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第10回 風景の“ノード”を撮る



写真を撮る道具としての自転車

 ぼくにとって写真を撮る上で自転車はカメラと同じくらい重要な道具である。毎日平均すると40kmは自転車に乗って写真を撮っているからだ。時間にすると6時間くらいだろうか。Googleマップ上で距離を測るページ「僕の歩いた跡に道はできる」( http://www.nanchatte-charider.com/gis/test/michinori.html )に、ある日の移動ルートを書き入れてみると、68kmほどの移動距離だった。

 68kmも自転車に乗っているというと過酷そうに思われるかもしれないけど、ゆっくりと走っているので全然たいしたことはない。徒歩よりははるかに楽だ。どこかで読んだのだが写真家の渡辺兼人さんは1日に30km歩きながら写真を撮るのだそうだ。ぼくも1日30km歩いたことがあるが、そのあと1週間は歩くのに不自由するくらい痛みが残った。以前、横浜で中平卓馬さんと一緒に歩いた時も、港北区の丘を足早に登っていく中平さんの後をついていくだけで息が切れた。写真家の脚力おそるべし。もちろん歩いて写真を撮ることもなくはないが、最近ではほぼ自転車と写真が切り離せなくなっている。

 ぼくの1日は次のように始まる。朝起きてまずネコにエサをやり自分はコーヒーとトーストとサプリメントをとりながらネットに目を通す。役に立たない天気予報などは無視して窓の外の天気をたしかめる。何年も屋外で写真を撮っていると、それなりに天気を予想することができるようになるのだ。まあ、曇ろうが晴れようが、結局は写真を撮りに出かけるのだが……。ぼくの場合、ズームレンズをつけっ放しのカメラを首から下げればそれで準備は終わりだが、いちおう換えのMicrodriveやポータブルストレージやひまつぶしの文庫本なんかが入ったショルダーバッグも持つ。そして自転車にまたがってから、「さて、今日はどっちに行こうか?」と考える。つまり目的地を決めてから出かけるということはない。

 ぼくが求めているのは、写真を撮りたくてたまらなくなる“何か”との不意打ちのような出会いである。それは景色でも人物でもゴミでも花でもなんでもいいし、ぼく自身は被写体を限定したくはない。あらかじめ想定したものを撮ろうとしても気分が乗らなくてうまくいかないのだ。効率は悪くても、偶然にまかせるのがぼくのやり方だ。撮影衝動を突き動かす“何か”に出会うために、自転車でできるだけ長距離を移動して遭遇率を高める必要がある。



地図

 地図を見るのが好きだ。最近ではGoogleマップが特にお気に入りで、見飽きない。風変わりな地名は興味をかきたててくれる。たとえば「夜光」(川崎)とか「犬目町」(八王子)とか「猫実」(浦安)といった地名を眼にすると実際にそこに行ってみたくなる。

 川の流路に注目することもある。2つの川が合流するところや複雑にくねる川の周辺は面白い町並みであることが多い。自然な曲線を描く道は昔からの古道であることを示し、整然と格子状に並んだ道路は、そこが新しく開発された住宅地であることを物語っている。地図を見て現実の風景を想像してみることは興味深い。

 もっとも実際に現地に行ってみると、地図から想像するのとはかけはなれた風景が広がっていることもあるのだが、それはそれで面白い。地図はあくまでも出発するためのきっかけであり、行き当たりばったりにわき道にそれたり、思わぬ場所に迷い込むことも歓迎すべき事態である。そのためにも、自由度の高い自転車による移動がふさわしい。ほんとうに道に迷ってしまった時は、コンビニに立ち寄ってロードマップを立ち読みする。立ち読みですませるのは気が引けなくもないが、自転車に長時間乗っていると地図1冊の重さもばかにならないのだ。



鉄道の利用

 最近では、折りたたみ自転車を電車に乗せて移動することもある。鉄道を利用すると行動範囲はさらに広がる。折りたたみ自転車は、重量が10kg以下のものがおすすめだ。10kg以下の軽い自転車なら変速機(ギア)の必要もなく、取り回しも楽で、写真を撮りながら移動するには最適である。折りたたんで電車に持ち込むためには10kgを超えるとかなり苦しくなる。乗り換えなどで駅の構内をけっこうな距離を歩くことになるからだ。

