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【特別企画】ライカレンズの歴史(前編)


ライカM8
 「ライカ」は世界でもっとも有名なカメラブランドである。それは世界最高レベルの品質(必ずしも性能と同義ではないが)のカメラやレンズを、長年にわたり作り続けてきたという実績に裏付けられたものである。デジタルカメラ時代の今、「ライカ」がそのブランド力を維持できるかどうかは私にはわからないが、ライカが新たな挑戦を続けていることは間違いない。そのひとつはパナソニックと緊密な協力関係に現れていると思う。

 ここではライカカメラの変遷と、ライカレンズを名称ごとにとりあげ、そのスタートとなったレンズと名前の由来などを私のわかる範囲で整理してみた。なおレンズの発売年次などのデータは資料によって異なる場合があり、ここに記載したものが誤りかもしれないので、その点はご容赦いただきたい。また限定品などの特殊レンズについては、ほとんどふれなかった。

 とても重要なことはライカはレンズを大切にし、特別の地位を与えてきたということである。それはそれぞれのレンズに固有名を与えていることに示されていると言えよう。一般にドイツのレンズメーカーは、レンズにきちんとした名称を与えることにこだわってきた。

 これに対して日本のカメラ・レンズメーカーのレンズ名は、会社名と同じになってしまっている。その昔はセレナーやタクマーといったすばらしい名前があったのだが。もちろんズイコー(オリンパス)、ニッコール(ニコン)、フジノン(富士フイルム)などのレンズ名は今も健在で知名度も高いが、これらもレンズ群に対する総称でしかないのは少し残念である。例外的にコシナはフォクトレンダーブランドのレンズには固有名を熱心に与えているが、レンズメーカーとしての心意気を感じるためか、やはりコアなマニア層には受けが良いようだ。

 デジタル時代を迎え、以前よりレンズの存在感が高まっている今、いよいよライカM8でデジタル新時代を迎えるライカのレンズ群の発展が、今後も続くことを期待したい。


ライカの誕生まで

オスカー・バルナック
 ライカを製造していたエルンスト・ライツ(Ernst Leitz)社の創立は1849年である。ライツの生まれたドイツのウェッツラー(Wetzlar)は、18世紀初頭から光学関連産業が集まっていた。ライツははじめは顕微鏡などの光学機器を製造する会社であった。現在もライカ・マイクロシステムズ(ライカカメラとは異なる)では、高性能な顕微鏡を製造している。

 ライカの考案者はオスカー・バルナック(Oskar Barnack、1879〜1936)である。彼はドイツのブランデンブルグ近郊に生まれ、義務教育を終えた後、マイスターとなるためいくつかの工場で修行を積んだ。そして1902年に当時最先端の光学技術を有していたイエナのカール・ツァイス財団に入ることができた。しかし健康状態に問題があったバルナックは、約10年間働いたが、ついに正社員の待遇を得ることができなかったという。

 1910年頃、ライツでは新たな技術者を求めていたが、バルナックを知る人がエルンスト・ライツII世(1871〜1956)に彼を紹介、ツァイスでの将来に見切りをつけたバルナックは、1911年1月からライツで働くこととなった。

 バルナックは写真撮影が趣味で、病弱な体で大型のビューカメラを運ぶ苦労から開放されるため、映画用フィルムを使う小型カメラを考案したと言われている。またすでにツァイス時代に、小型カメラ開発のアイデアを持っていた。


ウル・ライカ
 バルナックは全金属製の小型カメラを、1913年頃3台試作した。これが後年「ウル・ライカ」と呼ばれるライカのルーツである。ダブルサイズと称する映画2コマ分の画面サイズ(24×36mm)を持ち、フィルムを1コマ送ると同時にフォーカルプレーンシャッターを巻き上げることができるセルフコッキング方式となっているなど、現代小型カメラの基本的要件を備えていた。だが、まだフィルムは暗室で装填しなければならず、巻き上げるときには必ずレンズに蓋をして遮光しなければならなかった。

 その後ドイツは第一次世界大戦に突入したが、バルナックはウル・カメラの改良を続けていた。鮮鋭な画像を得るためのレンズについては、1912年にライツに入ったマックス・ベレク(Max Berek、1886〜1949)が協力し、1920年3群4枚のエルマータイプで特許を取得、試作機には3群5枚の「ライツ・アナスチグマット」レンズ(後の「エルマックス」)を開発した。

