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【写真展リアルタイムレポート】
デジタル侍写真展「風林火山絵巻」

~知られざるデジタル侍の全貌を公開
Reported by 市井 康延

全員集合するのは珍しいのだが、初日に入口での記念撮影。このあとはトークショーの20日にも再度集結だ

 東京 品川のキヤノンSタワー2階オープンギャラリーで、デジタル侍写真展「風林火山絵巻」が始まった。デジタル侍は、3年ほど前「デジタルをキーワードに、なにか一緒に面白いことをやろうよ」と小林義明、土屋勝義、豊田直之、吉田繁の4名が集まり誕生した写真家グループだ。その後、撮影会、セミナーを開催しながら、岡嶋和幸、川合麻紀(敬称略)とメンバーを増やしてきた。

 今回、「地球大好き!」の統一テーマのもとで、それぞれがこれまで取り組んできた写真活動から作品を制作している。その技術的な解説は「デジタルカメラマガジン5月号」に掲載されているのでそちらを見てもらうことにして、ここではそれぞれの写真家が、そのテーマに至るまでの道筋を紹介しよう。雑誌、広告、エディトリアルなどで活躍中の6名だが、誰も最初は好奇心旺盛なアマチュア写真家だったのだ。6人の中にはきっと、自分と感性が近い1人が見つかるはず。さて、デジタル侍絵巻の開幕!


小学校で初めての暗室体験

小林義明さん。自らの作品製作に集中するため、北海道への移住を計画中

 今回の作品は風景を和紙に出力し、作品の下には、そのモチーフと共鳴しそうな玩具などを添えている。第一幕は小林義明さんだ。

 写真を撮り始めたのは小学校6年生で、カメラは家にあった一眼レフ「ミノルタ SR-T101」だ。小学校に写真好きな先生がいて、その先生の指導のもと、小学校の暗室で初めて現像とプリント作業を体験したという。個人的には小学校に暗室があることが驚きだったのだが、そのころ住んでいた多摩ニュータウンの小学校には「どこでも暗室があったと思いますよ」と小林さんはいう。

 中学に入学したときに、自分のカメラを買ってもらう。生き物が好きだったことで、そのころから昆虫や自然を撮り始めた。周りにも同好の士は多いうえ、中学校にも暗室があり、せっせと写真好きを嵩じさせていった。高校生のころ、雑誌の読者イベントに参加。講師は写真家の丸林正則さんで、イベント後も月に1回、編集部に集まって写真を見てもらうことになる。ちなみにその時のメンバーには、写真家の諏訪光二さん、並木隆さんがいたそうだ。

 東京写真専門学校(現 東京ビジュアルアーツ)を卒業後、紹介されてフォトライブラリーの仕事を始めたが、ここでの仕事が一番勉強になったという。花や昆虫を被写体にマクロで撮影することが多く、「中判カメラを使って、相当丁寧に撮らないと商品にならない」クオリティが必要だったからだ。

 デジタルカメラを使い始めたのはキヤノン「EOS D30」から。このときはまだカメラの完成度も低く、サブ的な使い方しかできなかったが、「EOS-1Ds」の登場が決定的だった。

 小林さんがデジタルカメラに最も魅力を感じたポイントは、撮影時間の自由度を広げてくれることだ。雑誌の仕事では必ず締め切りがあるわけだが、フィルムカメラの場合は、現像の時間を考えて撮影を打ち切らなければならない。それがデジタルであれば、ぎりぎりまで撮影していられる。自然を相手に撮影している写真家にとって、その違いは大きい。

 デジタルカメラの導入をきっかけに、小林さんの中では、自分の作品制作に時間をかけたいという思いが強まっていて、このほど北海道への転居を決めた。「風景写真は満足できる1点を撮るのに、5年、10年という長い時間がかかることもある。自然のなかに入り、腰を据えて取り組まないといつまでたっても撮り始められないので、この辺で一度踏ん切りをつけて行動してみようかと考えています」。

 今回、出展した作品は、これまで撮影したストックからセレクトした。写真に玩具などを添えたのは、「見た人がイメージをふくらませるきっかけになればという狙いと、こういう写真の見せ方、表現方法もあることを提案したかった」という。