 鉄道内では、折りたたんだ自転車は「輪行袋」というバッグに入れて持ち運ぶのがルールである。慣れないうちは輪行袋への自転車の出し入れはけっこう手間取る。東京近郊の私鉄はどこも混雑しており、自転車を持ち込むことができるのは比較的空いている午後の早い時間に限られてくる。どう考えても通勤時間帯に折りたたみ自転車を車内に入れるのは無理だ。

 空いている時間でも、車内で自転車を保持するのには気を使う。たいてい車内の子供の注目を浴びてしまう上、ものものしい手荷物に対して内心眉をひそめている乗客がいるのではないかと気が引けることもある。日本の鉄道状況では仕方がないのだけど、ヨーロッパではエコロジカルな交通手段として自転車が認められ、鉄道においても自転車を運ぶ専用列車があると聞き、うらやましく感じる。自転車と鉄道をうまく併用するのは乗客輸送の意味でも効率的なやり方だと思うので、もっと見直されてもいいと思うのだが。



風景を発見する道具としての自転車

 ぼくにとって、自転車は移動するための道具であると同時に、発見のための道具でもある。自転車に乗ると風景は普段とは違って見える。眼だけで見ているのではなく“全身で風景を見ている”と感じるのだ。自転車が前に進むにつれて、視界に次々に新たな風景があらわれては後に過ぎ去っていく。自転車をこぐスピードを上げると、目に見える風景の変化も早くなる。身体的な運動と視覚がリンクした状態、言ってみれば身体と一体化した風景を感じ取ることができる。これは歩行や自動車では得られない感覚である。

 道に迷って同じ場所をグルグル廻っている時などは、風景の中に閉じ込められてしまったような気分になる。坂道を息を切らしながら登るときは、身体的な苦痛として地形を把握することになる。それ以外にも路上のデコボコや、落ちている木の実を踏み砕く感覚、風を切る音、一瞬だけ目にする看板に書かれた文字、土地の匂い、その他さまざまな断片的な感覚が通り過ぎていく。そういったことをいちいち意識することはないけれど、それらは身体のどこか深いところに確実に働きかけ、それらすべてによって風景をとらえているのだと思う。



風景のノード

 路上を走っていて、ふとシャッターを押したくなる場所がある。なぜその場所なのか自分でもわからない。そこはとりたてて変わった風景というわけでもないし“絵”になる場所とも思えない。なのに妙に気になってしまい、通りがかるたびにいつも写真を撮ってしまう場所。ぼくはそれを勝手に「風景のノード(結び目、結節点)」と呼んでいる。

 それは眼に見える景色というよりは、もっと大きな地形のうねりや、人々の生活空間が切り替わる場所であるように思う。風水で言うところの龍脈(大地の“気”の流れ)と言ってしまうとちょっとオカルトっぽくなるけど、もしかしたらそれに近いものかもしれない。ぼくが感じる風景のノードには、よく神社や祠があったりするからだ。古代の人々もその場所に何かを感じて、神社を建てたのかな、と思わされもする。

 風景のノードには、コンビニが建っていたり、あるいはいくつもの鉄道が交差するターミナル駅だったりするのだけど、人を呼び寄せる力のある場所ってもしかしたらあるのかもしれない。たとえば若者であふれかえる表参道だってそもそもは神宮への通り道だったりするのだから。

 そういった場所固有の感覚というのは、ぼくの場合自転車でブラブラすることで研ぎ澄まされてくる気がする。

 もっとも、自転車に乗っている間ずっと風景に没入しているわけではない。単調な風景が続く郊外の幹線道路を走っている時など、ぼんやりと考え事にふけって、何も見ていないこともある。それどころか何も考えずにただ機械的にペダルを踏みつづけていることも少なくない。6時間のうちのかなりの部分がこのような無為な時間だったりもするのだが、こうした無駄な時間はぼくにとって写真を撮るのと同じくらい大切であるような気がする。





内原 恭彦
(うちはら やすひこ)1965年生。東京造形大学デザイン科中退。絵画やCGの制作を経て、1999年から写真を撮り始める。
2002年エプソンカラーイメージングコンテストグランプリ受賞、2003年個展「BitPhoto1999-2002」開催、2003年写真新世紀展年間グランプリ受賞、2004年個展「うて、うて、考えるな」開催
http://uchihara.info/

2006/06/15 01:02
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