての解説や、Photoshopの改善された点、ニコンレンズのでの使用例などをわかりやすく解説。大きなイベントで参加者は多数。盛り上がっていた。

「カメラマンならプロ意識とプライドを持て」

 以前から何度か小説の話しをしたことはあったが、音楽は街を歩いていても勝手に入ってくるからあんまり好きじゃないという茂手木秀行。そんな彼も高校生の時に聞いて影響を受けたりしたのがラテン・ジャズやフュージョンのピアニストとして有名な松岡直也さんの音楽だけは大好きだとインタビュー時に持って来てくれたMacBook Airから聞かせてくれた。松岡さんの1980年発売の“SON”というアルバムの2曲目に収録されている“ADRIA“というインストゥルメンタル曲。

「高校生の頃だったかなー。当時は日本しか知らない大田区の蒲田から一歩も出たことがない少年が(笑)、この曲を聴いてはじめて外国の海を想い描いたわけですよ。実際に行けたのは27か28歳だったからそれから約10年後。イタリアのアドリアの海を見ながら本当にこの曲の通りのイメージだなって思った曲ですね」

 どちらかというとフュージョンはあまり聴かないボクでも松岡直也さんのお名前くらいは知っていたが、これは初めて聞かされた曲だった。音楽や小説からインスピレーションを受けることが多いタイプなので、こういった感受性はビシバシ伝わってくるしとても理解できる。

――一億総カメラマン化しちゃってるこんな時代ですが、ボクたちカメラマンはこれからどうしていけばいいんだろうね?

「うちにもよく若いカメラマンたちが遊びに来るんだけどね、彼らはデータが何であるかすらも知らない。シャッターを押せば写真が写り、それが自分の表現だと思っている。今はレタッチャーもいるし印刷のオペレーターもいるし、俺たちは知っているように自分たちの世界観だけではまとまっていないよね。そのうえブローカーみたいなデザイナーや編集者がいて若いカメラマンをタダ同然で使ったりしている現実があったりするじゃない」

「若い彼らは仕事がしたいから受けてしまう。それがすごく気に入らないねー。今は機械が優れてるからカメラを買えば誰でも写真が撮れるじゃない。それでカメラマンですみたいな仕事をされていると、カメラマン・写真家という職業のレベルを下げているし、俺たちをも含めてこの業界をなめられていると思わない? 仕事する以上はもっとプロ意識とプライドを持って、誰しもが最先端の事業に取り組んで欲しいと」

 確かに同感でもあるし、すべてを不況のせいにしてきた我が事として反省もしなきゃと。


――それでは恒例の好きな写真家、影響を受けた写真家を教えてください。

「すごいなって思う人は確かにいっぱいいるよ。だけど基本的には興味がないね。あんまり見ないようにしてる。だって自分じゃないんだもん(笑)。前にも言ったけど若い頃に見た、奈良原一高さんの“消滅した時間”にはとても衝撃を受けましたね。当時自分が目指していた、時間を混在させるという事において既にできてる人がいたかと思うと、非常に感銘を受けました。それ以降は自分の写真が一番好きです(笑)」

 彼は何でそんなに頑ななまでに、人の写真には興味がないとか、見ないとかって強く言うのかをとことん突き詰めてみた。その部分を子細に書き出すとただでさえ長いと言われてるこの原稿がさらに倍くらいになるのでやめておくが、とても理解できる言葉を吐かせることができて嬉しくなった。

「スゴイって写真を見たら影響されるじゃん。だってさぁ、本当に写真が好きだからさあ(笑)。自分自身の探求で手一杯だから、人に影響されてる時間はもう無いのよ。もう50歳まわっちゃったんだから、純粋培養のままいきたいんですよ」

 写真家としてはもちろんだが、技術解説やセミナーなど講演などの仕事も多くこなしている彼には、技術的にわからない事をちょこちょこ教わったりして助かっている。これからもボクの個人的なテクニカル・ティーチャーとしてご教授よろしくお願いいたします(笑)。



茂手木秀行Facebook:http://www.facebook.com/motegi.hideyuki.9
Photoshop×Camera Raw レタッチワークフロー他、Amazon茂手木秀行ページ

取材協力
アドビシステムズ
http://www.adobe.com/jp/
Beverly Glen Laboratories, Inc
http://www.bglen.net/
COMMERCIAL PHOTO/玄光社
http://www.genkosha.co.jp/cp/
銀一
http://www.ginichi.com/
サンディスク
http://www.sandisk.co.jp/
取材撮影機材

  • ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL、SMC Pentax 67 90mm F2.8、FA645 150mm F2.8[IF]
  • キヤノンEOS 5D Mark III、EF 16-35mm F2.8 L II USM、シグマAPO 50-500mm F4.5-6.3 DG OS HSM
  • ニコンD7000、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR
  • オリンパスE-P3、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R、M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8
  • パナソニックLUMIX G VARIO 7-14mm F4 ASPH、LUMIX G 20mm F1.7 ASPH
  • サンディスクExtreme Pro SDHC


(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
http://www.facebook.com/HARUKIphoto
http://twitter.com/HARUKIxxxPhoto

2012/8/7 00:00