50mmで撮り続けた学生時代が原点

岡嶋和幸さん。初めての飛び込み営業がデジタルカメラマガジンだったって新発見なネタですよね
 岡嶋一家は結婚10年を迎えた記念に、福岡から東京への家族旅行に出た。和幸少年が小学3年生の春休みだ。旅の思い出を撮影するために、父は「コニカC35」を購入した。初日のうちにそのカメラは、父の手から和幸少年の手に握られていた。そのカメラは、そのとき好きだった電車を撮るのに使い、小6のときには、福岡市内の路面電車が廃止になる日に撮影に行ったそうだ。「父親がこれは上手く撮れていたからと、1枚だけ4切にプリントしてくれて、それがすごく嬉しかった」。

 中学で写真の授業を選択し、暗室作業を体験した。カメラは叔父さんから借りた「ニコンFフォトミック」。レンズは50mmだった。荒々しいタッチのドキュメンタリースナップだろうか。その後、バイト代を貯めて39,800円でリコーXR500を購入した。レンズは50mm F2だ。

 高校時代には、写真雑誌で見た木原和人さん(故人)の風景写真に感動して、自然を撮りたいと思い始めたという。マクロレンズがほしいと思ったが、おいそれと買えなかったため、リバースアダプターでレンズを逆向きに装着して、花や昆虫を撮っていた。高3になって、夏休みのバイト代を投入し、50mmマクロがついたキヤノン「AE-1プログラム」を手にした。

 それまで卒業後の進路は、工学部に進むことを決めていたが、ふと迷いが生じた。一生、エンジニアでいいのだろうかと。「後年知ったのだけど、母親は文化服装学院を出て、松竹の衣裳部にいたらしい。それで小さいころから絵画展に連れて行ってくれたり、絵を描かされたりしていたんです。画家で食べていくのは大変だろうという判断はついた。では、写真家ならどうだろうと思った」。

 中学時代、報道カメラマンを主人公にした「池中玄太80キロ」というテレビドラマをやっていた。主人公は、仕事と別にライフワークで鶴を撮影しているという設定で、和幸少年は仕事の写真と自分の写真が別に存在することに、衝撃を受けていた。それを思い出し、「写真ならば趣味と仕事が両立できるじゃないか」との結論を引き出したわけだ。

 東京写真専門学校(現 東京ビジュアルアーツ)に進み、スポーツ写真のアルバイトを始めた。また、女優の撮影で著名な早田雄二さんが興したリュウスタジオで、スタジオマンとして働き始めた。「スタジオマンはたくさんの現場を体験できるが、広く浅くしか理解できない。ポートレート撮影の現場を手伝っても、実際の作品が見られるのは雑誌に掲載されてから。その当時は、ライティングなど気になった現場の写真は、雑誌を発売日に買って、どんな写真になっているのか確認していました」。

 助手にならないと深い部分は学べないとわかった岡嶋さんは、森健児さんの門を叩く。ここで3年半、ライティングのノウハウや撮影技術をみっちり教え込まれた。その後、フリーになったわけだが、森さんの助手だったころから現場の手伝いに行っていた沼田早苗さんの仕事は、33~34歳まで続けている。


 「森さんが数値で理論的に指示するのに対し、沼田さんは“もっとふわっとした感じに”とか、感覚的な物言いをする。その感性も森さんにない、女性的な独特のもので、ずいぶん影響を受けました」。岡嶋さんがフォトコンテストの審査をすると、入賞者の女性率が半数近くに上がる。「女性的な感性に共感してしまう。逆にセオリーづくめで、技術でねじ伏せた写真はスルーしてしまうんです」。師の影響や恐るべしだ。

 フリーになって、当初のフィールドは芸能関係のポートレート撮影だったが、芸能プロダクションのイメージ通りの写真を撮らなくてはいけない環境がいやになって、アイドルの撮影からは一切手を引いた。仕事はまったくなくなり、一時は、沼田さんの助手をやりながら、夜はビデオレンタル店でアルバイトをしていたという。

