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緑の法則─植物を撮る


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このページに掲載された画像はすべて内原恭彦氏により加工された作品です。(編集部)

 先日、ふと思い立って調布市にある神代植物公園( http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/jindai/annai/ )に写真を撮りに行った。家から自転車で小一時間ほどの距離にあり、年に何回か写真を撮りに出かけることがある。

 ところが今の季節は園内にはほとんど見るべきものがない。早咲きの牡丹の鉢が展示されていることを除けば、あとは蝋梅(ロウバイ)が咲いているくらいで、園内には花も緑も乏しくわずかな入園客が寒そうに歩いているばかりである。植物園は季節によって盛りをむかえる植物が異なるのは当然で、たとえばもう少しすれば梅の花が咲き始めるだろう。現在はどのような植物のシーズンなのかを、事前にホームページなどで調べてから来園すべきかもしれない。

 ただ、ぼくは満開の花の写真を撮ろうと思って出かけたわけではなく、冬の寒さで枯れた花でもないだろうか、という期待を持っていたのだが、それはかなわなかった。



 園内には大きな温室があり、さまざまな熱帯の植物が植えられている。中でも鉢植えのベゴニアを並べた室はとてもすばらしく見ごたえがある。ぼくは園芸にはまったく疎いのだけど、ここ以外でこれほど多数の大輪のベゴニアが並んだところは見たことがない。訪れるたびに写真を撮るのだが、温室の中ということもありかならずしも光量が充分ではなく、いまひとつぱっとした写真は撮れなかった。

 ちなみに温室内は鑑賞の邪魔になるため三脚の使用は禁止されている。最近はEF 50mm F1.4という明るいレンズと、高ISO感度撮影に強いEOS Kiss Digital Xを使っているので、手持ちで温室内のベゴニアをしつこく撮ってみた。

 撮っている時は夢中で楽しかったのだが、撮った写真をPCで見返してみると、どうも思ったようには写せていない。むずかしかった。まあ、思い通りの写真が撮れたことなどほとんどないし、それでもいいやと思っているのだけど、花に関しては「もうちょっと、なんとかならんかなあ」という思いがある。ゴミを撮ろうが戦車を撮ろうが人を撮ろうが、カメラの前ではすべてイメージとして等価だと思っているけれど、花を撮ることは気持の上でちょっと違いがあるかもしれない。ほんの少しだけ「はなやか」な写真を撮りたいという気分になるのだ。

 自分の写真を見返してみるとけっこう花や植物を撮っている。花を買ったり植物を育てたりという習慣はないが、植物全般が好きだし、それを写真に撮ることも好きだ。この連載でもおそらくほとんど毎回なにかしらの植物の写真がセレクトされているように思う。

 ぼくも年を取ると父親のように庭中を盆栽や植木で埋めつくすようになるのだろうか? おそらくサボテンや多肉植物さえ世話できず枯らしてしまう不精なぼくに園芸趣味は無理で、満たされぬ植物への愛を写真撮影によって代行しているのではないかと思うこともある。そういうわけで、これまで撮った花や植物の写真で愛着のあるものをセレクトしてそれについて書いてみたい。

 タイトルの「緑の法則」とは、かつてムーンライダーズの鈴木慶一のパートナーだったこともあるミュージシャンの鈴木さえ子のソロアルバムのタイトルから採った。「緑の法則」とはどういうものかわからないが、いい言葉だと思いずっと心に残っていた。もっとも、ぼくが撮った植物の写真を見返してみると、緑色より赤色に反応しているものが思った以上に多く、タイトルには一致しないのだが……。



 この枯れたカンナの花の写真は、タイの農村で撮ったものである。これまで何回も展示や雑誌などで発表しているのだが、なぜか心にひっかかり続ける1枚である。何回も現像や調整を繰り返してきたが、今どきの新しい現像ソフトで現像して細部を見てみると、かすかに手ブレしているのが残念だ。

 これに限らずおそらくぼくがもっとも多く撮った花はカンナだと思う。カンナは世界中どこにでもありふれた花だし、長い季節にわたって花をつける。それを見かけるたびに写真に撮ってきたわけだが、なかなかこの1枚ほど気に入った写真は撮れない。あらためて見返してみるとどこが良いということは言えないのだけど、ぼくらしい写真であるとしか言えない。良きにつけ悪しきにつけ、ぼくの代表作だと思っている。



