ミラーレスカメラ・テクノロジー

(最終回)まとめ。一眼レフは消えるのか?

国産最初の35mm一眼レフカメラ「アサヒフレックスI」(1952年)

技術の進歩は非情

常々思うのだが、技術の進歩とは非情なものだ。ある製品に関して技術者が知恵を絞り、努力に努力を重ねて改良してきた技術が、ある時全く新しい技術が登場すると、それまでの努力の結果が一夜にして全く無用のものに成り下がる。そんな場面を、我々は数多く見てきた。

例を一つ挙げてみよう。一時期どこの家庭でも必ずテレビのそばに一台は備えられていたビデオテープレコーダー、すなわちVTR、現在では全く見かけない。「VTR」という言葉もテレビのバラエティ番組などで「それでは次のVTRを見てみましょう」などという言い回しに痕跡を残すのみになっている。余談だが、この「VTRを見る」というのもおかしな表現だ。VTRは磁気テープに動画を記録再生する機械であり、そのVTRをじーっと眺めてもテープに記録されている動画が見えるわけはないのだ。閑話休題。そのVTR(英語圏ではビデオカセットレコーダー、VCRと呼んでいるが)には非常に高度な技術が数多く盛り込まれているのだ。

同じ磁気テープへの記録であっても、音声の記録と違い、動画の記録は信号の周波数が桁違いに高い。そのためテープと磁気ヘッドの相対速度を各段に上げる必要がある。そこでテープを動かすと同時に磁気ヘッドも動かす方法をとった。そのため高速で回転する金属製のドラムに磁気ヘッドを取り付け、これにテープを巻き付けてテープの進行方向の斜め方向に記録する、ヘリカルスキャンという技法をあみ出したのだ。しかも記録密度を上げるために隣接する記録トラックの間にスペースを設けず、ベタに記録する(ベータ方式の呼び名はここから来ている)。その際トラック間の信号の干渉を防止するために磁気ヘッドのギャップを傾けて(アジマス角という)記録することにした。VTRにはさらにテープカセットを前面から装填するとカセットから自動的にテープを取り出して、傾けて設置されたヘッドドラムにテープを巻き付けるローディング機構も備えられており、その動作はまさに芸術的であった。

こうやって積み上げてきた高度な技術を備えたVTRが、動画をハードディスクや光ディスクにデジタル記録する時代になると、あっという間に消え去ってしまったのである。

こうした現象は現在でも別の分野で進行中だ。自動車をはじめとする交通システムは、今後大きく変化する。ハイブリッド車も含めて内燃機関を使った移動手段は電動モーターのものに移行していき、20年後ぐらいには街角のガソリンスタンドは、公衆電話ボックスと同様に姿を消しているかもしれないのだ。そうなると、デフだとかトルクコンバーター、過給機、EFIなどというエンジン関係の技術が無用のものになる可能性をはらんでいる。

合理性では割り切れない面も

ただ、こうした技術の栄枯盛衰は、興味深いことに合理性だけでは割り切れない面もある。例えばオーディオの世界ではいまだにアナログのレコードを愛用しているマニアが数多く存在している。しかも半導体によるエレクトロニクス全盛の時代に真空管を用いたアンプを愛でる人もいるのだ。可聴周波数を超えた音も音質に影響するとか、三極管のA級増幅で歪のない音が得られるというような理由があるようだが、多分に心理的な要素が大きいと思われる。薄暗いリスニングルームでほのかに赤く光る真空管のヒーターを見ていると、真空中で電子が懸命に仕事をしている様子が見えるような気分になるのではないだろうか?