 その一方で、森さんの助手時代からパソコンを使い始めていたことから、雑誌「DTP WORLD」などで記事を書くようになった。その会社の依頼で、アドビ公式ガイドブック「ビジネスで使いこなす Adobe PageMaker」を執筆した。これが岡嶋さんの最初の著書だ。

 1999年9月にニコンが「D1」を発売したとき、「これからはプロもデジタルカメラの時代になる」と思い、デジタルカメラマガジンに売り込みのメールを送ったという。「後にも先にも初めてやった」という飛び込み営業だ。

 デジタル一眼レフはキヤノン「EOS D30」から使い始め、CDのジャケット撮影はすべてデジタルで撮影していたという。ライブの撮影は、ホワイトバランス、感度設定の自由度があるデジタルのほうが楽なのだ。

 1992年からは旅写真家として、旅の風景やスナップを撮影し、ゴルフが好きなことから、近年はゴルフ発祥の地とされているスコットランドのゴルフ場をライフワークとして取り組んでいる。それらに共通してあるテーマが「道」だ。

 今回出展した作品も「道」をテーマにしたもので、それも自らの写真の原点である50mmレンズを使って撮影した。50mmは初めて使った一眼レフと、初めて買った一眼レフについていたレンズの画角だ。

 「どんどん地面がアスファルト、コンクリートで塗り固められている。以前、住んでいた練馬も畑がなくなり、これまであった道がなくなり、道のなかったところに舗装された道路ができている。それに嫌気がさして、千葉の御宿に引っ越したんですけどね。小学校のとき、道は遊び場であり冒険の場所だった。小学生のときに撮っていた目線に帰って、子どものころの原風景を探してみたのが今回の作品です」。


小学校時代の夢はオリンピック選手

土屋勝義さん。吉田繁さんにデジタルカメラを薦められたデジ侍の1人

 土屋さんの生まれは築地。川は身近な存在だ。その川をモチーフに、舞台写真とポートレートを撮り続けてきた土屋さんならではの世界観を展開する。

 土屋さんに写真との出会いを聞くと、「小学校のとき、一眼レフカメラを拾ったんです。そのとき、初めてファインダーをのぞきました」との答えが返ってきた。これまで相当数の写真家の話を聞いてきたが、こうした出会いのエピソードは初めてだ。

 小学校時代は、フィギュアスケートをやっていて、オリンピックに出ることが夢だったという。それは絵空事ではなく、そのクラブからは何人もオリンピック選手を輩出していて、土屋さんも頭角は現していたそうだ。

 それが明治大学中野中学で、写真部に入ってしまう。中高一貫教育だから、写真部も中1から高3までいる大所帯で、先輩からの刺激もたっぷりある。そこで印画紙から像が浮き上がってくる面白さを知ってしまったのだから……「小学校の作文では、将来の夢をオリンピック選手と書いていたのですが、中2の作文ではカメラマンになると書いていました」。

 明治大学の付属学校にいながら、高校生のころには写大(現:東京工芸大学)に行くと決めていた。それも早くデビューできるからと、敢えて短大を選んだ。大学では、広告やブツ撮り、ファッション写真を学ぶ商業写真研究室に所属していたが、具体的に写真家の仕事にどういうものがあるのか分かっていなかったという。そんな折、脳腫瘍が発見され、手術を受けた。「普通の生活なんかできるようになるのだろうかという不安でいっぱいだった。それでも広告代理店に就職が内定し、面接に行くと、そこの写真部長に六本木スタジオに連れて行かれました」。

 赤坂スタジオと六本木スタジオはもっとも過酷な仕事場といわれ、大学時代から「あそこにだけは避けて通れ」と皆んなが口を揃えて言っていた場所だ。住み込みで女人禁制、勤務時間は朝8時から深夜0時を過ぎる。だが、ここで頑張れれば、やっていけるんじゃないかと思った土屋さんは、その世界に飛び込んだ。「入ったとき20人いた仲間が、1年後には5人になっていた。1年やれたときは、自信につながりましたね」。

 午前0時を回って仕事が終わってから、六本木の町でモデルになってくれる女性を探し、スタジオで撮影していたという。最高の機材がタダで使い放題。撮影後、スタジオ内を元通りに掃除して、朝を迎える。「2年半、お世話になって、チーフにもなった。そうなると、いろいろな写真事務所から内々でスカウトの声がかかるんです」。

