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上野、浅草界隈
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このページに掲載された画像はすべて内原恭彦氏により加工された作品です。(編集部)
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先週は、上野や浅草に出かけて集中的に写真を撮った。以前、ある写真雑誌の編集者に「内原さんは、浅草なんかは好きじゃないでしょう?」と言われたことがある。どういう文脈だったか忘れたが、ぼくの自家製写真集のページをめくりながらのことで、ぼくの写真のテイストと「下町情緒」に満ちた浅草は合わないだろう、というような意味合だったと思う。「いや、そうでもないですけど……」と曖昧にぼくは答えた。
実際のところ、ぼくはけっこう浅草に写真を撮りに行っているからだ。と同時に、浅草では自分でも気に入った写真が撮れたという記憶はあまりなく、なんだか苦手な街だという気持もどこかにあった。ほんとうは、ぼくはどんな場所でも何でも区別せずに撮りたいと思っている。むしろ、好きではないものでも挑むようにして写真を撮るよう心がけているつもりだ。
そういった意味で、写真的に相性の良くないのかもしれぬ場所、上野・浅草界隈に何日か通い詰めることにした。
浅草寺や六区といった浅草の盛り場は「浅草通り」、「言問通り」、「国際通り」、「隅田川」の四方に囲まれた案外せまい区域なのだが、ぼくのイメージの中では「浅草界隈」はもっと広がりを持っている。南千住、上野、駒形あたりまでを、なんとなく浅草っぽい雰囲気の場所として捉えている。
このあたりは細い道が規則正しく縦横に走っており、とてもじゃないけどそういった小道のすべてに目は通していない。なんだかんだで、新宿より西の街はかなり細かい場所まで足を踏み入れているのだが、浅草は馴染みが少ない場所と言うしかない。
連休ということもあって、上野や浅草は大変な人出だった。老若男女に加えてさまざまな国の人々が街を埋めつくし、誰もが楽しんでいる雰囲気が感じられた。露店に積み上げられた色とりどりの品物、美味しそうな湯気をあげる立ち食い屋台の数々、大道芸人のまわりに集まった人垣などといった、ハレの雰囲気をかもし出す街頭で、ぼくは太陽が傾くまでのわずかな時間とメモリカードやバッテリーの残量を気にしながら、飢えたようにシャッターを押しまくった。毎度のことだが、なかなか気に入った写真が撮れなかったり、天気が良くなかったり、心の中は苛立ちでいっぱいだった。行楽している人たちとの気分の落差を想像すると、思わず苦笑させられもしたが。
ぼくはたいてい1人で写真を撮っているのだが、そういうとき頭の中はほんとうにどうでもいいような雑多なことを考えている。写真とはまったく関係の無いことを考えながら、無意識で目に映るものに反応してシャッターを押していることもある。そういう撮り方は、ぼくだけではないと思うのだが、どうだろうか?