 最初の「ライカA」(1925)と次の「B」(1926)はレンズ固定式で、まだ交換レンズという考え方はない。Aのレンズは最初期は「ライツ・アナスチグマット 50mm F3.5」だったが、すぐ名前が「エルマックス 50mm F3.5」と変わる。エルンスト・ライツとマックス・ベレクの頭の部分の合成語である。

 レンズ交換式になる前のエルマーはC.P.ゲルツの新種ガラスを採用していて、焦点距離がわずかに短くこのため後期型より全長が短い。これは旧エルマーと俗称されている。その後レンズ供給先がショットに代わり、硝材変更に伴う若干の設計変更を受けて新エルマーとなる。


レンズ交換式ライカの誕生

 1930年初のレンズ交換式となる「ライカC」が登場する。この時にはじめて直径39mm、ピッチ約0.977mmの「ライカスクリューマウント」(以後Lマウントと略称)が規定される。ただし最初はマウント面からフィルム面までの距離(フランジバック)が規定されておらず、このためカメラごとにレンズの調整が必要であった。交換レンズとしては、標準レンズのエルマー 50mm F3.5のほかに、「広角エルマー 35mm F3.5」、「望遠エルマー 135mm F4.5」が登場する。また、より明るいシャープな標準レンズとして「ヘクトール 50mm F2.5」が開発された。


エルマー 50mm F3.5 エルマー 35mm F3.5

ヘクトール 50mm F2.5

 しかしボディ間でレンズの互換性がないのはやはり大変不便であるため、フランジバックが28.8mmに規定された。1931年のことである。これによりどのボディにどのレンズをつけても、ピントが合うようになったわけである。この識別をするためにマウント面とレンズにOマークが刻印されるようになった。

 なおLマウントはねじ込みマウントであるため、レンズの停止位置が不定である。つまりレンズの指標は必ずしも真上に来ると限らない。多少左右にずれても、ボディの距離計との連動は問題が生じないようになっているので心配はない。正常なカメラとレンズの組み合わせならば、ピントリングをまわして距離計がスムーズに動き、月を測距したときにレンズの無限遠位置で二重像が合致するはずだ。

 1932年には、レンズと連動する距離計を内蔵した「ライカDII」が登場し、ライカの性能は他のあらゆる小型カメラに対し圧倒的な優位にたち、全世界の小型カメラメーカーの目標となる。

 しかしこの年、最大のライバルも登場する。当時世界最大のカメラメーカーであったツァイス・イコンがライカの成功を座視しているわけにはいかず、ついに35mmフィルムを使用するライカ判のレンズ交換式最高級カメラ「コンタックス」を投入してきたのである。

 カメラの性能としては1/1,250秒の最高速や一眼式ファインダーの採用でライカDIIを越え、レンズでは世界最高の明るさを誇る「ゾナー 50mm F2」と「同 F1.5」を登場させた。カール・ツァイスの天才ベルテレの手によるゾナーは、単に明るいだけではなくその鮮鋭さやコントラストの高さといった総合的な描写性能で圧倒的に優れており、企業としての規模や光学技術力がまるで違うライツにとって、大きな脅威となったことは間違いない。

【お詫びと訂正】記事初出時、Lマウントのネジピッチとフランジバックの数値を誤っておりました。お詫びして訂正させていただきます。


ズマール 50mm F2
 1933年、スローシャッターを備えた「ライカDIII」が発売されるが、この時ライツ初のF2級大口径レンズ、「ズマール 50mm F2」が登場する。ズマールはガウスタイプの4群6枚構成であった。もちろんコンタックスのゾナー 50mm F2への対抗である。異論がある人もいるかもしれないが、客観的に見て絞り開放付近の描写性能はゾナーには及ばなかった。ゾナーに対抗できる高性能レンズはズミクロンの登場をまたなければならない。

 1935年、コンタックスに対抗して1/1,000秒を備えた「ライカ IIIa」が登場するが、レンズ群もツァイスを意識してさらに充実する。まずツァイスの「テッサー 28mm F8」に対抗して、初の28mm級広角レンズの「ヘクトール 28mm F6.3」(3群5枚)が登場、明るさの点でツァイスに対し優位にたった。特殊な軟調描写を目的とした「タンバール 90mm F2.2」(3群4枚)も発売される。ツァイスには同種のレンズはない。さらに本格的な望遠レンズとして、「テリート 200mm F4.5レンズ」(4群5枚)が供給された。カメラ内蔵の距離計ではピント精度が十分でないため、一眼レフ形式となるビゾフレックスと共に使用する。テリートは非常にシャープな望遠レンズである。