 篠山紀信さんの事務所を選んだのは、写真界の頂点の1人でありながら、現役でアクティブにシャッターを切っている感じが伝わってきたからだ。「一般的にはヌードのイメージが強かったですが、それは篠山さんの仕事の半分以下。そのときで、10誌ほどの雑誌の表紙を撮っていましたし、建築物や作家など、あらゆる被写体を撮影していました」。


 自分の中には、篠山さんの血が流れていると土屋さんはいうが、助手として写真を習ったことはない。教わったのは、ものをクリエイトする写真家としての心構えだったり、人の心をつかむ術だ。「あるとき、日本を代表する女優の撮影があったとき、雑誌の編集長と食事になったんです。席は篠山さんと女優さん、そして編集長の3人分しか用意されていなかったのに、篠山さんが僕に一緒に食べなさいと言い、僕の分を用意していなかった編集長に“あなたは朝から彼が一緒に仕事をしているのを知っていたでしょう。それなのになぜ、彼を同席させないのですか”と言ってくれたんです。もうたまらないですよね」。光が演出するから、影が演技をする。空間があるから存在がある。いいものを見る、人に会う、いいものを食べ、飲む。それで加減がわかる。篠山さんの教えだ。

 独立後は、人とのつながりと、そこでやった仕事がまた新しいつながりを生んできた。つかこうへいさんとの出会いも、ある人の紹介だった。その後、つかこうへい劇団の舞台を見て、土屋さんは撮りたいと思った。「それでつかさんも僕に撮らせてくれた。ありがたいですよね」。

 数多くの写真家が舞台を撮影し、良い作品を残している。ただそれらはモノクロで、ISO400、800の高感度フィルムで撮影したものがほとんどだ。「同じことをやったら自分らしさが出ない。それじゃ、自分はカラーで、それもISO100で撮ってみようと思った」。


 ISO100のカラーフィルムだと、黒が黒くしまり、赤が鮮やかに発色する。だが絞りをF2.8にしても、シャッタースピードは1/8秒か、1/4秒でしか切れない。「俳優の動きが止まり、口だけ動く瞬間を狙ったり、シャッタースピードとしては長いその時間を、一瞬に感じられる写真を撮りたいと思っていました」。その撮影において、つかさんに「土屋勝義のやさしすぎる目が、レンズを通すと狂気をもつ瞬間が好きである」と言わしめた。

 JALの機内誌の仕事で、スイスに行ったとき、偶然、写真家の吉田繁さんに出会った。帰国後も時折、会うようになると、あるとき、吉田さんにEOS D30を使うように薦められたという。その後、CDジャケットの仕事で、そのアーティストの1日をできるだけたくさんスナップしてくれとの依頼を受けた。そのとき、吉田さんの言葉を思い出し、デジタル一眼レフを使ったのだ。「フィルムを崇拝するわけでもないし、デジタル万能だとも思わない。用途に応じて使い分けている。35mm判カメラで撮る仕事は、デジタルの機動力とスピード感覚があっているので、ほぼ100%デジタル。中判カメラで撮る仕事はフイルムカメラを使う」。

 今回の展示は「ほかのデジタル侍が海外ロケだったり、水中だったりするのに対し、僕は町内で撮るので、仕掛けを考えていたんです。デジタル侍のDM写真撮影のとき、アイデアが浮かび、これなら負けないと思った」という。切磋琢磨な関係だ。選んだテーマは「川」で、そこにモデル7人を使い、縦位置写真5枚を組み合わせ絵巻物風の世界を作り上げた。

 「僕はステレオも操作できないぐらいの機械音痴なんですよ。多少の画像処理はわかるけど、細かいレタッチなんかは興味ないですね」。 それでもクリエイティブにデジタル写真は創造できるのだ。


引っ込み思案の学生時代に写真が彩りを

川合麻紀さん。キヤノンに勤務していたことで、デジタルカメラは仕事でかなり早くから使っていた
 アフリカの自然に感動し、この大地を撮り続けてきたが、最近、自分が惹かれているポイントが、広大な空間と空の色の移り変わりにあることに気づいたという。ここではカナダで撮影したオーロラの光景を展示した。

