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モロッコ漫遊記-タンジェ



 もう1年以上前のことだが、2週間ほどモロッコを旅してまわった。その時撮った数千枚の写真のほとんどは発表する機会もないままハードディスクに入れっぱなしになっている。それらの写真のうちのいくつかとモロッコでの見聞をこの連載で記してみたい。

 そもそもモロッコに行ったのは思いつきでしかない。ぼくが旅行に出かけるときはいつでもそうなのだが、基本的に「物見遊山」というスタンスである。『異質な世界との接触によって自分が根本的な変容を遂げる』ことも期待していない。ぼくにとって旅行はあくまで写真を撮ることが目的であって、その行き先が近所であるか外国であるかというのはたいした違いではない。もちろん、外国の物珍しい風物や景色には目をひかれるし、見知らぬ街を歩く時は、心細さと気分の高揚を感じる。

 しかし、ぼくの場合、そういった異国情緒に浮かれている間はまずロクな写真が撮れないということも事実なのである。異国の空港や駅に足を踏み入れた時、目に映る事物や太陽の光、耳慣れない言葉や音響、匂いなど、何から何まですべてが異なっていると感じる。まさに「見たことのないもの」のオンパレードで、片っ端からシャッター押して記録したくなってしまうのだけど、それらの写真をあとから見てみると、なんでこんなもの撮ったんだろうと首をかしげるようなものばかりだ。

 要するにエキゾチシズムと物珍しさが絵葉書のごとく写されているにすぎない。したがって、外国旅行に際してはとにかく初期の高揚(まいあがった)状態をすみやかに抜け出し街になじむように心がけている。できれば旅を少々退屈に感じはじめたくらいが、写真を撮るのにちょうどいいと思っている。

 今回のモロッコ旅行は2週間という短い日程もあって、飛行機でカサブランカに入り、あとは鉄道を利用して、マラケシュ、フェス、タンジェ、そして最後にふたたびカサブランカという具合に駆け足でまわった。

 モロッコについてはガイドブックやwikipediaに書かれているような情報しか持っていなかったし、今でも同様である。ただ、世界遺産として有名なフェスやマラケシュのメディナ(城壁で囲まれた迷路のような旧市街)は、テレビや雑誌で目にしたことはあったし、ウィリアム・バロウズが滞在して「裸のランチ」を書き上げた半ば伝説の街タンジェについてのエピソードを本で読んだことはあった。だからそれらの4都市を巡ることにして、大西洋岸の街エッサウィーラや砂漠の城砦都市ワルザザードなどは割愛することにした。



 タンジェを訪れたのは旅も終わりに近づいたころだが、その頃にはぼくと同行者は少々食事にうんざりしていた。モロッコ料理は不味くはないものの基本的に家庭料理であって、観光客相手のお手軽なレストランではその最良のものを味わうことはむずかしいのかもしれない。かといって高級レストランはべらぼうに高価いし、正装してギャルソンのサービスを受けつつ民族舞踊を見ながら食事をするなんてまっぴらだ。

 情けないことに、ぼくたちはとにかく米飯が食いたくてしょうがなくなっていた。タンジェはジブラルタル海峡をはさんでスペインのすぐ南に位置している。そもそもが、かつてはスペイン領でもあった。したがって、本場のパエーリャが食べられそうだということを期待して、ぼくたちはタンジェの駅に降り立った。



 ぼくたちが持参した黄色いガイドブックには、タンジェの鉄道駅から市街地までかなりの距離があって、タクシーを拾わないとたどりつけないというようなことが書かれていた。ところがどうやら鉄道が延長されたようで新しい駅はタンジェの新市街のすぐそばに建てられていた。そのことを知らずにグランタクシー(個人営業による大型の乗合いタクシー)にボラれながら、港に面した古風なホテルにチェックインした。