ズミクロン 50mm F2
 第二次世界大戦後しばらくするとエルンスト・ライツの経営も安定し、バルナック・ライカの決定版と言える「ライカIIIf」が1950年に登場、その品質はまさに世界最高レベルであった。そして1953年、現在でも名レンズとして名高い標準レンズの決定版「ズミクロン 50mm F2」(6群7枚)が登場する。

 1957年バルナック・ライカの最終型として、「ライカIIIg」が登場する。このライカIIIg用に新開発されたという標準レンズが、「エルマー 50mm F2.8」(3群4枚)である。これがLマウント用として開発されたレンズの最後となった。


M型ライカとライカCL

ライカM3
 1954年、性能と機能を完全に一新した新型「ライカM3」が登場した。M3はそれまでのバルナック・ライカよりかなり大型になったため、それを嫌がる人もいないわけではなかったが、バルナック・ライカの操作上あるいは性能上の問題を鮮やかに解決し、世界的に大成功する。ライカM3はライツの絶頂期に製造されたカメラであり、その品質は数あるカメラの中で世界最高、ライツのカメラの中でも最高のできと言うライカ愛好家とクラシックカメラの修理職人は数多い。

 ライカM3以降カメラのボディサイズが大きくなったことに伴い、旧来のレンズでも外観形状が変更されてM型ライカにマッチしたデザインとなり、レンズマウントがMマウントとなったものが次々登場する。Mマウントはそれまでのライカスクリューマウントに対して上位互換で、Mバヨネットアダプターリングを併用することで旧来のレンズも機能的な制限なく使用可能になっている。

 Lマウントで既発売されていたレンズのMマウント変更品は、「ズマロン 35mm F3.5」(新デザイン)、「エルマー 50mm F3.5」(新デザイン)、「ズミクロン 50mm F2」(沈胴)、「ズマリット 50mm F1.5」、「エルマー 90mm F4」(新デザインおよび新型沈胴)、「ヘクトール 135mm F4.5」。またライカ IIg用として1957年にLマウントで発売されたエルマー 50mm F2.8は、翌1958年にはMマウント仕様も発売となった。

 またM型ライカ発売後、新登場したレンズはエルマー 50mm F2.8をのぞいて当初からMマウントで、外観はライカM型での使用を前提としたデザインになっている。しかしバルナックライカ・ユーザーの要望に応え、その外観は変更せずにスクリューマウント化したレンズも発売されている。

 1972年、ライカはミノルタカメラと提携し、ミノルタが製造した「ライカCL」を1973年に販売開始する。このカメラは日本ではライツミノルタCLという名前となり、国内限定でミノルタが販売した。このCL用に新たに開発されたレンズが、ズミクロンC 40mm F2(4群6枚構成)とエルマーC 90mm F4(4群4枚構成)で、カメラに合わせてコンパクトなサイズとなっている。

 ズミクロンC 40mm F2の設計そのままで国内でミノルタが生産したレンズが、Mロッコール 40mm F2である。エルマーC 90mm F4のほうは、ライツがMロッコール 90mm F4という銘板をつけたレンズを製造し、それをミノルタが輸入して販売していたという。なおこのCレンズは、距離計の連動部が傾斜カムになっているため、カメラボディ内蔵の連動距離計との適合に問題が生じることがあるので、CL以外で使用する場合距離計との連動精度の確認が必要である。なおレンズ名の後にCの記号がつくのは、この2本だけである。


一眼レフ「ライカR」の登場

 エルンスト・ライツからのライカ判一眼レフカメラの登場は、他の主要カメラメーカーに比べ、かなり時代的に遅れてのことであった。これは第二次世界大戦後レンジファインダーライカ、特に1954年に登場した新型ライカM3とその後のM2が非常に好調で、ライツの業績は極めて順調であり、一眼レフカメラ開発の必要性に気がつくのが遅れたからだと言われている。

 対して当時国内最先端の輸出産業であった日本のカメラ業界は、ライカM3のあまりの高品質と高性能に衝撃を受け、解決すべき課題は多いが将来性もあった一眼レフカメラの開発に注力するようになり、それがその後のカメラ王国日本に繋がるのであるから、歴史というのはおもしろい。