 何度もお会いしていてまったく気づかなかったのだが、川合さんは左ひじに障害を抱えている。そのコンプレックスがあって、学生時代は1人でいることが多かったという。そんな内向的な高校生に、卒業アルバム委員の役がふられた。専門の業者が撮れない日常のスナップを撮ったり、生徒から写真を集め、アルバムを制作する係だ。家にあったミノルタ(当時)のコンパクトカメラを使って撮り始めたが、動く被写体がうまく撮れないため、キヤノンEOS 650を買ってもらった。

 写真をやっていれば時間もつぶせるし、人とのコミュニケーションもできるとあって、この趣味にのめりこんでいった。アサヒカメラを購読し、独学で学び、誌上コンテストにも応募した。妹のポートレートや風景を撮り、入門者コースで何回か入選したそうだ。

 大学では写真部には入らず、趣味で写真を続けた。ある日突然、なぜかわからないが300mm F2.8のレンズがほしくなって、親に頼んだという。成人式の振袖はいらないから、代わりにレンズを買ってくれと。「500,000円ぐらいしましたからね。店にレンズが届いたと連絡があり、行ってみたら600mm F4のレンズだったんです」。

 そのころ受注生産品であり、価格も1,000,000円ぐらいだ。店の間違いではなく、母親が600mmを注文したらしい。「なぜ? って母親に聞くと、大は小を兼ねるでしょって。レンズだけで6kgもあるから、撮るものもないので使わないでいたら、“折角買ったのに何で使わないんだ”と母親が言い始めた。しょうがないから野鳥を撮り始めた」。

 卒業後の進路は、カメラで仕事をしようとは思わなかったが、映像関係の仕事に就きたいと思い、何社か受けて、キヤノンに入社した。所属はカメラ開発部で、社外秘の技術資料を4年間作っていたそうだ。その間、社内に撮影するセクションがあると聞き、念願かなって宣伝部写真制作課に異動できた。「製品写真から建物、社長のポートレートまで、会社から出す写真は何でも撮りました。そこで初めてスタジオ撮影を勉強しました」。


 最初は4×5のカメラで撮影していたが、フィルムカメラと平行して、デジタルカメラでも撮影するようになっていく。それも発売前の開発段階からテスト撮影を行ない、作例写真を撮っていた。「最初のころのカメラは、白バックだと赤く写ったり、ライティングを調整しないとうまく撮れませんでしたね。宣伝部には4年いて、私が辞めたとき、EOS-1Vが発売されました」。

 在職中、友人の紹介でアフリカに行く機会があり、休暇をとって出かけた。1回が18日間ほどで、2年続けて通った。「アフリカの印象は強かった。すごい感動を覚え、この広い景色と空の色の移り変わりを人に見せたいと思ったんです」。

 それで1999年、富士フォトサロンに応募し、写真展を開く。それを見にきた富士フイルムの営業マンから「キヤノンさんに勤務しながらで結構ですから、アマチュアを指導する講師をやりませんか」と依頼されたのだ。

 2000年からフリーになり、雑誌の仕事をしつつ、自分の作品を撮り始めた。現在でも作品製作の場合は、デジタルカメラとフィルムカメラの使用率は、半々ぐらい。「選んで使っているわけではなく、そのとき適したレンズがついているカメラで撮る、ぐらいの感じかな。微妙な時間の発色は、フィルムカメラのほうが好き。デジタルだと均一的な感じがする。ただ日中の撮影や、動く被写体、撮影条件の悪いときにはデジタルのほうがいい」。

 地平線の見える広い空間で、空の色が混じりあい、刻々と変化し続ける。川合さんが好む被写体の条件を、オーロラは完璧に備えている。「オーロラは音がするという人がいるんですよね。心理的なものだと思いますが。今回は音を感じる景色を撮りたかったんです。けど異常気象で、2週間のうち、3回しかオーロラが見えなかったので、そこまでの映像が撮れませんでした。