 この多肉植物の写真は、つい先日撮ったものである。日没後に小岩から蔵前橋通りを自転車に乗って帰宅途中に、とある商家の軒先で見かけた。

 この旺盛に伸びさかる多肉植物の寄せ植えは、実は以前にここを通りかかった時にも撮影している。それほどぼくの目を引く被写体なのだが、あまりにも奔放な生命力と一般の草木花とへだたった異形さが不気味でもある。植物というよりも、雑貨屋で売られている用途不明の合成ゴムで作られたガジェット(小物)のようにも見える。さまざまな絵の具が混じりあって濁ったような色合いも好みだ。ホームセンターでよく売られているプラスチック製のプランターや植木鉢の色も絶妙にマッチしていると思う。



 どこかの庭先に植えられていたおそらく観賞用のトウガラシの類がしおれたもの。トウガラシやピーマンといったナス科植物の果実がしおれると、だいたいこういう外観を呈する。赤く熟していた果皮がしなびていくにつれてその色彩を失いまだら模様を生じ、しわがより複雑なテクスチャーへと変化していく。郊外の畑や植えこみなどで見かけるたびに、写真を撮るようにしている。

 ぼくは別にグロテスクな外観を求めてこういう枯れたトウガラシを撮っているつもりもなくて、ただ単に興味が引かれるとしか言いようがない。古典時代以前のヨーロッパの絵画では、果実(とりわけ虫食いを生じたりしなびた果実)は、加齢や失われた富といったような寓意を表すこともあるのだが、ぼくはそういった意味を込めているわけでもない。あくまで、視覚的な興味を感じているだけである。ただ、最近思うのは、やはり枯れたものや衰弱したものを撮った写真は、最終的には写真としての力を充分持ち得ないかもしれない。



 写真を始める前は、ポインセチアなんてぜんぜん好きじゃなかった。ポスターカラーで塗ったような無粋で暑苦しい色や単調な葉の形が植物としてのおもむきに欠け、ぼくの「園芸マインド」には訴えて来なかったのだ。ところが、デジタルカメラをかかえて街を歩き回るようになってから、冬の街の至るところに置かれたポインセチアの鉢植えにがぜん気持がひきつけられるようになった。写真の良いところは、自分が嫌いなものでも作品にしてしまえるところかもしれない。

 何のニュアンスもなく塗りつぶしたような赤い葉はいったん写真のフレームに収められると、画面を大胆に構成する力強い色面として機能する。おそらく改良園芸品種であるポインセチアは、かなり人工的な植物と言うことができるかもしれないが、そういった自然と人工のミクスチャーのようなものにも、被写体としての興味を感じるのかもしれない。



 郊外の幹線道路沿いに飾られていたこの花束は、おそらく事故の犠牲者に捧げられたものだろう。路上を自転車で走り回っていると、こうした供花は実によく見かけるもので、思った以上に交通事故というのは多いものだとあらためて思わされもする。

 もちろん、この写真はそうした交通事情を訴えるつもりでもないし、死にまつわるショッキングな題材を求めたわけでもない。どこの花屋でも売られているような定番の花束が、路上で風雨にさらされしおれつつもまだ生々しさを失っていない様子に興味を引かれる。ていねいに活けられた花やアレンジメントよりも、無造作に取り扱われた切り花のほうが面白い。切り花は生き物であると同時に素材やモノとして扱われるという両義性もある。



 何年か前に市ヶ谷駅前の植えこみに植えられていたジニア(百日草)。ジニアはその名の通り花が長持ちするところなど、路上の花壇などに向いているのだろうか、新宿駅のロータリーなどでも見かけたことがある。ジニアも以前はあまり好きではなかった。厚ぼったくて乾いた感じの花弁や、花をつけたままどんどん立ち枯れていくところなど、うるおいを感じさせないからだ。

 この写真のジニアの植えこみも半分枯れかけて汚らしい。自分で言うのもなんだが、むさくるしい写真だと思う。これはぼくのイメージとしては都市の中の荒地とでも言うべきものが撮りたかったのだと思う。排気ガスや陽光にさらされて枯死しそうになりながらも、しぶとくジニアが咲き続ける荒地のような。実際には数m四方の花壇なのだし、そもそも園芸品種としてのジニアは荒野には生えていないだろう。