 タンジェは古代フェニキア時代にまでさかのぼる港町で、旧市街をふくむ街の大半は丘の上に位置している。地中海と大西洋を結ぶ要衝ということもあり、岬の丘の上はカスバ(要塞化された街)となっている。面積にしてみるとちょっとした駅前の繁華街程度の大きさしかないのだけど、坂道や階段が入り組みトンネルのように建物の下をくぐりぬけ文字通りの迷路となっている。

 旧市街のあちこちには海に向かって装飾的な大砲が据えられている。いったいいつの時代のものかもわからず、一度でも火を噴いたことがあるのかも疑わしいのだが……。カスバの迷路をくぐりぬけ偶然たどりついた広場にはとりわけ大きな大砲が鎮座していた。大友克洋監督のアニメーション「大砲の街」そのものの光景だ。

 まったく道順のわからないカスバの迷路をくぐりぬけるとふっと視界がひらけ、透明感のあるブルーグレーにかすんだような大西洋が現れる。崖沿いの建物は地すべりか嵐によって崩れ落ちて廃墟となっており、それらのところどころに無聊をかこつモロッコ人たちが何をするでもなくたたずんで海を見ている。

 今タンジェについて思い出すのは、街を通り抜ける大西洋からの風である。どこか湿り気をおびてしっとりとした空気が街をおおっていたような気がする。それ以前に通過したマラケシュやフェスといった内陸の乾燥した街とはあきらかに違う空気だった。



 モロッコの他の都市と同じくタンジェもまた旧市街(メディナ)と新市街(ヌーヴェルヴィル)に分かれている。旧市街は、中世にまでさかのぼる歴史を持ち石とレンガと漆喰で作られた建物が、小さな窓としっかり閉ざされたドアによって外部からの侵入を拒むかのように軒をつらねている。

 新市街は今世紀に入って旧宗主国であるフランスが近代都市として設計した街で、中心部の広場から放射状にまっすぐ伸びる道路と近代建築が建ち並ぶ一見するとヨーロッパと見わけのつかない景観を持つ。新市街はもっぱら行政やビジネスといった機能を受け持つ。タンジェの新市街はまるでナポリのようで、モロッコという国がイスラム国家であるとか、北アフリカ諸国のひとつであるというよりもまず地中海世界に属する場所だということをはっきりと示している。

 新市街の通りのいたるところには、ヨーロッパ風のカフェが店をかまえている。歩道にはテーブルと椅子が並びオープンカフェになっている。明るいガラス張りの店内はいつも人でいっぱいで、テレビではかならずサッカーの試合が放送されている。客のほぼ全員が成人男性である。テーブルにはミントティかコップに入ったコーヒーが置かれ、ぴしっとした身なりのギャルソンがてきぱきと仕事をしている。

 失業率が15%を越えているせいなのか、何をするでもなく1日中カフェでたむろして、雑談に興じ道行く人を眺めている男たちの無為そのものといった時の過ごし方は、ぼくたちにはとうてい真似できない優雅さすら感じる。

 これら新旧の街区に加えて、タンジェではさらにその郊外にスプロール(むやみに広がる)していく住宅街が建設されている。一般の庶民の多くは、それら郊外の住宅街に家を構えているようだ。タンジェの郊外においてはなぜか平地ではなく小さな丘が丸ごと住宅地として開発されおり、1見イタリアの山岳都市のような景観を呈している。

 平地は地価が高いのか、国有地ででもあるのかその理由はぼくにはわからない。レンガやブロックで積み上げられた住宅は、少しづつ時間をかけて仕上げられていくらしく、予算の関係か、半分だけペンキが塗られた状態で人が暮らしていたりする。屋上にはかならず衛星放送受信用の巨大なディッシュアンテナが林立している。ヨーロッパとの違いは、ゴミの収集がなされておらず、街外れや人目につかないところがゴミ捨て場となっていることと、通りのあちこちを羊が徘徊しているということである。