ズミクロンR 50mm F2
 さて、ライツ初の一眼レフカメラ、ライカフレックス(Leicaflex)は1965年に登場する。同時に登場したレンズは4本で、標準レンズはズミクロンR 50mm F2、4群6枚構成のガウス型レンズである。このレンズは絞り開放付近でのぼけが美しいことが特筆できると思う。ピント面はシャープだし、すばらしいレンズだと思う。

 余談だが世間ではライカの一眼レフカメラボディの性能は今ひとつと言われることが多いが、レンズ性能についてはユーザーの評判は良いものが多い。また、いろいろなメーカーに在籍する知人のレンズ設計者の間での評価も高いようだ。コストを十分にかけているためかもしれない。

 ライカフレックス用の広角レンズはエルマリートR 35mm F2.8で、これはレトロフォーカス型の5群7枚構成である。望遠用はエルマリートR 90mm F2.8がガウスタイプの4群5枚構成、エルマリートR 135mm F2.8はゾナータイプの4群5枚構成である。135mmレンズをのぞいて、いずれも当時の国産レンズに比べて近接距離が短いという特徴もあった。

 またライカMシステムより近接能力は明らかに優れているわけで、一眼レフシステムの優位性をライツも理解はしていたことがわかる。それはレンジファインダーライカでは、すでにビゾフレックスというカメラを一眼レフ化するアクセサリーを充実させていたのであるから、ある意味当然ともいえる。

 さて当初はたった4種類しかなかった交換レンズだが、実はそのビゾフレックス用のレンズがアダプターによりライカフレックスで使用できるようになっていたのである。このため、たとえば近接撮影用のエルマー 65mm F3.5や、当時400mmまでの望遠系テリート各種を撮影に使うことができた。

 1968年にはライカフレックスの改良機ライカフレックスSLが、1974年にはライカフレックス最後のモデル、ライカフレックスSL2が販売開始された。

 1976年、ライカフレックスシリーズに変わる新型の一眼レフ、ライカR3が登場する。日本のミノルタとの技術協力により、ボディは電子制御のミノルタXEで、測光系はライカ独自のスポット測光と平均測光の2系統を切り替えることができた。マウントの連動カムも新設された。

 ライカR型一眼レフのマウントは、ライカフレックスから現在のR9に至るまで基本的な形状は変更がない。しかしボディ内蔵露出計との連繋システムは漸進的に改良されたため、互換性がない場合がある。具体的にはRマウントは1カム、2カム、3カム、R専用、ROM内蔵に分類できるが、どのボディに装着可能であるかは資料を調べるか、ライカ・ジャパンや正しい知識を持つ販売店に確認したほうが良い。

 では、この後はレンズ名称ごとにライカレンズの歴史を見ていこう。


ライツ・アナスチグマット(Leitz Anastigmat)

 エルンスト・ライツ(Ernst Leitz)の技師オスカー・バルナック(Oskar Barnack、1879〜1936年)が、ライカに繋がるウル・カメラの研究を続けた時期、装着するレンズについてはマックス・ベレク(Max Berek、1886〜1949年)が協力していた。ベレクは1920年3群4枚のエルマータイプで特許を取得、ライカ試作機には3群5枚のライツ・アナスチグマットレンズを開発した。

 アナスチグマットとは非点収差補正レンズという意味で、非点収差のことをAstigmatismと言うが(医学では乱視の意味)、それを否定する前置詞Anがついた言葉である。非点収差はレンズの収差のひとつで、点像をレンズを通して結像させたときに点像にならないという収差である。この時代アナスチグマットという名を持つレンズはほかにも数多く存在し、ライツ・アナスチグマットはあくまでもライツのアナスチグマットレンズという意味である。

 最初のライカA型(1925年)と次のB型(1926年)はレンズが固定式であったが、ライカA型のごく最初期のモデルに装着されたレンズがライツ・アナスチグマット 50mm F3.5であった。このタイプのライカA型は150台弱しかなくコレクターズアイテムとして500万円以上はするが、偽物も少なからず存在するので要注意だ。なおこのレンズは沈胴式である。


エルマックス(Elmax)

