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【Case-35】澤田裕美の場合
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私が生まれ育ったのは埼玉県の北部、小さな駅から自転車で30分の、見渡す限り田んぼと畑だらけ!! の田舎です。父、母、祖母、姉、弟、それに私のにぎやかな5人家族です。
父は農家を継ぎ、と言っても売るほどではありませんが、朝夕は幼稚園のバスの運転手、日中は田んぼや畑の手入れをしています。子ども好きで、小さい頃は近所の子どもを集めて色々な遊びを伝授してくれました。絵の描き方や、上手に字を書く方法も私達に教えてくれました。好きな男性のタイプは、子どもが好きな人。やっぱり娘って父親に似た人を好きになるのかな。
母は沖縄の島生まれで、看護婦さんをやっている本当に気の強い人です。こんな田舎の農家に嫁いで、姑と呼ばれる人とずっと一緒に生活してきたんです。父と結婚してからも、農家での環境、祖母や父の兄妹との関係等、いろいろと苦労したことでしょう。いつもバリバリ働いている母でも、参観日、運動会、部活の大会には絶対に来てくれました。部活の大会などで周りを気にせず大きな声で応援していた事、私は照れながらも本当はとても嬉しかった事、良く覚えています。
祖母はもうすぐ92歳になります。小さい頃母がいつも仕事に出ていたので、祖母が私たちの面倒を見ていてくれました。祖母は私たちが学校へ行く時、毎日、笑顔で「がんばって!」と見送ってくれました。今思うと、家に帰るといつも祖母が笑顔でいてくれた事でとても安心して生活できていたと思います。ありがとう。
姉は2つ上。小さい頃から姉は私にとって最強のライバルでした。姉がピアノを習い始めたら、私も始めます。姉がそろばんを始めたら、私も始めます。習字を始めたら、習字を始めます。姉の洋服のお下がりは絶対イヤ。でもそんな姉も最近結婚し、子どももできました。私の何歩も先へ行っているようです。私も早く追いかけたいものです。
弟は3つ年下になります。小さい頃は私とそっくりでしたが、最近は似てないかなっ。弟も昔は、何でも言う事を聞いてかわいいもんでした。でも最近は何も聞いてくれないしあまり話もしない。寂しい気もするけど、まあこんなもんかっ。また落ち着いたら、兄弟仲良くできたらいいなと思います。と、こんな感じの家族です。
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今の私を作った大事な経験としてあるのが、小学5年生の時に地区のクラブチーム始めた、「フットベース」です。野球とサッカーを混ぜたようなスポーツで、ドッヂボールのようなボールを使い、バッターはバットでボールを打つのでは無く、転がってきたボールを蹴ります。先輩が引退する時、経験の浅い私をキャプテンに指名しました。それまでそんな経験はなく、プレーにも自信がありませんでしたが、皆に応援され、どうにかその声に答えたいとがんばりました。あの1年間、キャプテンとして恥ずかしいプレーばかりだったけど、みんなが私についてきてくれた事は、とても嬉しかったです。そしてその事が自分の自信へと繋がりました。
高校3年生の夏休み直前、美術の先生から「澤田、お前美術の学校に進まないか?」と言われて、美術短大へ進む事になりました。神様の一言でした。それまではなんとなく「大学いかないとなあ~」なんて思っていたものの、特にやりたいことがなくただただ流れるままに、受験しようと思っていました。でもその言葉を聞いた瞬間、「コレだ!」っと思い、迷いはなくなりました。
私はさっそく夏休みから美術の予備校へ通い、毎日デッサンの練習をし、無事に美術大学へ入学できました。空間デザインを専攻し、店舗やディスプレイの授業で模型などの勉強をしました。毎日課題に追われる日々でしたが、良き友、良きライバルと共に過ごした2年間は、とても充実し輝いていたと思います。なんとか卒業制作も提出し、無事学校を卒業できました。
卒業後、私は学生と社会人とのギャップに悩まされる日々でした、会社での責任感とか、口では言えても実際に行動するのは難しいです。会社も1度目のところは辞めてしまいました。世間で言う普通が、私にはとても難しい事に思えたりします。フリーターってそんなにいけない事なのって考えたり……。
でも、結局、身体が動く事は1つでした。いくら会社を辞めてしまっても、また同じ職種に就職希望を出します。まだまだ考え方も子どもで、社会についていけてないけど、でもいつか本当の意味で、プロのインテリアコーディネーターになれるよう、挫折しても前に進む事だけは忘れない様にしたいと思っています。決して1人でここまでこれたわけじゃないですから……。
撮影初日の湘南の海。その日は朝からとても寒かったけど、空には青空が広がっていた。最近ではあまり見かけない程、とても美しい夕焼けだった。若干風邪気味で現れ、湘南行きの移動中では体調不良を訴えていたくらいなのに、夕暮れの残照僅かな時、頑張って素足で12月の海に入ってくれた彼女の勇気に感謝!! 今の彼女は将来へ向けてあれこれ悩んでいるようだけど、この「思いっきりの良さと根性」さえあれば多少の困難なんか吹き飛ばせていけると思うよ、ガンバレ~。
以前はよく使った手法だが、久しぶりにノーファインダーでのカットも入れてみたら新鮮な気分だ。決まり切った構図に飽きてきたら、皆さんも試してみると面白いと思う。注意点は、シャッターレリーズする瞬間だけは人差し指以外でちゃんとホールドしないとブレてしまう事。AFの場合、ピントを合わせた後に僅かに構図をずらしてみる、など自分なりに研究してみると良いのでは。ボク自身も今後はもう少しノーファインダーカットも混ぜてみようと思う。むやみに使うのもどうかと思うが、スパイス代わりに時折使うと楽しい。偶然であっても、最終的に面白い写真にさえなれば良いのだから、やれる事はすべてやる主義だ。2007年も皆さんにとって良い年になりますように!! Mery X’smas & Happy New Year 2007!!
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使用機材
Nikon D2X
Nikon D200
AF-S DX Zoom Nikkor ED 12~24mmF4G (IF)
Ai AF Nikkor 35mm F2D
Ai AF Micro Nikkor 60mm F2.8D
AF-S VR Zoom Nikkor ED 70~200mm F2.8G (IF)
SIGMA 30mm F1.4 EX DC HSM
Canon EOS 5D
EF 24mm F1.4L USM
EF 35mm F1.4L USM
EF 85mm F1.8 USM
EF 70~200mm F4L IS USM
Sandisk Extreme III
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■ URL
バックナンバー
http://dc.watch.impress.co.jp/cda/haruki_backnumber/
HARUKI (はるき)1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写真学科卒業。広告、雑誌、音楽の媒体でポートレートを中心に活動。
1976年 個展「FIRST」を皮切りに、多数の個展、グループ展を開催。1987年朝日広告賞グループ入選、表現技術賞受賞。1991年パルコ期待される若手写真家展選出。コラボ作品がニューヨーク近代美術館に、「普通の人びと」シリーズ作品が神戸ファッション美術館に永久保存。
2005年に個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」を東京 渋谷、2006年に京都で開催。
http://www.harukiphoto.com/ |
2006/12/25 00:00
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