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カンタケ的日乗
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■ 一人の人物を撮りつづける
とある都営団地の屋上でカンタケを撮った。
三脚を使って長時間露光で撮影している。使ったカメラはD100で、絞りはF11、シャッタースピードは9秒である。アンバー色を帯びた夜空を背景に、屋上を照らす強い白熱灯の光の下に立ってもらった。これだけの露光時間だとどうしても人物はわずかにぶれてしまう。なんとか解決する方法を見つけたい。
カンタケはぼくの友人である。ゲーム会社でCG関係の仕事をしている。年齢はよく知らないけど、30前だと思う。愛犬家。三軒茶屋でアインシュタインという名前のイヌと暮らしている。ぼくはカンタケの写真をしばしば撮る。というより、人物写真(ポートレート)は、ほぼカンタケしか撮らないと言ってもいいくらいだ。ぼくのWebにも時おりカンタケの写真をアップしているので、ご覧になった方もいるのではないだろうか。
なぜ、カンタケの写真ばかり撮るのか説明するのはむずかしいが、まあWeb写真界隈的にはカンタケは“フォトジェニック”であり、彼を撮りたがる人は他にもけっこういる。そもそも、ぼくは知らない人間はあまり撮る気になれないので、交友のあるカンタケを撮った写真が多くなるのは当然かもしれない。
それにしても、人を撮ることはむずかしい。撮る側も撮られる側も人間である以上、撮影においてかならずなんらかの関係性が生じてしまう。風景やモノを撮る場合には発生しないような関係性である。すごく単純に言ってしまうと、たとえば撮られる側が不機嫌そうにしていては、撮るほうも調子が乗ってこないというようなことだ。
もっとも、土門拳が梅原龍三郎を撮影したとき、わざと撮影時間を長引かせることで梅原龍三郎を苛立たせ怒気を含んだきびしい表情をフィルムにおさめた、というようなエピソードが示すように、ポートレート撮影においてさまざまな駆け引きが要求されてくるのは当然だろう。まさに人間関係そのものである。すぐれたポートレート撮影者というのは、この複雑で精妙な関係性に通じた人たちなのだろうと想像する。荒木経惟は、撮影者と被撮影者の間に生じる関係性こそ写真の本質であるというような意味合いのことを言っている。
【お詫びと訂正】記事初出時、土門拳が谷崎潤一郎を撮影したとの記述がありましたが、梅原龍三郎の誤りでした。お詫びして訂正させていただきます。
一人の人を撮りつづけた写真として、ロニ・ホーン(Roni Horn)の「You Are the Weather」という作品が挙げられる。アイスランドの火山地帯で露天の温泉に浸かる少女の顔のクローズアップを200枚撮った写真によるインスタレーション(展示空間自体がその一部であるような作品形態)である。同名の作品集も出版されている。この作品についてぼくが注目する理由は、要するに同じ一人のモデルを繰り返し撮っているということに集約される。一人の人(だけ)を撮ることの、つまらなさと面白さが同居した作品だと思う。ロニ・ホーンのように撮る人は他にあまりいない。You Are the Weatherという作品のテーマについてさまざまに語ることもできるだろうが、この作品においては意味や内容よりも「一人の人間だけを撮る」という形式のほうが、ぼくにとってはずっと興味深い。
それとは逆に、アウグスト・ザンダーはドイツ国民のあらゆる階級に属す人々のポートレートを撮ることによって、ひとつの民族の総合的なカタログを作ろうとした。何十年もかけて数百人以上にものぼる人々を撮っている。荒木経惟は「日本人ノ顔」という連作において、日本全国の各都道府県を行脚しあらゆる年齢職業の人々を精力的に撮り続けている。
彼らは、網羅的に世界の“全て”を撮りつくすことによって、総合的な芸術を作り出そうとしているように思える。格闘技じゃないけど、芸術もやはり「総合」的なものがもっとも強いのではないかと思う。写真家は誰しも世界を丸ごと撮りつくしたいという衝動に駆られることがあるのではないだろうか。それをなしとげるには卓越した技術と執念と政治力が必要だが。
ぼくは力強く巨大で総合的な作品に惹かれはするが、それよりはむしろ小さくて断片的な写真を撮りたい気持がある。見過ごされがちなものや日常のすき間のようなものに注目して、しつこく撮りつづけたい。
■ モノと情報に埋もれた部屋
この写真はカンタケの居室で撮った。ここは以前は「三茶グラフィックス」というCGチームの作業場だったのだが、「三茶グラフィックス」が解散してからはメンバーだったカンタケが住んでいる。見てのとおり多量の荷物が積み重ねられ、ダンジョン(迷路)のようになっている。部屋を埋め尽くすこれらのモノを分類するなら、コンピュータ関連、本およびビデオ関連、イヌ関連ということになるだろうか。個人の居室というのは、住人の個性や内面を反映している気がする。
カンタケの部屋は確かにモノであふれてはいるが、不潔さや汚い感じはない。限られた空間に多すぎる分量の荷物を持ち込んだ結果、収納と整頓に日々絶望的な闘いを続けているというのが実態のようだ。ぼくにとってカンタケの部屋はとても魅力的な被写体である。散らかった部屋といっても、「かっこいい散らかり方」というのもあるというのがぼくの持論だが、この「乱雑さの美学」はなかなか理解されない。
