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写真をめぐる言葉



 この文章を書いている今、窓の外には快晴の空が広がっている。この1週間でも最高の天気であることはまちがいない。まぶしい光がふりそそぐ屋外に写真を撮りに行きたくてしょうがないのだが、そうすることはできない。なぜなら、今日はこの原稿の締切日だからだ。

 ほんとうは日曜日までに文章と写真をアーカイブして編集部に送る約束になっているのだが、それが守られたのはほんの数回で、結局ギリギリの火曜日深夜までにFTP(ネットを使ったファイル転送)するのが精一杯といった状況が続いている。したがって火曜日はまず間違いなく一日中PCの前に座ってキーを打つことになり、当然外に写真を撮りに行くことはできない。もちろんこうなったのはぼく自身のせいである。写真を撮りに行かない夜間や天気の悪い日に原稿を書けばよいのだし、もっとてきぱきと効率よく仕事を済ませることができれば問題ないのだが、現実には毎週月曜日と火曜日あたりは部屋にこもらざるを得ない。

 急いで付け加えておくと、ぼくは写真について文を書くことはきらいじゃないし、そもそもが「Web写真界隈」という連載は自分からやらせてくださいと持ち込んだ企画でもある。仕事として連載をしたかったということはもちろんだが、それ以上に「写真を撮っているだけじゃダメだ。それについて言葉で言わなきゃいけないことがある」という思いがあった。というわけで、やや楽屋落ちっぽくなるが今回は「写真と言葉」について書いてみたいと思う。




写真を発表することは“対話”

 もともとぼくは写真について言葉で語ることには不信感を持っていた。「言葉で説明できるようなことなら写真を撮る必要はないではないか、つまり写真は言葉では語れない」という風に素朴に思っていた。生硬な用語や概念を使った写真論や写真評論が好きではなかったということもある。暴言めくがつまり「評論家に何がわかる?!」という気持だ。

 もっともぼくは写真評論をほとんど読んでいないのだから、それは食わず嫌いというか偏見というべきだろう。ぼくが唯一読んだことのある西井一夫(映像批評家・故人)の「写真的記憶」という本の中では、痛罵といっていいくらいの歯に衣着せぬ調子で写真家と写真が斬られまくっているのだけど、その本は実に面白かった。ぼくが好きではない写真家や写真評論家たちがこてんぱんに叩かれているから痛快だったのだけど、もしぼくの写真が西井氏の目に触れることがあったらゴミのように斬って捨てられたのではないかと想像する。

 それはともかく「写真を撮らない人間には写真は理解できない」という意見はやはり傲慢であろう。写真を撮っている人間だからといって写真が理解できているとはかぎらないのだから。そもそもぼくにとって、写真が「わかる」とか「わからない」とかということ自体がよくわからない話である。



 なんだか話がコンニャク問答のようになってきたけど、とにかく写真をやっているといたるところで言葉が求められる。ワークショップや学校で、編集者やキュレーターと面会して、展覧会場で来場者や顧客に相対して、写真についての会話が生じる。写真家同士で語り合うこともあるだろうし、ネット上のBLOGや掲示板やSNS(mixiに代表されるようなソーシャルネットワークサービス)でもコメントやトラックバックといった形での対話がありうる。酒場で飲みながら写真論を語り合うというようなおぞましいことはやったことはないけれど、そういった言葉のやりとりのすべてをふくめて「写真である」ということはできるだろう。

 その一方で写真について語ることを避ける写真家も多い。沈黙は金というわけでもないだろうが、作品こそが全てであってそこに言葉でなにか付け加える必要はないという立場をとる人たちだ。自作について多くを語らない巨匠から、合評会やプレゼンテーションで終始無言で通す写真学生たちまでを思い浮かべることができるだろう。実際、言葉は誤解を生むことのほうが多いし、言葉で容易に触れることのできないような繊細で超越的な領域で作業している作家たちが、言葉を無効と感じるのも正直なところだと思う。

 にもかかわらず、そういった沈黙する作家たちがいくら潔癖に言葉を拒んでも、他人が作品を見た瞬間にその人の脳内には言葉が発生するし、それを緒に際限なく繰り広げられる言葉の渦に作品が巻き込まれることは避けることはできない。ほんとうに言葉を拒絶したいなら作品を発表しないでおくしかない。つまり、写真を発表することは、コミュニケーションであるという意味では言語による対話と等しいといえるのではないだろうか。