撮った写真をあとでPCで見返していると、ほとんど撮ったことを覚えていないようなカットもある。もちろん自分が撮った写真であることは明らかだし、そうした写真を見ると「ああ、ここ撮ったんだな……」と、その光景が思い出されるのは無論なのだが。こういう状態は、上の空であると同時に、きわめて純粋に写真そのものに集中した結果であるようにも感じられる。構図をどうしようとか露出をどうしようとか、絵作りに関する技法的な詳細をいっさい考えずに撮った写真には、少なくとも表面を取りつくろったような装飾性は少ないと言えるだろう。もっとも、そういった無意識に撮られてしまったような写真をことさらに珍重するつもりもない。ただ、路上スナップをしていると、上の空でありつつ極度に集中したような状態となって、写真を撮ってしまうことがしばしばあるというにすぎない。
今回は結局のところ浅草に敗北したというか、腑に落ちる写真は撮れなかった。そもそも、浅草らしい写真を撮ろうと心がけているわけではないが、浅草という場所でしか撮れない写真を撮ったという実感は得られなかった。まあ、千数百枚の写真を撮ればこれくらいはひっかかるだろうというアベレージのできではある。
写真の収穫はさほどではなかったにしても、かなりしつこく路上を歩き回り、気分をざわめかせて写真を撮ろうとあがいたので、妙な充実感はある。写真にとって役に立たないような発見も多々あった。実を言うとぼくは、JPEGなりRAWなりといった画像ファイルとしての成果物よりも、写真を撮ることによってその場所と自分に新たな関係が生じることのほうが面白いと思っているくらいなのだ。
浅草界隈の町は、少々古びてはいるものの、そこの住人が町としての身だしなみを意識しているかのように、身ぎれいに節度をわきまえて暮らしているように感じる。清潔感があるし、調和を乱すような突出した「珍景」がない。代々そこで暮らしていることによって、お互いを見知っているがゆえに、みっともないことはすまいという気持が町全体から感じられる。
一方で、郊外というのは新参者が出入りするために、町がさほど親密な共同体を形作れない。他人の目を意識せず勝手な暮らし方をしている住人がいるし、それがある程度許容されてもいる。奇妙な自作オブジェで家を飾りたてたり、ゴミを庭に溜め込んだり、廃車をいつまでも処分せず放置したりといった「珍景」が広く見出される。
ぼくとしては、そういった郊外の無秩序な光景は写真を撮る上で大歓迎なのだけど、基本的には、浅草界隈は粋な住まいようが美徳とされる町だと思った。もっともそうした町並みの中に、ときおり盆栽で埋めつくされたような家がぽつんとあったりして油断できない。もっと隅から隅まで、小道の1本まで足を運んでみなければならないと思った。
今回は久しぶりに、自転車ではなく徒歩でも写真を撮ってまわった。最初は、目星をつけたポイントからポイントへ自転車で急ぎ足で巡回するようにして写真を撮っていたのだが、どうも調子が出ないので、ひとつの場所をこれ以上ないくらいじっくりとしつこく撮ってみようと思ったのだ。そもそもアメ横なんかは混雑していて自転車はとても通れない。
自転車から降りてはたして写真が撮れるのだろうか、という自分へのイジワルな興味もあった。6時間近く上野周辺を歩き回ったらさすがに疲れて翌日足の痛みを覚えたが、思ったよりは違和感なく撮ることができた。徒歩とは言っても移動しながらの撮影には違いなく、乗り物を使用することとは「視線の密度」が異なるだけなのかもしれない。もちろん、徒歩のほうがおのずと細かいところまで目が行くし、立ち止まって同じ場所を何カットも撮ったりする。それでも街を舐めるようにして撮るためには、徒歩ですらじゅうぶんではないと思った。
かつてバイトをしていた時の休憩時間などに、街角に腰をおろして缶コーヒーなんかを飲みながらぼんやりと街を眺めていた時のような視線が、街を撮る基本的な目線であるような思いがある。その場所で働いたり生活したりという経験無しで、街を撮ったことになるのだろうか、という疑問がある。とにかくバイトの休憩時間に眺めた光景というのは、今でも鮮明に記憶しているしなつかしい。アメ横の店で呼び込みをやっているバイトの人たちをなんだかうらやましく感じた。
上野の山の公園も一通り回ってみた。青いビニールシートで家を作って住んでいる人が見あたらなくなっていた。上野公園は以前からあまり興味をひかれない場所だったし、面白い写真が撮れたわけでもないのだけど、歩き回ってその高低やだだっ広さを体感することで、多少興味を感じた。