 実はぼくがタンジェで一番関心をもったのは、こうした郊外の街である。郊外こそがもっとも人間の生活感が感じられる場所で、親しみやすかったのかもしれない。そうした郊外の街の通りには露天商が食品や雑貨を並べて売っている。そうした中に風変わりな民族衣装を身にまとって野菜を行商している女性に目がとまった。

 立ち止まって観察していると、こちらはあきらかなアラブ人の露天商のオヤジが「ベルベル、ベルベル……」と言ってアゴをしゃくってうなずいて見せた。なるほどその女性はモロッコの少数民族であるベルベル人なのだろうということが了解できた。アラブ人が北アフリカに進出して、イスラム王朝を建てる前からこの地に住んでいた先住民族であるベルベル人の名前は、世界史の授業で耳にした記憶がある。

 ノマドと呼ばれるような遊牧民やサハラを交易して歩くトゥアレグ人たちも、ベルベル人の中に含まれる。ちなみにサッカー選手のジネディーヌ・ジダンもアルジェリアのベルベル人に出自を持つそうだ。ぼくはなんとなくベルベル人という少数民族は、イスラム化してモロッコのアラブ人と融和してしまったように思っていたのだけど、一見して独自の習俗を保ちつづけ、アラブ人露天商のしぐさ身振りが示すように、いまだに異質な存在であるらしいということに意外さを感じた。



 市街地から坂を下って、ヤシ並木の大通りを越えるとビーチが広がっている。広大なビーチのそこかしこで高校生たちがサッカーをしている。シューズの足跡だらけの砂の上にすわってぼんやりと海を見ていると、うるんだような大西洋の波間を越えて、スペインからのフェリーがゆっくりと港に入ってくる。

 実にのんびりとしたくつろげる風景なのだけど、まったく写真を撮りたいという気にはなれない。このように明るく快適な海岸は夜になると一変する。ビーチに沿った大通りは明りに乏しく薄暗く、足早に家路を急ぐ人たちとは別に何をするでもなく護岸の上に座ったり、中央分離帯の芝生の上でビニール袋を顔にあててなにやら吸引している身なりのよくない男たちが、どこからともなく現れて不穏な気配を感じる。

 ガイドブックによると、かつてのタンジェの街は観光客にとって非常に治安が悪いことで知られていたが、近ごろでは政府の取り締まりによって改善したということが書かれておりおおむねその通りなのだが、やはり夜はひとり歩きはしたくない雰囲気だった。しつこく「ハシシ? ドラッグ?」と声をかけてくる男や、小学生くらいの子供が「マネー! マネー!」としつこくつきまとい袖を引っ張る。もっともヨーロッパからの観光客らしい中年の女性が、そのような不良少年を逆につかまえてきびしくしかりつけている光景も目にして、なにやらおかしかったのだが……。



 夜になってぼくと同行者は、新市街のレストランへ食事に出かけた。目的はもちろんパエーリャとワインである。モロッコはイスラムの戒律はさほどきびしくはないが、どこでも気軽に酒が飲めるというわけではない。大衆食堂や屋台で魚のフライやタジン(土鍋で肉や野菜を蒸し煮にした料理)を食べながら、これでビールがあったら言うことないんだけど、とずっと思っていた。

 ようやくありついたパエーリャもワインも、残念ながら期待していたほどではなかった。これでもうタンジェには用はない。ぼくたちはタンジェ出発の予定を早めてカサブランカに発つことにした。なぜならカサブランカにはモロッコには数少ない中国料理のレストランがあるからだった。気持はすでに箸をあやつって麺をたぐることへと向かっていた。





内原 恭彦
(うちはら やすひこ)1965年生。東京造形大学デザイン科中退。絵画やCGの制作を経て、1999年から写真を撮り始める。
2002年エプソンカラーイメージングコンテストグランプリ受賞、2003年個展「BitPhoto1999-2002」開催、2003年写真新世紀展年間グランプリ受賞、2004年個展「うて、うて、考えるな」開催
http://uchihara.info/

2006/08/03 01:19
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