 ライカA型の最初のレンズ、ライツ・アナスチグマット 50mm F3.5はすぐに名前がエルマックス 50mmF3.5と変わる。レンズの中身は同じものである。このElmaxという名前は、エルンスト・ライツとマックス・ベレクの頭の部分の合成語である。エルマックス付きのライカA型は約700台とこれも数が少なく、やはりコレクターズアイテムとして200万円以上はするが、こちらも偽物に要注意だ。このレンズも沈胴式である。


エルマー(Elmar)

エルマー 50mm F3.5
 エルマックスの性能は、ライカが当時提唱していた35mm判でもシャープな写真を撮影するという目標を十二分に達成した優れたレンズであったが、後群が3枚貼り合わせで製造が難しいという問題があったという。

 そのため1926年には、3群4枚のエルマー 50mm F3.5に変わるのである。エルマー 50mm F3.5レンズはその後35年以上にわたり生産が続けられ、ライツの代表的標準レンズとなった希代の名レンズである。状態の良いエルマーなら戦前のノンコーティングのレンズでも、絞り開放から驚くような鮮明な写真が撮れる。

 エルマーは3群4枚の構成で、カール・ツァイスのパウル・ルドルフが1903年に発明した20世紀最高の傑作レンズ、テッサーと同じ構成であるが、エルマーは絞りの位置がG1(最前部)とG2(中央)の間にあるという違いがある(テッサーはG2とG3/G4の間)。エルマータイプのレンズ構成については先にも書いたとおりベレクが1920年にドイツ特許を取得している。エルマーの名前はエルマックスに由来していると思われる。

 このエルマー 50mm F3.5は、ライカC型の時代に独立した交換レンズとなり、その後いくつかのバリエーションがあるが、最終型まで沈胴式であった。製造本数は37万本を超えるという。


エルマー 65mm F3.5(ビゾフレックス使用)
 この後、3群4枚構成のエルマータイプのレンズとしてはエルマー 35mm F3.5(1930年)、エルマー 135mm F4.5(1930年)、エルマー 90mm F4(1931年)、エルマー 105mm F6.3(1932年)、エルマー 50mm F2.8(1957年)、エルマー 65mm F3.5(1960年)があるが、1960年に登場したエルマー 135mm F4は4群4枚構成となった。以後レンズタイプに関係なく一眼レフ用も含めて開放F値がF3.5からF4クラスのレンズはエルマーと呼ばれるか、あるいはエルマーの名前が含まれるようになった(望遠系をのぞく)。

 たとえばM用レンズのテレ・エルマー 135mm F4(1965年)や3つの焦点距離に可変できるトリ・エルマーM 28-35-50mm F4(1998年)、一眼レフのライカR用マクロ・エルマーR 100mm F4、スーパー・エルマーR 15mm F3.5、エルマーR 180mm F4などがある。なお例外は1995年に再発売となったエルマーM 50mm F2.8だけで、このレンズはF2.8だがすでに歴史的に同じスペックのレンズが存在したため同名としたのだろう。名前についての規則に従うならエルマリートM 50mm F2.8となったはずである。


エルマー 90mm F4 マクロ・エルマーR 100mm F4

ヘクトール(Hektor)

 ライカA型の時代にエルマー 50mm F3.5より明るいレンズをという要望に応えて登場したのが、ヘクトール 50mm F2.5であった。ヘクトールは3群3枚のトリプレットを基本として、各群を2枚ずつの貼り合わせにした3群6枚構成とし、諸収差を補正し性能を向上させている。実写するとそのシャープな写りに驚かされる。

 ヘクトール付き(ボディに固定)のライカA型はおよそ1,300台あり、その後レンズが独立して交換レンズとなったヘクトール50mm F2.5は約10,600本製造されたという。

 なおヘクトールの名前の由来であるが、なんと設計者のマックス・ベレクの愛犬の名前であるそうだ。もともとヘクトールはギリシア神話のトロイ戦争の勇者の名前であるから、ベルクの愛犬はよほど偉大なワンちゃんだったのであろう。


ヘクトール 73mm F1.9 ヘクトール 28mm F6.3

 ヘクトールの名を持つレンズはその後、ヘクトール 73mm F1.9(1931年)3群6枚構成、ヘクトール 135mm F4.5(1933年)3群4枚構成、ヘクトール 28mm F6.3(1935年)3群5枚構成、ヘクトール 125mm F2.5(1954年)3群4枚構成がある。いずれもレンズ構成が3群のトリプレットを基本にしているという点に特徴があるといえよう。


ズマール(Summar)