作品について“正しいこと”は言えない

 ぼくも以前は自分の作品について語ることが苦手だった。自作についてコメントを求められても、特に何も言葉が思い浮かんでこないのだ。言いたいことなど何もないという気分だったし、無理やり文章の形にしようものならいかにもとってつけたようでウソっぽくなる。つまりぼくも沈黙がちな写真家の1人だったわけだ。

 今でもけっして自分の作品についてちゃんと話せると思っていないのだが、以前にくらべるとだいぶマシになった。むしろ自作についてよくしゃべるヤツだくらいに思われているかもしれない。なぜそうなったかというと、やはり黙っていると誤解されっぱなしだからだ。



 これまで写真を撮って多少なりとも発表してきたのだけど、自分の作品についての他人のコメントは褒めるにせよけなすにせよ、本心から納得して「まさにその通り。よくぞ言ってくれた。」と膝を打つものは非常に少なかった。まあ、そんなものだと思うし、他の多くの作家も同意するのではないだろうか。作品を作っていく上で「理解されない」というのは所与の条件であるとすら思う。

 それどころか、自分自身が自分の作品のことを理解しているかということも疑わしい。大竹伸朗という画家(この人は写真も撮る)が「(絵を描く上で)自分の作品について一番わかっていないのは自分自身である」というようなことを述べている。写真は撮影条件その他の偶然によって左右される部分が大きいし、作品を作るに先だってすべてを一元的に見通すような作者の意志があるわけではないと思う。もっと端的に言うと、ぼくの場合偶然撮れてしまったカットのほうが好きだったりする。



 話を戻すと、作品というのはもともとわけのわからないものであるし、それどころか作者自身にもよくわかっていないものである。作品の理解において正解というものはそもそもありえない。「誰もがよくわかっていないにもかかわらず、なんとなく気になる魅力的なもの」という風に考えればいいのではないか。作品について正しいことを言おうとするとそれは不可能だから言葉を失ってしまうけれど、もっと違ったやり方で言葉を発することはできるはずだ。作品は判じ物じゃないんだから「これこれこうである」という風に断言したり言い当てようとしなくてもいいんじゃないかと思う。

 かつて展覧会をしたときに何回か人の前で話す機会があった。何を話したかはほとんどおぼえていないけど、自分の話に耳をかたむけてくれる観客がいるというのがそもそも驚きだった。写真や作品について話したあとは、たいていいつもウソをついたような気分になるし、言いたいことの一部しか言えなかったように感じる。話すたびに内容は異なり相互に矛盾することを言っていたような気もする。適当なことを言っていたわけではないけれど、その都度避けようもなく違ったことをしゃべってしまうのだと痛感した。

 そこで学んだことは、言葉に絶対的な正確さを求めないことや、言いたいことの100%を伝えようとしない、というようなことだった。そうでないと観客にはかえって伝わらないからだ。人前で話すときは「理解の種」や「ヒント」をぽつりぽつりとばらまくというくらいがいいのかもしれない。ぼくは自分の作品が理解されないと嘆く気持はなくて、それどころか“理解していないにもかかわらず”展覧会に足を運んだりWebを見てくれる未知の人たちがいるということが、不思議で興味ぶかいことだと思っている。作者はそれ以上、何を望むことがあるというのだろうか。



変わってゆく考えの断片

 作品に関する言葉ということで言うと、やはりWebというものを抜きにすることはできない。勝手なことを書き散らすことのできるblogというのは、ぼくの写真について語るにはぴったりの形式だ。

 それとは逆に、たとえば外国の作家の個人サイトでよく見られるようにギャラリーがあってマニフェストがあってというオーソドックスな作りの場合、そこに記されたこの上なく明快なマニフェストは未来永劫一定のままなのだろうか、と疑問に思う。時の経過とともに、新たに作品が作られるにしたがって、作家の考えも変わっていくものだとぼくは思うのだが、マニフェストはその都度アップデートされていくのだろうか? だとしたらその間隔は1年ごとなのだろうか、それとも10年の間をおくのだろうか、などと思う。