 ただここのところ、どこに行っても異常気象といわれることが多く、環境への危機感は感じます。その意味で今回のテーマにあっているのかとも思っています」。


釣り好きが嵩じて水中写真の道へ

豊田直行さん。「EOS-1Ds」を世界で初めて海に沈めた男だ

 最近発見した、東京湾の手つかずの自然。ここには北の海に生息する海藻と、南の暖かい海を好む珊瑚が共存する。海のなかの世界を見続けてきた写真家だから発見でき、人々に訴えかけられる重要な事実がここにはあるのだ。

 個性的なデジタル侍の中で、豊田さんの経歴は群を抜いて異色だ。東京水産大学(現・東京海洋大学)水産学部を卒業し、船舶用電子機器メーカーに勤め、その後、漁師になった。

 豊田さんの出発点は、小学校3年生からから始めた釣り。水産大学を選んだのも「もっと釣れるようになるんじゃないか」と思ったから。大学時代にダイビングを始めたのも「魚は釣れるときと釣れないときがある。何でそうなるのかを解明するために、海に潜ろう」と考えたから。

 サービス満点、面白すぎる進路決定理由だ。就職した会社は、魚群探知機を作っていて、仕事で海に行け、漁師さんともつきあえたので、楽しい職場だった。一方で、このままサラリーマンで一生を送っていいのか? という思いが募っていった。「このまま会社にいたら、なにかをやりたいという意識が薄れてしまう。そのことが怖くて、いきなり会社を辞めました」。

 それで付き合いのあった漁師を頼り、伊豆七島の神津島で漁師になったのだ。豊田さんは「真似事でしたが」と注釈をつけるが。ただ漁師だけでは生活はできず、ダイビングインストラクターの資格を取得し、夏はその仕事を始めた。「これまでもどうにかして海の世界の素晴らしさを人に伝えようとしてきましたが、言葉だけではうまくいかない。そこで写真で見せればいいと、カメラを購入しました」。

 とはいうものの、撮影は自己流。自分が感じた海の世界を伝える写真は、なかなか撮れない。そんなあるとき、釣り雑誌の編集者と西麻布の居酒屋に入ると、そこに写真家の中村征夫さんがいた。もちろん面識はないが、思い切って話しかけてみると、気さくに話し相手になってくれて、そのうえ「アシスタントを募集しようと思っていたところなんだ。君、どうだい?」と言ってくれた。

 その1カ月後、本当に電話があり、陸上と水中で撮った写真を20カットずつ持って、中村さんの事務所にうかがうことになる。「写真については、予想通り酷評でした。4倍のルーペではわからなかった手ぶれが、10倍のルーペではわかる。プロはそこまでシビアなんだ、自分には足元にも及ばない世界だったんだと思い、帰ろうとしたら、中村さんが“明日から来てくれるんだろう”」。


 技術を盗むとよくいうが、実際どういうことなのか。皆んな、知ってるつもりになっていませんか。代表して私が豊田さんに聞いてみました。 「撮影で海に入るときは、助手である私がワイドとマクロレンズをつけたカメラを2台持って入ります。ワイドを使うと中村さんが手ぶりで指示をくれるので、そのカメラを渡す。次の被写体に向かい、カメラを交換する。渡されたカメラには、そのとき撮影したデータが残っているじゃないですか。ああいう被写体には、このデータで、ストロボはあんな具合に当てればいいのかがわかる。撮影済みフィルムを現像所に出しに行く。一番最初にでき上がりが見られるのは、フィルムを持っていった僕なんです。そこで本数のチェックをしつつ、どんな風に撮れているのか確認するのです」。

 デジタルカメラを使い始めたのは、フリーになって、雑誌でフォトコンテストの審査をしたとき、同じ審査員だった吉田繁さんに「猛烈に」薦められたからだ。会うたびに「デジタルはすごい。水中は暗いから、暗いところはデジタルが有利なんだ」と啓蒙され続けていたという。「水中カメラマンでデジタルを使っているプロはいない。であれば、やるならいまだと思った」。

 6年前、キヤノン EOS D30とハウジングを購入した。総額約1000,000円の投資だ。いま、使っているフィルムカメラで撮れるのに、なんで新しいカメラが必要なのかと反対する奥さんを「人のやらないことをやらなくてはダメだ。それには投資が必要だ。デジタル水中撮影に豊田ありと言わせるのだ!」と説き伏せての断行だ。