カンタケは、現実の物質としての荷物に加え、PCの中にも大量のデータを保存している。容量の大部分はネットからダウンロードしてきたエロ画像なのだが、ムービーや画像の総容量は百数十ギガバイトにもおよぶらしい。
実際のところカンタケはかなりのネット中毒である。画像をネットから落とすだけではなく、検索エンジンやはてなブックマークなどのツールを駆使して、日々ネット上でさまざまな情報を追い求めている。カンタケが個人的な覚え書のために記している非公開のはてなダイアリー「カンタケ日記」は、わかりやすく言うと自分のためだけにあるまとめサイトあるいは孫ニュースサイトの様相を呈している。カンタケが日々収集する大量の情報は、もはや彼自身が扱える上限を超えつつある。彼の興味の対象は非常に広く、いったいネット上でどういう情報を探しているのかは、傍から見てもよくわからない。
上の写真は、2004年の個展「うて、うて、考えるな」に出品したスティッチング(パノラマ撮影された複数カットの画像をPC上でつなぎ合わせて1枚の写真として構成する手法)による作品である。EOS-1D Mark IIで撮影した104枚の画像をスティッチングした横2万ピクセル縦1万ピクセルのサイズの作品である。三脚を使い、カメラをパンするように動かしつつ撮影するだけで1時間近くかかっている。愛犬アインシュタインも、上半身と下半身は別カットで撮った画像を合成している。うろうろと室内を歩き回るアインシュタインがお座りして静止するのを待って、撮影している。カンタケの全身も数カットを合成しているので、最後に動きを止めてもらってから撮影した。しかも、この撮影は1度露出が失敗しており、日を改めてもう1度やり直している。まったく、こんな面倒な撮影によくつきあってくれるものだと感謝の言葉もない。この写真はぼくの代表作のひとつだと思っている。
■ 写真の外部との対話
ぼくとカンタケは時々サイゼリヤでミーティングを行なう。正確にはミーティングではなく雑談であり、ヒマな学生が延々とファミレスのドリンクバーでねばっているのと大差ない。
ぼくたちは、ネット事情からハロプロの動向やハーブティ談義からペットフードの品質までありとあらゆることについて話すが、写真についてはあまり話題に上らない。カンタケは特に写真に関心を持っているわけではないからだ。ぼくはそれを別に残念だとも思わない。写真の世界の外部にいるような人との交流は、写真をやっていく上でむしろ必要かつ有益だと思う。つまり世間の大多数の人はいわゆる「作品」としての写真にさほど興味が無いというごくあたり前の事実をふまえた上で、それでもそういった人々にも伝わるような写真を撮ろうと努力するのは悪いことではないと思うからだ。
上の写真は、そういったサイゼリヤでの深夜のミーティングのあと、成子坂下の路地を自転車に乗って走るカンタケである。夜の光の中で鮮やかなオレンジ色のパーカーが印象的だった。カンタケはほとんど常に原色の衣服を身にまとっている。かつて髪を緑色に染めていたころのあだ名は「ミドリくん」だったそうだが、緑色にかぎらず、赤、黄、オレンジなどを好む。「何で原色の服を好むの?」と訊ねたら「俺からすれば、逆にみんな何で原色を着ないんだろうくらいに思ってますけど……」と答が返ってきた。
■ カンタケ的日乗
「日乗」という言葉は、「東京的日乗」( http://nitijyou.exblog.jp/ )という写真サイトから拝借した。日常ではなくて日乗である。辞書を引くと「日記」(「乗」は記録の意)と説明されていた。そういえば、永井荷風の「断腸亭日乗」という本があったな、荒木経惟にも似たようなタイトルの写真日記があったっけ、と思い出した。
これまでカンタケの写真をたくさん撮ったが、残念ながらそれらの写真にはカンタケという人物の面白さがじゅうぶんには写し撮られていない。そもそもぼくは、ただ普通に会って話して、撮りたい時に撮っているだけである。それはカンタケの生活を時々傍から眺めてシャッターを切っているようなものだ。カンタケは、東京の空の下での生活に悪戦苦闘する1人のリアルな人間であるとともに、情報の海に溺れそうになりながら泳いでいるbloggerでもある。そのようなカンタケは、写真だけでは表現し切れないと思う。
ぼくは「カンタケ的日乗」とでも言うべき作品を夢想するときがある。それはカンタケのはてなダイアリーに書かれたテキストと、ぼくの写真によって構成されたblogのようなごたまぜで未完成な状態の共作になるだろう。
■ URL
Web写真界隈 バックナンバー
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/webphoto_backnumber/
内原 恭彦 (うちはら やすひこ)1965年生。東京造形大学デザイン科中退。絵画やCGの制作を経て、1999年から写真を撮り始める。
2002年エプソンカラーイメージングコンテストグランプリ受賞、2003年個展「BitPhoto1999-2002」開催、2003年写真新世紀展年間グランプリ受賞、2004年個展「うて、うて、考えるな」開催
http://uchihara.info/ |
2006/07/06 00:42
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