 それはさておき、ぼくの場合作品に対する考えは1週間くらいで変わってしまうので、そもそもマニフェストといった形では書くことができない。それはそれで困ったことなのだけど、blogなら思いついたことをその場でメモのように残していくことができる。極端にいえば昨日書いたことと矛盾するようなことを書くかもしれないが、log(記録、日誌)というのはそもそもがそういったものである。

 最近ぼくはポケットに入るくらいの小さなメモ帳をいつも持ち歩いて自転車に乗っていて思いついたことをその場で記しておいて後からblogに書き写したりしている。写真集のタイトル案やちょっとしたアイデアにとどまらず、路上や電車の中吊りで見かけた面白い言葉の一断片や、キャットフードを安売りしている店の所在だったりする。ぼくのblogにはそうした言葉の断片が脈絡なく記録されていて、むしろ写真に関する言葉は少ないかもしれない。

 ぼくは日々途切れることなく写真を撮り続けており、それらの写真をコンセプトやシリーズによってまとめるということはしない。延々とWeb上にアップし続けるというわかりにくい形式であるぼくの写真を、blogは多少なりとも理解する手助けになるのではないかと思っている。ぼくの写真について言葉で説明するよりもぼくが食べているものや聞いている音楽や歩いた場所について記したほうがよっぽど伝わりやすいと思っているからだ。



わかりやすさには弊害も

 さて、作品というのはそもそもが“わけのわからぬもの”であって、それでも仕方がないというようなことを書いたが、それとは矛盾するようだけど、ぼく自身は一部の人にしか理解できないような難解な作品や、あえて謎めかした演出をほどこしたような作品は好きではない。やっぱり良い作品というのは見た瞬間に誰にでも理解できるような明快で単純なものだと思う。そんな作品が現実にあるかどうかはともかくとして……。



 他人に伝えるために最大限の努力を払った上で、なお理解できない謎が残る作品もあることは認めるけど、うまく説明すればわかるような事柄を、そうしないことでさも意味ありげによそおう作品はナンセンスだ。要するに理解できることはできるだけ簡単に理解できるように示すべきだと思う。それはタイトルのつけ方であったり提示方法だったり技術的なさまざまなディテールにかかわることだったりするだろう。可能なかぎり明晰な作品を作るということは、作品製作の方法そのものとして切り離せない事であって、言うは易しで実際には難しいことだと思う。

 この連載ではぼく自身はできるだけ「わかりやすく」あろうとしたのだけど、果たしてそれがうまくいっているかどうかは心もとない。他人にとって何が「わかりやすい」かは必ずしも明らかではないからだ。




 最近思うことは、あまりにも「わかりやすさ」にこだわることにも弊害があるだろうということだ。たとえば写真のセレクションにおいても、何が写っているかということをはっきりさせるとか、狙いが言葉ではっきりと説明できることとか、いわゆる「フォトジェニック」といいうるような保守的な美学を活用するものである、というようなことだ。

 それにくわえて言葉の利用も挙げられるだろう。勝手な写真を撮ろうという気持と、読者の顔色をうかがうような気持が合い半ばし、時にわかりやすさに流れることがなかったとはいえない。この連載のように写真を言葉とともに提示するということも、やってみるとあいかわらず難しかった。自分でもこれはマズいなと思ったのは、日ごろ写真を撮る時に「Web写真界隈」に載せることを想定してしまうということだ。そうした段取りも時には必要なのだろうけど、ぼくはまったくそういう撮り方は向いておらず気分が萎縮し手がしびれるような気がした。

 今回の写真はこれまでだったらセレクションしなかったようなものも混じっているのだけど、少なくともぼく自身の気分は悪くない。こういう連載においてこのような自己言及をするのもいかがなものかと思うが、言葉にかかわる事柄として例外的に書いてみることにした。




URL
  バックナンバー
  http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto_backnumber/



内原 恭彦
(うちはら やすひこ)1965年生。東京造形大学デザイン科中退。絵画やCGの制作を経て、1999年から写真を撮り始める。
2002年エプソンカラーイメージングコンテストグランプリ受賞、2003年個展「BitPhoto1999-2002」開催、2003年写真新世紀展年間グランプリ受賞、2004年個展「うて、うて、考えるな」開催
http://uchihara.info/

2006/11/09 00:27
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