上野の山には寺社や墓地が数多く置かれている。江戸の鬼門にあたる北東(丑寅)の方向に寛永寺を建立して魔除けとしたということは、よく知られている。別にスピリチュアルな雰囲気を感じたりはしないけれど、そういう霊的に重要な場所が時代が下るにつれ変容して、公園となり美術館や動物園が作られ、かつてとはまったく異なった様相を呈しているということには、興趣を感じなくも無い。
動物園の出口には、メリーゴーラウンドをはじめとした小さな遊園地があり、人を集めている。大きな樹が何本も影を作り、上野の山の勾配がゆるやかな坂道となって、ひなびた駄菓子屋や五重塔と並んで、どこか昔の行楽地のような雰囲気がある。間違っても郊外の巨大なテーマパークのような見晴らしの良さはないのだが、妙に落ち着くらしく、たくさんの人がくつろいでいた。
考えてみれば、この辺は寺社、動物園、博物館、美術大学、遊園地、墓地、といった具合に種種雑多なものが隣り合わせに並んでいる。この混合ぶりは他の場所ではあまりみられぬことではないだろうか。新宿ともお台場とも違う、華やかでありながら俗っぽく、霊場でありつつ猥雑さをも感じさせるという上野の独特な魅力が、これだけ多くの人を呼び活気を失わないでいる理由かもしれない。
上野公園内には東照宮がある。徳川家康を祭神として祭った神社であり、日光東照宮をはじめ日本各地に数十社あるらしいことを知った。日光東照宮には及ばないが木工細工のほどこされた門や金箔のはられた金色殿は見ごたえがある。永年のうちに金箔は部分的にこすれ剥がれているが、そのダメージを受けた質感が気に入って、かつてCGのテクスチャに使うために撮影しに来たことがある。お寺とか神社といった歴史的な建築物については知識がないのだけど、形といい装飾といいさすがに美しいものだと思った。
金色殿を何枚か撮ってはみたのだけど、なかなか上手くいかない。オーソドックスに真正面とか真横とかを、遠くからパースをつけずに撮るしかないと思わされる。そもそもオーソドックスに撮ることも簡単ではないのだけど、それだけではまず自分の写真にはならないだろう。こういう時、スナップ写真の経験が生かせないのは残念なことだと思った。
最後の写真は、御徒町へと続くJRの高架下の隙間を撮ったものである。これは横位置で撮った3枚の写真を縦に3枚並べて、Photoshopで1枚に合成している。いわゆるスティッチング(複数の写真をフォトレタッチソフトなどで1枚につなぎ合わせる手法)だが、つなぎ目の処理などもレイヤーマスクを使って簡単にぼかしているだけなので、よく見るとどこでつないだかわかってしまうかもしれない。
最近は相変わらず単焦点50mmで撮っているのだけど、このように建物が密集した狭い隙間はさすがに画角に収めることができないので、そういう場合は複数のカットに分割して撮影して、必要ならスティッチングすることもある。
この場合は、感度はISO800、絞りはF11、シャッタースピードは1/40秒にマニュアルで設定して、カメラの構図を変えながら3カット撮っている。オートホワイトバランスにしていると、カットごとに色温度がわずかに異なって記録されるが、それはRAW現像時に修正することができる。ただ、こうした輝度差のある対象物は、露出を揃えても、ハレーションのせいでカットごとに明るさが変わってしまうので注意が必要だ。この写真も合っていない。
上野や御徒町のせまい路地を撮っていると、スティッチングで作品を作りたくなる場所が何カ所もあった。50mmというのは、分割撮影してあとでつなぎ合わせるのには適した焦点距離かもしれない。これを機会にふたたびスティッチングの作品を作ってみようと思っている。
■ URL
バックナンバー
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto_backnumber/
内原 恭彦 (うちはら やすひこ)1965年生。東京造形大学デザイン科中退。絵画やCGの制作を経て、1999年から写真を撮り始める。
2002年エプソンカラーイメージングコンテストグランプリ受賞、2003年個展「BitPhoto1999-2002」開催、2003年写真新世紀展年間グランプリ受賞、2004年個展「うて、うて、考えるな」開催
http://uchihara.info/ |
2007/02/15 01:01
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