もう一つ例を挙げてみよう。腕時計、つまりウォッチの分野ではデジタルもアナログもクォーツ制御のものが当たり前になっているが、その中でゼンマイを動力としてテンプの振動で時を刻む機械式時計が生き残っている。しかもクォーツ時計よりもはるかに高価なプライスタグがついているのだ。時計の機能である時刻表示の面ではクォーツ時計の方が大きく優っている。しかも電波時計であれば誤差を自動的に修正してくれる。さらにソーラー時計とすれば電池交換も不要でメンテナンスフリーとなる。それらの機能をすべて付加しても機械式時計よりも安価に入手できるのだ。

それでも一日に数十秒の誤差があり、毎日竜頭を巻くか常に腕に装着していないと止まってしまう機械時計の需要がいまだにあるということは、ユーザーのニーズに合理性以外の要素があるということだ。腕時計の場合は宝飾品としての価値、さらにはスケルトンウォッチで体験できるテンプや脱進機の動きに、なにかしら感性に訴えるところがあるのだろう。

機械式時計のムーブメント(写真は「ライカ Watch」の試作品)。

カメラではどうか?

さて、前置きが長くなったが、カメラの世界ではどうだろうか? この連載のプロローグでも述べたように、ミラーレスカメラが一眼レフカメラにとって代わり、一眼レフは消えてゆくのだろうか? それとも一眼レフは機械式時計のように生き残るのだろうか? 連載を終えるにあたって筆者の独断と偏見を交えて分析してみよう。その前にスマートフォンとデジタルカメラの関係がどうなるかを考えるべきという声も聞こえてきそうだが、ここではそれはひとまず置いて、ミラーレスカメラと一眼レフの対比で考えてみたい。

ファインダー

ミラーレスカメラと一眼レフで最も異なる点といえば、ファインダーである。ミラーレスカメラのEVF/ライブビューファインダーは、動作原理上どうしても表示遅れが生じる。そのためスポーツ写真家などの間ではミラーレスカメラの使用を躊躇する人もあるように聞いている。だが、この表示遅れはメーカーの技術者の努力によってどんどん小さくなり、問題ないレベルにまで追い込まれることだろう。

それよりも後々まで残るのは、機械式時計や真空管と同様の心理的な要素ではないだろうか? 本連載の「その1」では「電気が作った絵」という表現を用いたが、次のような分析もできるだろう。

一眼レフなど光学的なファインダーでは、撮影者が被写体と同じ空間と時間を共有できる。被写体と同じ空間と時間の中で、それをファインダーで切り取って撮影しているというわけだ。それに対してEVFやライブビューファインダーの場合は、撮影者が被写体とは違う空間にいて、撮影された、あるいは撮影される画像を「モニター」しているのだ。ここでは撮影者と被写体の間には「電気信号」が介在し、同じ場にいて同じ空気を吸っているのではない。よく刑事ドラマなどで見かける、取調べ室をマジックミラー越しに観察しているような光景を思い浮かべていただければ理解しやすいだろうか?

この心理的な差が全く問題にならないケースも存在するだろうし、気にならない人もいるだろうが、多くのユーザー、特に一眼レフを使い続けてきた人にとっては意外と重要なものになるような気がする。

一眼レフカメラは、レンズの奥が明るく見える。すなわち撮影レンズの前方(被写体空間)とファインダー接眼部の後方(撮影者空間)が光でつながっているのだ。

シャッター

デジタルカメラのシャッターは、確実に撮像素子シャッターの方向に向かっている。機械的な遮光部材を動かす必要がないので高速シャッターが容易に得られ、シャッター効率も上がる。また機構の簡略化によるコンパクト化、コストダウンも期待でき、静音化も容易だ。ただ、フォーカルプレンシャッターが撮像素子シャッターに置き換わるのが、撮像素子の読み出し速度を速めたローリングシャッターの形で実現するのか、あるいはグローバルシャッターの形で実現するのかはまだまだ予測が難しい。いずれにしても、撮像素子シャッターの改良はミラーレスカメラを主な対象として進められていくことだろう。

ミラーレスカメラの中にはローリングシャッターのみで、フォーカルプレンシャッターを備えていない機種もある。ちょっと前のものではNikon 1のJシリーズがそうであり、最近のものではSIGMA fpがそれに相当する。今後、ミラーレスカメラの分野ではこの方向が加速されるだろう。ローリングシャッターの問題点として、動体のローリング歪みはよく話題になるが、意外と表面に出てこないのがストロボの同調速度である。フォーカルプレンシャッターと同様に、画面の一方の端で露出が終わるときにもう一方の端で露出が始まっているようなシャッター速度でないとストロボが使えないのだ。この「全開時間」すなわちストロボ同調速度が、ローリングシャッターではまだ不満足なレベルになっている。