 立体感や構成を感じさせない構図で撮ったのだけど、少々花の密度が足りなかった。そこで何度か撮りなおしたいと思って市ヶ谷駅前に足を運んだが、それ以後ジニアは見かけたことがない。公共の花壇は頻繁に植え替えられ、同じ花を見ることは少ないということに気づかされもした。




 荒川沿いの農地で栽培されている桃の花。おそらく切り花として出荷するためのものだろう。その下は横浜郊外の農地で見かけた名前も知らない黄色い花である。どちらもオールオーバー(画面全体を覆う)な構図である。ぼくが花を撮る時はこのようにオールオーバーに撮ることが多い。花の1本1本というよりも無数の枝葉花が入り組んだ複雑な構造を、画面いっぱいに収め、一見すると細かな色彩の点で埋め尽くされたフラットな色面だが、細部に注目すると複雑に入り組んだ植物の枝や花や葉が見えてくる、といった撮り方だ。また、奥行きや立体感があるような無いような見慣れない空間を表現してみたい。

 こうしたオールオーバーな構図で撮りたいと思ったのは、「畑」という場所の奇妙さにひきつけられたこともきっかけのひとつとなっている。言うまでもなく植物は生き物であり、ほうっておけば生命力の発露そのままに自由に成長しようとする。それをある区画に規則正しく植えつけ必要であれば施肥、剪定を行ない、人間の意図する規格に押し込めて大規模に管理する。農業というのは自然と人工といった相反するふたつの要素を含んだ営為だと思うが、それがはっきりと形として現われているのが「畑」だと思うのだ。だから、ぼくは自然の状態で生えている植物よりも畑で栽培されている植物のほうに視覚的には興味を感じる。まあ、単純に言うと植物が規則的に並んで生えているのが面白い、というだけのことなのだが。

 「畑」への興味をなんとか表現できそうなのが写真なのだけど、これもなかなか思い通りには撮れない。できるだけ広い範囲を撮影するために広角レンズを使うと、遠近感が強調されすぎてオールオーバーな感じが損なわれてしまう。かといって、長焦点のレンズで部分的に撮影してコンピュータ上でスティッチング(画像をつなぎ合わせる作業)をしようとすると、被写界深度が浅くなってしまい、パンフォーカスな効果が得られない。いろいろ工夫しながら何度も撮りなおしてはいるのだけど、いまだに納得のいく写真は撮れていない。もう少しすると、今年もこの畑に桃の花が咲くはずなので、また撮影にチャレンジしようと思っている。



 プリムラ・ポリアンサという名前だろうか、街の植えこみでよく見かけるサクラソウの花である。これは、夜の六本木通りで撮ったもので、ISO感度は1600に上げて、絞りも目いっぱい開けて手持ちで撮っている。単純な色と形をしたありふれた平凡な花なのだけど、なぜだか見るたびに撮りたくなる。もちろん街で見かけるたびに撮っていてはキリがないのだが、夜の照明の下で照らされたこの花はやけにきれいに感じた。

 プリムラは農家で大量に栽培されたものが出荷され、街角に運ばれて花壇に植えられているのだろうけど、あくまでも一時的な装飾品としての扱いで、シーズンが過ぎると容赦なく引き抜かれ廃棄されているようだ。だからといって別に感傷的な気分にはならないが、枯れたまま放置しておいてくれたほうが、ぼくが写真を撮る上ではありがたいのだが……。

 この花はきっと安価なのだろうとも想像する。丸の内あたりでは何百mにもわたって延々と植えられているからだ。植物というよりも彩(いろど)りを添えるためのオブジェといったありさまで、この花にあらためて目を向ける人がさほどいるとも思えない。ぼく自身も路上のプリムラはよく写真に撮ってはいるものの「絵」にならないことはなはだしい。でも、日ごろ見慣れて飽き飽きしたものを撮って、面白い写真にしたいという気持はある。




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  バックナンバー
  http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto_backnumber/



内原 恭彦
(うちはら やすひこ)1965年生。東京造形大学デザイン科中退。絵画やCGの制作を経て、1999年から写真を撮り始める。
2002年エプソンカラーイメージングコンテストグランプリ受賞、2003年個展「BitPhoto1999-2002」開催、2003年写真新世紀展年間グランプリ受賞、2004年個展「うて、うて、考えるな」開催
http://uchihara.info/

2007/01/25 01:36
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