ズマール 50mm F2
 初めて低速シャッターを備えたライカDIII型が発売された1933年、ライツの標準レンズとしてこれも初めてF2級の明るさを備えたズマール 50mm F2が登場した。この前年にはカール・ツァイスがツァイス・イコンの最高級レンジファインダーカメラであるコンタックス用として、その威信をかけた超高性能レンズ、ゾナー 50mm F2とゾナー 50mm F1.5を発売、ライカもコンタックスへの対抗上、大口径レンズが必要とされていたのである。

 ズマールは4群6枚構成のガウス型で、初期型は固定鏡胴だったがすぐに沈胴鏡胴に変更となる。外装は初めはニッケルメッキで、後にクロームメッキに変更となる。

 ズマールの名前のラテン語のSumma「最高のもの」に由来しているという。古いライカユーザーの中には、このレンズをズンマーと呼ぶ人もいる。なおズマールの名前を持つレンズは、以後登場していない。

 ズマールはその立派な名前のとおり戦前のライカを代表する大口径標準レンズだが、絞り開放近辺ではいわゆる甘い描写である。ズマールがソフトフォーカスレンズに分類されることがあるが、これはとんでもない話だ。当時の光学設計の技術力や使用可能な硝子材では、ガウスタイプではここまでの性能しか出せなかったのであって、ソフトフォーカス用に設計したのではない。はっきり言ってしまえば開放付近の性能は、ツァイスのゾナー 50mm F2の敵ではなかった。しかし絞って収差がなくなってくると、ズマールも十分にシャープな描写となる。

 余談だが歴史というのは皮肉なもので、現代では大口径標準レンズはそのほとんどがガウスタイプを採用し、ゾナータイプは完全に姿を消した。と、少し前なら簡単に書けたのだが、カール・ツァイスのZMマウントのゾナー 50mm F1.5(オリジナルどおりのゾナータイプ3群6枚構成)と宮崎R&DのMS-MODE-S 50mm F1.3(変形ゾナータイプ4群5枚構成)が登場し、ライカマウントレンズの世界はまたまた楽しくなっているのである。


タンバール(Thambar)

タンバール 90mm F2.2
 タンバール 90mm F2.2は1935年に登場した軟焦点レンズ、つまりソフトフォーカス撮影用レンズである。ライツの数あるレンズの中でも非常に特異なものといえる。また後継レンズは登場していない。

 レンズ構成はヘクトールタイプの3群4枚だが、付属品のセンター部に光を通さない蒸着膜がある専用フィルターが重要で、これを併用することで軟焦点描写を強めることができる。また専用フードとキャップもあり、一式揃ったものは元々製造本数が約3,000本と少ないため、非常に高価である。

 なおタンバールはギリシア語のタンボス(Thambos)「驚き」が語源だという。その写りをみれば驚嘆するということなのだろうか。たしかにその独特の描写を活用すれば芸術性の高い写真を生み出すことができるため、世界的に人気がとても高いのは事実だ。


テリート(Telyt)

 1935年に発売となったライツ初の200mm望遠レンズには、テリートという名前が与えられた。

 そもそも望遠レンズはtelescopic lensと書かれるが、teleとは遠距離を意味する接頭語だそうである。elytの部分はフランス語起源でドイツ語にもあるエリートElite「選ばれし者」に関係するらしい。

 テリート 200mm F4.5はボディの距離計は精度の点で使用できないため、専用のミラーボックス(ビゾフレックス)を併用し、一眼レフ方式でピント合わせを行なう。4群5枚のテレタイプのレンズ構成で、非常にシャープな描写である。最短撮影距離は3mであった。

 以後、ライツの200mm以上の望遠レンズはレンズの明るさにかかわらず、テリートという名前がつけられている。例外はR用のアポ・テリート 180mm F3.4(1975年)、M用のアポ・テリート 135mm F3.4(1998年)である。また200mm以上の望遠レンズにもアポ・テリートが何種類かあるが、アポは超色消しを意味するアポクロマチック(Apochromatic)に由来している。


クセノン(Xenon)

クセノン 50mm F1.5
 1936年、当時世界一の明るさを誇ったカール・ツァイスのコンタックス用ゾナー 50mm F1.5に対抗すべく、シュナイダーの協力を得て開発・製造したのがクセノン 50mm F1.5である。