例えばSIGMA fpはホットシューユニットを介して専用のストロボが使えるようになっているが、その同調最高速は1/30秒となっている。ただし、これはRAW記録が12bitのときであって、14bitの設定では1/15秒と遅くなってしまう。AD変換のビット数が上がると、それだけ読み出しの時間がかかることが原因だ。このようにローリングシャッターでのストロボ使用は、1/125~1/300秒でのシンクロが当たり前の現代では大きく見劣りする仕様になってしまうので、通常のフォーカルプレンシャッターを備えたカメラでは、ローリングシャッターのモードに切り替えるとストロボを使えないようにしているものが多い。積層型の撮像素子を用いてローリング歪みを大きく抑えたソニーα9でも同様で、撮像素子シャッターを用いるモードに切り替えると、ストロボは発光禁止となる。メカニカルシャッターレスのカメラを実現するには、この点が大きな課題となるだろう。

Nikon 1 J1のマウント内部。ローリングシャッター専用機なのでストロボ同調速度は1/60秒まで。

では、どうなるか?

このように、ミラーレスカメラには、まだまだ解決すべき課題が残っている。と、いうことは、ミラーレスカメラがまだまだ進歩するということだ。一方で一眼レフカメラはどうだろう?よくよく考えてみると、ミラーレスカメラが一眼レフカメラよりも格段に優れていて、一眼レフがどうしても追いつけないというような要素はあまりない。

背面のモニターによるローアングルやハイアングルの撮影は、ライブビューモードにすればよいわけで、現代の一眼レフカメラはいつでもミラーレスカメラに化けることができるのだ。ミラーレスの方が小型化に有利と言われるが、一眼レフでもキヤノンやニコンのエントリークラスの機種はけっこうコンパクトにできている。むしろ最近のフルサイズミラーレス機をみていると、レンズがどんどん大型化して、せっかくの利点を生かしていないような感がある。ショートフランジバックのレンズマウントにしても、オールドレンズをマウントアダプターで使う、いわゆる「レンズグルメ」のユーザーは喜ぶが、一般ユーザーにとってはそれほど大きな要素ではない。

本連載のプロローグでは「既視感」ということで、かつてライカM3の出現を機に、レンジファインダーカメラから一眼レフカメラに移行が始まったときに状況が似ていると書いた。しかし、そのときと最も相違する点は、上記のようなところにあるのではないだろうか? 当時の一眼レフカメラには、レンジファインダーカメラがどうあがいても追いつけない機能が備わっていた。パララックスのない近接撮影や、フォーカシングの精度の心配のない超望遠撮影である。そのことを武器に一眼レフカメラがレンジファインダーカメラを駆逐した感がある。そのような大きなインパクトが、今回のミラーレスカメラにはないのだ。

このように考えてみると、意外と一眼レフカメラはのちのちまで生き残るような気がする。レンズ交換式カメラの主役はミラーレスカメラになるにしても、一眼レフカメラも技術が成熟した、電池のもちの良い万能カメラとして一定の市場を形成していくのではないだろうか? 先に述べた機械式時計のようなものとはちょっと違う、もう少し積極的で実用的な存在となる。少なくともVTRのように人々の記憶からも消え去ってしまうようなものにはならない。いや、なってほしくないのだ。

筆者が現在最も多く使用しているデジタル一眼レフカメラ「ニコンD850」。

豊田堅二

(とよだけんじ)元カメラメーカー勤務。現在は日本大学写真学科で教鞭をとる傍ら、カメラ雑誌などにカメラのメカニズムに関する記事を書いている。著書に「とよけん先生のカメラメカニズム講座」(日本カメラ社)、「カメラの雑学図鑑」(日本実業出版社)など。