インタビュー

キヤノンEOSの交換レンズ「累計生産1.5億本」の歩み——技術開発の哲学編

2021年2月、キヤノンは同社EOS用RF/EFレンズシリーズの累計生産本数が1億5,000万本を達成したと発表した。これはフィルムAF一眼レフカメラのEOSシリーズ用交換レンズとして1987年に生産を開始してから、34年で到達した記録。この1億5,000万本のレンズを並べた全長は約1万2,450kmにおよび(レンズ全長を元にしたキヤノン調べ)、これは地球の直径約1万2,742kmに迫る長さなのだという。

34年間という長きにわたり、同社はただ闇雲にレンズを生み出し続けたわけではない。駆動系や光学系、コーティング技術にいたるまで、技術の進化を止めることはなかった。そこで本企画では、同社レンズ製品における技術開発の歩みについてインタビュー取材を実施。同社の技術開発・生産の要所、宇都宮光学技術研究所/宇都宮工場ともオンラインで接続し、レンズ開発の最前線で活躍するメンバーにも話を伺う機会を得た。

製品開発における工程の中でも上流部分にあたる要素技術開発や、レンズの品質を支える工場の生産技術など、普段はなかなか“表に出てこない”開発秘話を聞くことができた。今ではお馴染みとなった技術でも、それが生み出される当時の苦労を知れば、手元の製品への愛着もひとしおだろう。

本稿では序章として、キヤノンというメーカーが描く技術開発の哲学について、RF/EFレンズ1億5,000万本までの軌跡を振り返りつつお届けする。

キヤノン株式会社ICB事業統括部門 家塚賢吾主幹(左)
キヤノン株式会社光学技術統括開発センター 加藤学所長(中)
キヤノン株式会社光学技術統括開発センター 中井武彦部長(右)

1.5億本の軌跡

レンズ交換式カメラ「EOS」シリーズが誕生したのは1987年。初号機はフィルムカメラの「EOS 650」で、福島工場(当時)にて生産が開始された。EOSはレンズ・ボディ間の情報伝達をすべて電子化したEFマウントを採用したカメラ。これまで採用してきた機械的な情報伝達手段を排して、マウント部に備えた電子接点を介すことで電子制御を行えるようにしている。ちなみにEOSとは、「Electro Optical System」の略称で、ギリシャ神話に登場する「曙の女神」の名でもある。

そしてそのEFマウントに対応する交換レンズとして、「EF50mm F1.8」「EF35-105mm F3.5-4.5」「EF35-70mm F3.5-4.5」の3本がEOS 650と同時に登場。EFレンズは宇都宮光学技術研究所で開発がすすめられ、生産については宇都宮工場のほかに、大分、台湾、マレーシアの各拠点で実施されてきた。それから同社はレンズラインアップの拡充を進め、現在までに122種類のレンズが誕生するに至っている(2021年9月6日時点)。

RF/EFレンズシリーズ群(キヤノン提供)

EOSおよびEFレンズシリーズの誕生からさかのぼること約20年ほど前、すでに新たなシステムをにらんだ要素技術開発は始まっていたのだという。例えば「蛍石」は光学ガラスとの組み合わせによって高い色収差補正効果をもつ鉱物だが、写真用レンズに使用するための人工蛍石結晶の開発プロジェクトは1966年に始まっている。このころより人工蛍石結晶に限らず、細かなものも含めた要素技術開発はすでに動き出していたのだそうだ。

EOSの誕生以降も、同社の技術の進化は続いた。2001年発売の「EF400mm F4 DO IS USM」には、光の回折現象を利用して各収差を補正する「DOレンズ」がはじめて使用された。2015年発売の「EF35mm F1.4L II USM」には、波長の短い青色の光を大きく屈折させる特性を持つ「BRレンズ」を採用。他のレンズとの組み合わせで高度な色収差補正を実現したという。いずれも蛍石に続き、色収差低減のために登場した光学技術だ。

また、レンズのコーティング技術も革新が続く。2008年発売の「EF24mm F1.4L II USM」には、レンズ表面に可視光の波長よりも小さいナノサイズの構造物を並べることで、光の反射を抑制する「SWC」を採用。2014年発売の「EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM」では、コーティングの一番上の層に空気の球を並べることで光の屈折率を変えて反射を抑制する「ASC」が採用された。これらは通常の多層膜コーティングではなしえないほどの性能を有しており、それをナノレベルの構造を具現化する技術によって実現しているという。

SWCの模式図
EF24mm F1.4L II USM

当然のことながら、技術の進化は光学技術に限るものではなく、メカトロニクスの分野にも及ぶ。超音波振動で駆動するモーター「USM」(Ultrasonic Motor)は、EFレンズが登場した1987年にはすでに、「EF300mm F2.8L USM」にリング型のタイプが搭載されていた。駆動音が静かであり、高速なAFを可能にするという特徴をもつ駆動系だが、こちらもレンズの開発とともに多様な姿を見せてきた。2016年には小型化した「ナノUSM」が開発され、「EF-S18-135mm F3.5-5.6 IS USM」に搭載された。