 ただ、その後も、フルサイズでないと水中でワイド感を出せないため、EOS-1Dsが発売されたときも追加投資をすることになったのだが。そのときの投資額はハウジング含め約1300,000円也。このときは「世界で初めて1Dsを水中に沈めた男」と注目を集め、キヤノンサロンで写真展を開くきっかけにもなったという。


 使ってみると、デジタルは素晴らしい。フィルムでは36枚の束縛があり、60分の潜水時間のなかで、どのペースで撮影しようか、いつもやりくりを考えていた。それがなくなった。「ただ常に水没の危険性をはらんでいるので、メディアは2GBで、できるだけマメに交換するようにしています。2GBだと、RAWとJPEGで撮影して94枚ぐらいですね」。

 それとフィルムカメラでは、潜る前にフィルムを選び、感度設定をしておかなければならない。潜ってみて、思っていた状況と違い、「失敗した!」なんてこともないわけではない。ホワイトバランス、感度が変えられるデジタルカメラでは、その作業がボタン操作で水中でも行なえる。


 さらに、思い描いたイメージをその場でチェックできることだ。このメリットは大きい。撮影した画像は、水中で背面液晶を使い確認できる。フィルムではつねに「撮れただろう」だったのが、「撮れた」になった。「思い通りに撮れていなければ、被写体がそこにいる限り、何度でも撮り直せる。また撮った画像を見ることで、さらに発展させたイメージがでてくることもしばしばあるんです」。

 豊田さんが最近、取り組んでいるテーマは、「海の森、山の森」というものだ。海の森とは珊瑚や海藻のことで、魚が産卵したり、子育てをする場所になっている。地上の森も、動物を守り、生かすための役割を担っていて、「地球的なレベルの視点」で、現在、作品を制作中だ。

 そして今回の作品は、その海の森をモチーフにしつつ、報道写真的な意図があるという。珊瑚(ミドリイシ)の北限が東京湾にあると聞き、潜りに行くと、人の背丈ほどもあるソフトコーラル(海藻)が林のように群生していた。「一般が立ち入り禁止の区域で、地元の漁師さんに断り、許可を得て潜りました。30年前、僕が最初に潜っていたころの伊豆の海を思い出させる、手つかずの自然が残されていたんです」。

 東京湾にはまだまだ残すべき自然があり、大切な環境がある。それを訴えたくて、今回の写真展で作品を発表した。「東京湾周辺にはとんでもない数の人が生活していて、みんなが無自覚でいれば、いまある貴重な自然は簡単に失われてしまいます。これをきっかけに、雑誌や新聞、写真集で取り上げられ、世の中にアピールできればと思っているのです」。


広告写真から風景写真へ転向

これからの目標はファインアートプリントの制作と販売。その初めてのお披露目がこの「風林火山絵巻」だ

 A1サイズの特大プリントに出力されたモノクローム映像は、間近で見てもじつに精細だ。この作品は、1枚の画像を32コマに分割して撮影し、それを組み合わせているからだ。撮影カメラはEOS 30Dだが、作品1点の総画素数は1億画素を超す。

 吉田さんの写真体験は、小3のとき。弟がバレー(踊るほうです)をやっていて、それを被写体に写真を撮った。その作品を雑誌「子どもの科学」の月例に応募したら、見事、入選したのだ。

 大学は日本大学だが、学部は経済。所属していたのはグライダークラブで、航空無線通信士の免許を持ち、飛行時間も200時間を超えていたという。「飛行機が好きだったんだ。ただそっちで食っていくのは難しいと思い、写真を選んだ」。なぜ、また唐突に写真が……? 「それまでに褒められた経験っていうのが、子どもの科学の入選しかなかったから。そういう記憶って強いんだよ」。

 グライダーを撮影した作品を持って、アシスタントになるためにスタジオを回り、あるスタジオに入った。そこでは自分の作品を撮るヒマもなく、仕事仕事。1年後からは、広告関係のブツ撮りのスタジオを転々としていた。