 シュナイダーはドイツの高い技術力を持ったレンズメーカーであり、クセノンはシュナイダーのF2.8以上の明るさを持つガウスタイプの大口径標準レンズに与えられた名前である。クセノン 50mm F1.5は5群7枚構成で、絞り開放ではフレアがかなり多いがなかなかシャープなレンズである。クセノンの語源はギリシア語のXenosによるらしく、「未知の、珍しい」という意味だそうである。

 ライツはこの後も先進的な光学技術が必要なレンズについては自社だけでは開発ができず、他の有力光学メーカーの力を何度も借りることになる。なおクセノンの後継レンズはズマリット 50mm F1.5となったため、ライカ用レンズとしてはクセノンはこのレンズのみである。


ズミタール(Summitar)

ズミタール 50mm F2
 ライカIIIbが発売された翌1939年、ズマールに変わる新型大口径レンズ、ズミタール 50mm F2が登場した。ズミタールはガウスタイプの4群7枚構成で、ズマールより色収差が良く補正され、また周辺光量が増大している。これは当時カラーフィルムの使用が増えてきたことに対応した改良だそうでである。実際ズミタールはなかなか良く写るレンズであり、生産本数が多いため比較的価格も安く、入手しやすい。

 外装はクローム仕上げで沈胴鏡胴であるが、戦後モデルはコーティングされるなど細かな変化がいろいろある。ズミタールの名称は、ズマールと同じくラテン語のSumma「最高のもの」に由来しているという。なおズミタールという名前を持つライカ用レンズはこれだけである。


ズマレックス(Summarex)

 1943年に発売された大口径の中望遠レンズがズマレックス 85mm F1.5である。ライツとしては85mmという焦点距離のレンズはこれが今のところ唯一である。

 レンズ構成は5群7枚のガウスタイプ。初期は黒塗装仕上げで距離目盛り部がクローム仕上げというライツの一般的な仕上げだが、後期は全体がクロームメッキとなり、もともと大柄なレンズなのでたいへん豪華で立派に見える。フードやキャップは専用品が用意されていた。

 ズマレックスの由来であるが、ズマールと同じくラテン語のSumma「最高のもの」と、Rex「国王、君主」から来ていると思われ、当時35mm判中望遠レンズでは世界最高の明るさを誇ることもあり、文字通り中望遠レンズの頂点に君臨するレンズという意味なのであろう。


ズマロン(Summaron)

ズマロン 35mm F3.5
 エルマー 35mm F3.5に代わって高性能化した新35mmレンズはズマロンという名称になった。1946年の登場で4群6枚構成のガウス型、とてもコンパクトにまとめられている。外装はクロームメッキ仕上げ。絞り環が鏡胴脇に配置され、操作性も大幅に向上した。描写性能も特に周辺部の画質が向上している。なかなか良く写るレンズである。

 ズマロンの名前は、ズマールと同じくラテン語のSumma「最高のもの」に由来しているという。ズマロンの名を持つレンズはほかに1955年に登場したズマロン 28mm F5.6(俗称赤ズマロン)、ズマロン 35mm F3.5を改良したズマロン 35mm F2.8(1958年)の3本のみである。


ズマリット(Summarit)

ズマリット 50mm F1.5
 クセノンを改良して描写性能をより向上させた大口径レンズが、ズマリット 50mm F1.5(1949年)だ。レンズ構成は5群7枚でクセノンとほとんど同じ配置だが、新種硝材を採用して性能を向上させている。絞りの形状は角形からほぼ円形に変更されている。外観はクセノンによく似ている。

 ズマリットはズマールと同じくラテン語のSumma「最高のもの」に由来しているという。ズマリットという名前のライカ用交換レンズはこれだけであるが、後にライカのコンパクトカメラ、ミニルックス用としてズマリット 40mm F2.4が登場している。


<後編では、ズミクロン以降のレンズを紹介します>



URL
  Leica Camera(英文)
  http://www.leica-camera.us/



根本 泰人
(ねもと やすひと)クラシックカメラの収集が高じて有限会社ハヤタ・カメララボを設立。天体写真の冷却CCD撮影とデジタル画像処理は約10年前から、デジカメはニコンE2/E900から。趣味は写真撮影、天体観測、ラン栽培、オーディオ(アンプ作り)等。著書「メシエ天体アルバム」アストロアーツ刊ほか。カメラ雑誌、オーディオ雑誌等に寄稿中。 http://www.otomen.net
http://www.hayatacamera.co.jp

2006/12/18 00:03
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