リング型USM
ナノUSM

また、手ブレ補正機構「IS(IMAGE STABILIZER)」についてもポイントとなる進化があった。最初に搭載されたのは1995年発売の「EF75-300mm F4-5.6 IS USM」。そのあと2009年発売の「EF100mm F2.8L マクロ IS USM」には、角度ブレとシフトブレの補正が可能な「ハイブリッドIS」を採用。そして2020年には、対応カメラ(EOS R5・EOS R6)とレンズの協調制御により、CIPA基準で補正効果8段分を実現するに至っている。

なお、ここであげた技術の開発秘話については次回以降でお届けする予定だ。

1987年のEFレンズ登場から34年間、レンズ技術の進化は止まることがなかった様子がうかがえる。同社は、“継続的に技術開発”をしてきたことが、RF/EFレンズシリーズの累計生産本数1億5,000万本達成の下支えになっているのだと振り返る。

キヤノンの“継続的な技術開発”を可能にしているもの。それは同社の技術開発における哲学に関係があった。

キヤノンの技術開発フィロソフィーとは

“理想を描いて理想を実現する”

「理想を描いて理想を実現する」。これはキヤノンのレンズ開発におけるひとつのビジョンだという。

ひとつの理想のレンズ像があるとする。例えば光学性能で見てみると、MTF曲線は100%に近い方がいい、収差劣化は画像に現れてはいけない、周辺光量はできるだけ落ちないほうがいいなど、キヤノンではそれぞれの項目に対して「何が理想か」ということが定義されている。

例えば「ボケ」について。柔らかいボケを好む人もいればそうでない人もいる。開発側としては好ましくないという2線ボケも、映像表現のひとつとして使われるケースがあるほどだ。ボケは人によって好みが大きく分かれる部分があるため、つまりはいろんな理想があると定義できるのだという。

理想が複数あるのならば、目的や用途、好みによってカスタマイズできればよいのではないか。そうした発想から生まれたのが2021年7月発売の「RF100mm F2.8 L MACRO IS USM」。球面収差をコントロールしてボケの描写を変化させられる「SAコントロールリング」を搭載している。キヤノンでは、理想をしっかりと定義することで発想が生まれ、それが開発にうまくつながってきているのだという。

RF100mm F2.8 L MACRO IS USM

理想を描くことが発想につながる。それは「コスト」に関しても同じだという。これまで超望遠レンズを開発しようとすると、販売価格が100万円を優に超えてしまい、一般のユーザーにとってはなかなかハードルの高いものとなっていた。しかし、“もっと多くの人に使ってもらいたい”、そうした理想から「10万円程度の超望遠レンズを作ろう」という発想が生まれる。2020年7月発売の「RF600mm F11 IS STM」と「RF800mm F11 IS STM」は、10万円前後で購入できる超望遠レンズだ。

理想を描くのはキヤノン

キヤノンは、ユーザーの要望に応えるのは重要なことだとしたうえで、「理想を描く主体はあくまでも我々(キヤノン)」なのだと強調する。ユーザーも気づいていない将来への課題、あるいはユーザーの期待をさらに超えることが、キヤノンの描く理想なのだという。

しかし技術の開発には我々の想像以上に時間がかかり、なかなか前に進めない状況も多々あるという。そのため、誰かに言われてから開発に取りかかるのでは、期待されている製品を適切なタイミングで出すことができない。そこで、先を見据えて理想を描き続けながら、各種要素技術などの仕込みを常に続けていくことが大事なのだそうだ。

キヤノンの技術開発のベースとなる“哲学”について語ってくれた加藤学所長(光学技術統括開発センター)

理想を現実にするために

この理想はいつ達成できるのか。発想が生まれてから実現に至るまで、その期間の見当がつかないことも多々あるという。理想と現実の間には多くのギャップがあり、それを埋めていくのが開発者の役目だ。

一歩一歩、着実に開発を進めていくわけだが、それだけでは飛躍的なジャンプアップはなかなかできない。理想を現実に大きく近づけるために、キヤノンでは2つの手段があると考えているという。

ひとつ目は「システムの進化」。2018年10月には、新たに「EOS Rシステム」が登場。大口径、ショートバックフォーカス、新通信システム、この3つの武器を使って、今まで制約で固められていた部分が緩和され、設計の自由度が上がったという。このシステムの導入によって、例えば「RF600mm F11 IS STM」と「RF800mm F11 IS STM」のように、エクステンダー対応でF22でもAFが可能になったことで生まれた企画もあるのだそうだ。

RF600mm F11 IS STM(左)とRF800mm F11 IS STM(右)

ふたつ目は、キヤノンで要素技術と呼んでいる「純粋な技術開発」や「新規の技術開発」。次回以降でお届けする光学素子の技術開発、アクチュエーターなどのメカ技術の進化も、理想の実現を助ける要素となる。キヤノンでは、実現させたい世界のために足りない技術があるのなら、「自分たちでつくろう」という信念があるという。

システムの進化と要素技術開発、この両面で理想を現実にしていく。

理想を描きつづけることが大事

RF/EFレンズシリーズの累計生産本数1億5,000万本の達成は、こうした同社に脈々と受け継がれている哲学によって生み出された結果だ。

世界に求められる製品を、タイムリーに生み出すこと。それを実現するには、とにかく自分たちが理想を描きつづける必要があるという。10年後、20年後に必要とされる技術は何なのだろうか。キヤノンの歩みはつづいていく。

(次回は色収差補正効果をもつ「DOレンズ」「BRレンズ」の開発秘話についてお届けする。)

本誌:宮本義朗