 デジタルカメラを使い始めたのは、そのころからだ。大手時計メーカーの仕事で、撮影時に用意されるのは完成品の前段階のもの。針だけ前のモデルのものしか用意できなかったため、あとで針だけ撮影して、合成して完成させる。使ったカメラはキヤノン「EOS DCS1」から始まっている。

 あるとき、仕事で屋久島に行った。撮影する縄文杉は、標高1,300mの場所にあり、そこにたどり着いたときには、疲労困憊していた。「杉に寄りかかり、休んでいると、心地よい風が吹いてきて、鳥のさえずりが聞こえてきた。そこで急に、生かされていることに感謝する気持ちに満たされたんです」。

 そんな旅ならいいなと思い、巨木をテーマに撮り始めた。1990年ころのことだ。巨木に関しては資料がなく、一から自分で調べなければならなかった。情報収集の拠点のひとつが、イギリスにあるもっとも有名な植物園であるキュー(Kew)ガーデンだった。


 情報を集め、国内は約300ヵ所、海外はおよそ20ヵ所を探し出し、場所によっては何度も通って撮影してきた。その成果は「地球遺産 最後の巨樹」と「地球遺産 巨樹バオバブ」という2冊の写真集にまとめられた。一冊目は12,000部、2冊目も昨年末の発売ながら4,000部を超している。価格が3,000円を超す写真集としてはかなりの販売部数だ。

 「売る努力をしているからです。この写真集は写真が好きな人が購入者のメインではなく、木や植物が好きな人が買ってくれるはずです。そうした団体やグループにDMを送ったり、サイトにリンクを貼らせてもらったりしました。ただ書店に並べても売れませんよ」。

 冷静な分析と行動力。それが吉田さんの真骨頂だと思う。

 吉田さんの被写体のテーマは巨樹から、遺跡に移り、発表形態もオリジナルプリントに関心が移っている。写真界では、絵画のように、なかなかコレクターが育たない。同じ複製でもリトグラフのほうが、まだ市場が育っているはずだ。「日本でオリジナルプリントを買う層がまだ分からないんですよ。プリントの売買について研究したくて、先日は、ニューヨークのギャラリーを見てきました」。

 そこで感じたのは、プリントを売りたいならば、写真家はアートとして完成度の高い作品を作らなければいけないということだ。日本のコレクター市場をいくら嘆いても、価値のある作品を作っていなければ話にならない。

 そこで考えたのが、デジタルカメラで分割して撮影した画像を組み上げる「ステッチ」技法だ。フィルムカメラのころから、分割した写真で1枚を作る手法はあったが、プリントをつなぎ合わせるやり方で、つなぎ目のずれは許容範囲内という作り方だった。それが吉田さんの作品ではまったく分からない。最初からワンカットで撮影された写真に見える。 「目の覚めるような解像感のあるファインアートプリントを作って行きたい。10年ぐらいのスパンを考えてやっていきますよ」。

 オリジナルプリントの販売を狙い、5月19日(金)~6月3日(土)には東京・銀座の画廊、ギャラリー新居 東京店で「11人のフォトグラファーによるファインプリント展」に出展する。こちらの開館時間は11時~19時(土曜は~18時まで。日曜休館)。



会場:キヤノンSタワー2Fオープンギャラリー
    東京都港区港南2-16-6
    CANON S TOWER 2F
    Tel.03-6719-9111
会期:5月10日(水)~31日(水)
開館時間:10時~17時半(日、祝日休館)



URL
  キヤノンSタワー オープンギャラリー
  http://cweb.canon.jp/s-tower/floor/2f/gallery/d-samurai/index.html



市井 康延
(いちいやすのぶ)1963年東京生まれ。久しぶりにギャラリーめぐりに1日を使った。これまでのように自由にギャラリーに足を運べないので、見たい写真展を効率よく回れる日を選ぶ。通常より早く終わる最終日は要チェックだ。良い写真展を見るには事前の情報収集が不可欠。ということで、写真展情報を掲載したホームページ( http://photosanpo.hp.infoseek.co.jp )を作りましたので、一度、ご覧ください。

2006/05/16 19:40
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